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あの日以来、周りのものはサヤにきつく当たることはなくなったものの、澱む心の内側は恐怖・疑惑などの感情でさらに黒く染まっていた。
誰もあの夜の出来事を忘れてしまったわけではないのだから当たり前のことだろう。
それらがいつか何かの引き金になると、そのときは誰も思いはしなかった。
サヤと少女はいつもと変わらず、ちょっとしたことに言い合い、笑って時を過ごす。
ただサヤは決まった時間にどこかへ出かけてしまう。
別に前のように屋敷から出て行くわけでもなく、少女の隣からいなくなってしまうだけ。
しかしそれが毎日続くとさすがに少女も疑問を抱きサヤに訊いてみるものの、彼女はさらっとかわしてしまう。
「だから、ちょっとした散歩よ。前とは違ってずっとここにいるんだもの、一人でいる時間が必要なの」
「それはそうかも知れないけど・・・」
「だったらそれでいいじゃない?じゃぁ、行ってくるね」
――――散歩って何時間もかかるものかしら?
湧き出る疑問は尽きることがなく考え込んでいると、サヤは生き生きとした明るい表情で部屋を出て行ってしまった。
追いすがることもできなくて残された部屋の中、少女は心細げに佇んでいると、見計らったように彼女の護り手であるソロモンがドアを開けて入ってくる。
どこかしょんぼりしている彼女に彼は小さく微笑み、彼女との距離をつめる。
「追いかけたらどうですか?」
尋ねる彼の声は少しからかうようにどこか楽しげに聞こえて、少女は悔しそうに上目遣いで見上げてくる。
そんな少女のかわいらしい行動に思わず目元が緩む。
「・・・そうですね。では私たちも散歩でもしましょうか」
「え・・・?」
促すように差し出される手に困り、ソロモンを見つめ返せば、彼はいたずらをするような眼を少女に向けて軽く片眼を閉じてみせる。
彼の提案に驚いたもののその意図を読み取って、自然と笑顔が戻る。
軽やかに進み出てその手を取ると、サヤが去った後を追って少女も部屋から姿を消した。
その後誰もいない部屋の中では、午後のティータイムにと持ってくるように言われていたセットを持って、呆然と佇み『部屋を間違えたか?』
などと言いっているカールが目撃されることになるのだが、彼女たちが知るはずもない。
ソロモンに導かれるまま、少女は歩き続ける。
普段そんなに歩き回ることのない場所へと進み、色とりどりの花たちが誇らしげに咲く中庭を通り過ぎ、木々の色が一段と濃くなっていく。
部屋のある屋敷はどんどん遠ざかって、今では木々が森のように覆い被さり高い塔が突き出ているくらいしか見えない。
広い敷地であることは知っていたが、ここまで遠く離れてしまうと少女にはもう異界のように思えてしまう。
少女の歩幅に合わせて歩いてはいるが、サヤのいる場所を知っているかのように迷うことなく進み続けるソロモンを見上げる。
彼は少女の視線に気づけば微笑んで『もう少しですよ』と告げた。
そんな会話をして数分後、微かに流れてくる旋律に少女ははっとして歩みを止める。
そんな少女を促し歩き続けると、ソロモンは急に隠れるように木陰へと少女を招き、身を屈める。
彼に倣って少女も隣にしゃがみ込むと、ソロモンが静かに指を前方へ向けるので、つられて視線がそちらのほうへ向く。
生い茂る木々の合間から届く緩やかなメロディー。
視線の先にはまぎれもない半身の姿。
柔らかな表情で石段にもたれかかり、うっとりとその曲に酔いしれるかのように瞳をゆっくりと閉じては開く。
木々に隠され姿の見えない奏者を見つめてはその視線を逸らし、それを何度も繰り返す。
屋敷の中では見たこともないほど穏やかな表情をしているサヤに、少女は驚きを隠せなかった。
柔らかく途切れたメロディーにサヤは不思議そうな眼をして顔を上げ、瞳に映る傍らの存在に無言の疑問を投げる。
その視線に眼を向け、物言いたげな表情を返すハジに不安を覚えてそっと擦り寄り腕を絡めると、彼は静かにチェロをケースへ戻しサヤの頬に手を添える。
「サヤ、貴女に訪ね人です」
言われて辺りを見回すがどこにもそれらしき人影はない。
再び視線を戻して小首を傾げてみる。
その動作にハジは思わず微笑み、名残惜しげに添えていた手を別の方向へ向け示した。
誰もいない木々の狭間。
耳に届くのは葉の奏でるざわめき、駆ける風音、どこからか響く鳥の羽ばたき、不安げに見返せば触れる存在の囁く声。
「傍にいます」
「・・・ハジ・・・」
優しい誓いに心は和らぐ。
――――ハジがいるなら大丈夫、私は私でいられる
「・・・そこにいるのは誰?」
凛としてハジの示した方向へ声を発する。
出てこなければこちらから仕掛けるつもりでサヤは言った。
しかしその考えは採用されることはなく、逆にすんなり現れた人物に逃げ出したくなった程だ。
現れたのは護り手を伴った自分の片割れ。
どこか泣きそうな表情にサヤは戸惑った。
「サヤ・・・その人って」
「・・・出てきなさいよ、答えるから」
サヤは見つかってしまったものは仕方がない、と諦めてか細い声の主を呼ぶ。
青々とした茂みの中から慣れない足取りで出てくる少女とそれを支えるように手を取るソロモン。
きっと彼がここを教えたに違いないとサヤは思った。
「その人ってあの夜一緒にいた人ね。諦めたんじゃなかったの?」
少女の疑問にやっぱりそれかと頭を軽く振る。
手はハジを捕らえたままサヤは事も無げに答えて返す。
「認めたじゃない、人でないなら一緒にいてもいいって。多少特殊ではあるらしいんだけどハジは私たちと同じよ」
「え・・・?でも、あのパーティーには来てなかったわ」
その言葉にサヤは黙った。言いたくないという素振りでそっぽを向く。
拗ねた子供のような態度を取るサヤを見下ろしてハジが代わりに答える。
「彼らにとって私は好ましくない存在ですから」
そう言った彼自身は全くどうでもいいことのように表情一つ変えないのに、それを聴いたサヤは大きな傷を負わされたかのように苦しげなものになる。
『私は気にしていません』と彼が言ってもその表情は変わらず、彼の腕に額を当ててうつむいてしまう。
落ち込むサヤにハジは困り果てているようだった。
「サヤ、もう言わない。だからそんな顔しないで」
ハジを見上げるサヤの眼は未だに悲しげな色を湛えていたが、しばらくして小さく頷く。
二人のそのやり取りに少女はかける言葉が思いつかなかった。
ハジに対するサヤの感情は計り知れず、またハジも深くサヤを大切に想っている。
切り離せないものを見せ付けられた気がして少女は微かな悔しさを覚えた。
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