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暗い夜の中、遠く獣のような咆哮が響きわたる。
急速に遠ざかる殺戮のダンスホールをぼんやり眺め、サヤは耳を掠める風の音に聴き入った。
しっかりと自分を抱かかえる腕に全てを預け、まわした自分の腕から伝わる温もりに現実を確かめる。
少し遠くまで離れた時、サヤは地上へ降り立った。
土を踏む実感に足がふらついて傍らの影にしがみつく。
そんなサヤを支えて気遣わしげに覗きこむ瞳に、サヤは微笑んで返した。
「ハジ・・・」
相手の名の響きに涙が浮かぶ。
頬に添えられた指を自身の手で包み込み、小さく『平気』とつぶやいた。
彼は自分の手を包むサヤの手に視線をやり捕らえると、何を思ったのかその細い指を自分の唇へと引き寄せ、まとわりつく鮮血を舐めとる。
その彼の行動にサヤは青ざめた。
「だめ!!私の血は毒なの!!死んでしまう!!」
必死で手を引き戻そうとするが掴まれた手はハジの手から離れることはなく、伝う紅に沿ってなぞる舌先の感覚に戸惑う。
何度も感じる慣れない感覚にどうすればいいかわからない、かと言ってそのままにも出来るはずもなく、小さな悲鳴と抵抗を続けるサヤに彼はようやく面を上げた。
唇に微かに残る鮮やかな朱色を指で拭い去る。
彼の眼に映るのはサヤの恐怖に満ちた瞳。
彼自身に対するものではなく、彼女が予想する未来への恐怖。
それに気付くとハジはサヤに柔らかく笑ってみせた。
「サヤ、怖がらないで。貴女の血は、純血種でない私には何の害もないのだから」
彼の言葉をサヤはすぐには理解できなかった。
その様子を見取ってハジは音を継ぐ。
「多少、貴女の血族の血が混じっているため不老不死であったりしますが、どうやら私の身体は特殊な構造を持っているらしい」
「・・・ハジ・・・貴方は・・・」
穏やかに告げられる真実に意識は揺らぐしかなかった。
ハジが自分の血で死なないという事実を何よりも先に確かめたくて、ためらいがちに自由な方の手をかざし彼の頬に触れ、緩やかにその輪郭をなぞる。
進み出て相手の胸に耳を押し当て、内側から響く拍動に眼を閉じる。
まだ整理のつかないうつろう思考の下に行われる無意識の動作。
ハジはただ静かにそれを甘んじて受ける。
周りのざわめきと静寂だけが感じられる中、サヤがゆっくりと落ち着きを取り戻す頃、遠くから彼女を呼ぶ声が風に乗って流れてくると、サヤはハジにしがみついて小さく泣きそうな声で言った。
「・・・もう、帰りたくない」
涙に歪む視界にハジを映して見上げる。
彼の表情はわからないが、望みを言えば叶えてくれる気がして繰り返す。
「もう、帰りたくないの・・・貴方のいない場所へは・・・」
「サヤ!!」
彼へとつむがれる言葉は、途中で新たに現れた音にかき消され、二人の意識はその声の主へと切り替わる。
現れたのはサヤの半身。
息を切らし、心配そうなそれでいてどこか不安げ表情をして数メートル離れた場所に佇み、その数歩後ろには彼女の護り手たちが控えている。
少女の出現に無意識に怯えたサヤは、いつの間にかハジに庇うように抱きしめられていた。
「心配したのよ、サヤ。無事でよかったわ・・・さぁ、部屋へ戻りましょう。皆正気を取り戻したし、もう貴女を誰も悪いようには言わないわ」
差し出される少女の手をハジの腕の中でじっと凝視するだけで、いつまでも動こうとしないサヤに少女は小首をかしげ、距離を縮めようとした。
ハジはサヤを促し、少女のその動作に合わせて同じようにゆっくりと後退する。
一定の距離を保とうとする彼らに少女は困惑した。
「どうしたの、サヤ?」
「・・・サヤは帰ること望んでいない」
彼女の問いにハジは代わって答える。
いつもと違う低く無機質な声色にサヤは彼の裾を軽く引き、振り向く瞳を不安げに見つめ返す。
自分に返される視線が変わらず穏やかとわかると、彼の耳元へ口を寄せて小さく囁く。
それに対して彼は『貴女の望むとおりに』と同じように囁き返し、サヤを庇う腕を解いた。
そんな二人のやり取りに少女は訝しげな顔で眺めていた。
対峙する半身の傍らに寄り添う人物に思い当たるものがなく、彼女はサヤが街で会っている者だと考えて声を張り上げる。
「サヤ!!あの時、私の言ったことが理解できなかったの?私たちは人とは生きていけないのよ!!」
「・・・知ってる。あの時も言ったでしょ?・・・」
少女の声にサヤは静かに返した。
怯える身体に鞭を打ち、揺れる意識を支えて対峙しているなどと気取られるわけにはいかなかった。
ハジはサヤが言えばきっとここから連れ出してくれる。
だが自分の半身もまた同じように追ってくるとわかっていた。
ここで認めさせなければサヤに心静まる時は訪れない。自分が求める現実を得るために、サヤは彼女に向き合い毅然とした態度で答えを返さなければならなかった。
「・・・まさか本当にその男性と生きるつもり?人間なのよ?!貴女を置いて先逝く者よ?!」
「・・・人でないなら許してくれるの?」
いつもと違い、冷静に挑発的に返してくる半身に少女は苛立ち、やけになって肯定する。
その肯定を聴いたとき、サヤは強張る身体から力が抜けるのを感じた。
安堵の表情を浮かべ、傍らの存在に振り返り微笑んだ。
向けられた笑顔に緊張した空気をまとっていたハジも柔らかな表情になる。
「サヤ?」
突然切られた会話に少女は『聞いてるの?』と言わんばかりに半身を呼ぶ。
だがサヤは『帰るわ』と一言寄こしただけでそれ以上の会話を望んでいないようだった。
帰ると言ったはずのサヤがいまだその場を動こうとせずにいることに少女は再び困惑した。
近づいてももう距離を取ることはなく、ためらいがちにサヤに触れようと伸ばされた手はすんなりと望む相手へ届く。
彼女の手を取り少し困ったように笑って返すので、さらにわからなくなる。
多少動揺の中、戸惑ったものの、サヤを連れ戻すために来たことを思い出して、触れたままのサヤの手を引いて戻ることを促した。
歩けば大人しくついてくるサヤに満足しつつも、どこか不安を覚えて振り返る。
しかしその眼に映るのは自分の半身と深い夜の闇に包まれた見慣れた場所。
「どうしたの?」
サヤは不思議そうに少女を見つめて訊いてくる。
その声にはっとして『なんでもない』と返すと護り手たちを伴い、再び来た道を戻り始める。
そのとき少女は気付くべきだった。
サヤが大人しく帰る意味に。
そして彼女が振り返った闇の中に、先ほどまでサヤに寄り添っていた青年の姿がなかったことを。
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