T

 

「サヤ!!おとなしく儀式を受けなきゃ!!」

鈴を転がすような声が静止をかける。
薄い青色を基調としたドレスの裾を持ち上げて、懸命に前方を駆ける少女に追いすがる。
いくら走っても距離が縮まらず、逆に開いている気がするほどだ。
サヤと呼ばれた少女は追いすがる少女とは対照的に薄い赤色を基調としたドレスだが、丈が短いためか走ることに対して何も妨害するものがない。

「嫌よ。称号なんて私いらないもの」

サヤが言う称号とは、彼女たち一族の女性が15歳になると必ず受けるもので、特にこの少女たちには特別な号が与えられる予定だった。

 

「貴女が受ければいいじゃない。『歌姫』なんて私に合わないし、それ以前に興味ないもの」
「貴女が受けなきゃ私も受けないわ!!」

息の上がるのを感じつつ、遠く離れてゆく自分に似たサヤに声を荒げて言う。
振り返ってこちらを見るサヤは全く息を乱していない。
双子なのに・・・と正反対な自分たちに少女は時々思う。

 

「貴女は受けるわ。一族のために、とか言って。私はね、束縛されるのが嫌なの。称号を与えるだとか、護り手が得られるだとか、そんなのいらない。私は私の意志で生きるんだから」
サヤは凛とした声で返して、追いすがる少女を振り切ってしまった。

残された少女は悲しげに顔を歪めてしばらくサヤが消え去った廊下を見つめていた。
「私にもサヤみたいに強く言える心があればよかったのに」
少女の声は誰もいない廊下の奥へと吸い込まれて消え失せた。

 

 

 

飛ぶように駆ける少女の髪を風が煽り、景色がゆっくりと近づいては見えなくなる。
どれほど走っただろう。
息は上がっていないのだが、だいぶ遠くまで来たと思う。
自分の部屋がある屋敷は遠く、辺りを木々が囲んでしまっていて正確な距離がつかめない。
遠くへ来たことへはなんら興味はなく、屋敷に背を向けて誰も知らない秘密の場所へサヤは歩みを進める。

 

見つけたのはほんの偶然。

いつものように部屋から抜け出して、追ってくる双子の少女を振り切って、近くの森の中を探検しに行った。

森の奥まで行ってみたくて、思わず行動に出てしまったのがきっかけ。

聴こえる微かなざわめきに誘われて木々の合間を駆ける。
行き着いた先、あの人に逢った。
人から切り離された場所で、木漏れ日の中静かに佇むあの人に。

 

いつもと変わらずあの場所に彼はいた。
あの人はこの森の一部のように、忍び足で近づいても絶対に気付いてしまう。
気付いたら振り返って微かに笑ってくれる。
その雰囲気が好きだった。

「ハジ」

サヤは彼の名を呼んでみた。
どんな反応を示してくれるだろうかと。

 

逢ったのが一ヶ月前で、名前を知ったのがここ数日。

何も知らないことだらけな彼を知りたくて、いろんなことを訊いてみるけど、彼は言葉少なく返すだけ。
今ではそれが彼の話し方で、他は全部行動に出るとサヤはわかっている。

 

最初は何も言わず、どこから持ってきたのかわからないチェロを弾いていた。
サヤも何も言わずただ近くで聴いていただけ。
そんな出会いだった。

「また抜け出してきたんですか?」

からかうように尋ねてくるハジに、膨れて返す。
「またじゃないわ。いつもだもの」
「褒められたことではありませんね」

サヤの拗ねた物言いに、ハジは小さく笑って言った。
彼の微笑みに釣られてサヤも笑う。
この時間がサヤにはとても嬉しいものだった。

「だってあの中って窮屈で、しきたりとか作法とか息が詰まりそうなんだもの。ここはそんなの関係ないし。私、ハジといるこの時間がとても好きだわ」

明るく笑ってサヤは言う。

縛られることが嫌いな彼女にとって、自由気ままにいられる場所は確かに好ましいだろう。
何をしても制約はなく、ただ思うとおりに時を過ごす。

 

ただひとつ残念だと思うのは、日が暮れる頃には戻らなければならないこと。
屋敷の者が騒ぎ立てて捜索しだして、この場所を見つけられるのが嫌だからサヤはしぶしぶ帰るのだ。


可能ならば帰りたくない。
あの家にサヤの場所はないのだから。

 

思い出すと気持ちが沈む。
閉じ込められた灰色の世界、サヤの眼にはそんな風に見えていた。
どれだけ豪華なドレスや装飾品を身につけてどれだけ鮮やかなオブジェで部屋を飾ったにしても、サヤには色あせて見えてしまう。


木々に囲まれたこの場所がその光景に対してどれほどの色を持っているのか、言葉では言い表せない。
眼に眩しく、あの色あせた世界の中でも眼を閉じれば鮮やかに蘇る。

その色に焦がれて、いつも夜が明けるのを待ち遠しく過ごすのだ。
窓から冴える夜の景色を眺め、あの場所に行けたならと思う。

 

表情を失いうつむくサヤの頬に何かが触れる。

はっとして顔を上げれば視界には蒼の瞳。
気遣わしげに尋ねてくる目線。
頬には添えられた彼の指先。

 

間近に彼の顔を見て慌てて距離をとる。
触れられていた頬が熱を帯びていくのがわかるせいか、サヤは目線を合わせられずに顔を手で覆ってしまった。
ハジはそんなサヤを見て小首をかしげるだけ。

「サヤ、どうしました?」

心配して近づいてくるハジの足音に、まだ冷めない熱を抱いたままサヤは踊る心を抑えようと必死だった。

しかしその抵抗もむなしく、肩に手を掛けられた瞬間、自分の顔を見られたくなくて思わず彼に抱きついた。
顔をうずめて腕を背にまわして、困惑しているであろう彼の視線を感じつつ紅潮した表情を見られたくない一心でしがみつく。

 

しばらくそうしていると、ためらいがちにハジは自分にしがみついたままの少女を抱き込んだ。
優しい仕草で髪を梳かれる。
黙ったままサヤはその行為を受け入れ、静かな相手の心音にだんだん落ち着いてくる。

ほっとして手に込めていた力を緩め、おずおずと自分を包み込む彼を見上げた。
自分を優しい瞳で見下ろす視線とぶつかる。
その視線に再び微かな熱が込み上げてくる。

 

「落ち着きましたか?」

低く囁くような声が耳をくすぐる。
その声の心地よさに再び顔をうずめて小さく頷いた。
今度は相手に自分を預けるように、甘えるようにその心音を聴く。
そんなサヤの行動を拒否することなくハジは受け入れる。

 

自分がしたいときにできる空間を作り出しているのは彼のせいかもしれない、とサヤは思った。

止めることなくただ寄り添ってくれる、それだけでサヤは満たされた気持ちになる。
あの家では持つことのない気持ち。
『サヤ』という存在を全て受け入れてくれる、そんな彼が何より好きだと思った。

 

「ねぇハジ、チェロ弾いて」
小さな甘えた声で軽いわがままを言ってみる。
その後の反応がわかっているのに言ってしまう自分がいる。
彼は予想通りわかりましたと一言置いてサヤを離し、木に立て掛けてあるケースからチェロを取り出しに行ってしまった。


自分から言い出したことなのに、急に失われた体温に何故か寂しさを感じて心細くなる。
そんなサヤの心情を感じ取ったのか、立ち尽くすサヤを振り返り、ハジは手を差し出した。

差し出された手に一瞬戸惑ったが、寂しさに耐え切れなくて駆け出しその手をとる。
引き寄せられて額に軽い接吻を受けると、サヤは頬を朱に染めた。

 

――――全部、見透かされてる。ハジにはわかっちゃうんだ

 

気恥ずかしさにうつむいたままハジに手を引かれて歩く。
チェロをケースから取り出すと、蔦が絡まり、無造作に積み上げられた石段の上に腰掛けて、彼はチェロを弾き始める。
サヤはその隣に座って彼の奏でるメロディーに大人しく聴き入った。