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暗い、暗い、一面の闇。
ここに留まってるのは、他人事のように切り取られた感覚とそれらが伝えることだけ。

さらさらと、ざわざわとそよぐ木の葉のすれる音
ひんやりと冷たい土の感触
いつも傍にある優しい匂い
柔らかに髪を撫でる手のひら


――――・・・爺さん?


けれど隣に人の気配は感じられない。
広い世界の中で、たった一人横たわっているような感覚だけが自身を取り巻く。
存在するはずのない感覚

 

『何故憎まねばならぬ・・・これほどに・・・』

 

――――誰・・・?


柔らかに降る声色に導かれるように覚醒する意識は思いに添って、固く閉じられた瞼を押し開く。
突如開けた闇の世界は穏やかな光に霧散し、切り離されたままだった身体の感覚と意識が鮮明に舞い戻る。
降り注ぐ木漏れ日がこじ開けた瞳を刺し、その光の眩しさに思わず眼を細めて手をかざした。
視界が次第に慣れてくれば、まだ上手く連結の取れていない身体でゆるりと周りを見渡す。

辺りに広がるのは木々の群れと静かに陰影を落とした地面。
枝から切り離された無数の木の葉が、ささやかな舞を舞いながら慎ましやかに降り積もる。

 

感じたとおり、自分の周りには人の影すらないことに怪訝になりつつも上体を起こすと、何かが滑り落ちた。
視線を下げれば見慣れた柄の着物が膝の上に掛かっており、数枚の木の葉を包み込んでいる。


――――・・・爺さんの上着・・・そういえば爺さんは?


ふと思い当たって、慌てて辺りを再び見回す。
だが陰影の深い森の中に、見知ったものの影が現れることはなく、静かにそよぐ木々の声と舞い踊る木の葉だけが童子を見守っていた。

 

「・・・どうして俺は、ここに・・・?」

重久と老人が話している最中に陰気の強さに気分が悪くなった、というところまでは記憶にあるが、そこから先がどれだけ手繰り寄せても白紙のままだった。
自分が何故ここに横たわっていたのかがわからず、また老人の行方も知れなかった。
深緑の中にたったひとり、という孤独感が童子を苛む。

無意識が膝に掛かっていた着物を手繰り寄せ、縋るように抱きしめる。
先ほどの存在しないはずの手の感覚を確かめたい、という好奇心を打ち負かすほどに怯える心。
いつもなら優しく差し出される手を握り返し、穏やかな気持ちで老人の傍にいるはずなのに。


――――とにかく、麓へ行けば何かわかるかもしれない


冷えてしまった心に鞭を打って立ち上がり、気持ちを落ち着かせたくて、手に抱えていた着物を羽織る。
足元すれすれを裾がはためき、足りすぎる裄は童子の手をすっぽりと隠す。
鼻腔に届く、よくかぎなれた薬品の匂いが不安を押しのけ、その押しのける勢いのまま、童子は意を決して足を踏み出した。

歩くたびに枯葉の乾いた音がついてきて、その音から逃げるように速まる歩行。
気付けば目指す場所もなく、ただ一心に木々を掻き分け斜面を駆け下りていた。


――――爺さん、どこ・・・?


逸る心と不安な気持ちが身体を急かす。
今まで何も言わずに離れ離れになったことがなかったため、童子はひどく動揺していた。

 

 

「っきゃぁ!!」

突然起こる甲高い叫び声。
聴こえたと認識するが早いか、童子は前方から現れた人影に駆ける勢いそのままに衝突し、なだれ込むように倒れた。
枯葉が敷き詰められた地面にしたたかに打ちつけられ、駆ける痛みに小さく呻く。

「っ・・・ちょっと、大丈夫?」
「・・・」

訊ねられる労りの言葉に驚きつつも身体を起こすと、童子はつられるように頷いた。
打ち付けた箇所はそれほどひどいものではなく、今は痛み小さなものになっている。

「貴方、どうしてこんなところにいるの?ここが禁域だって知ってて入ってきたの?」

詰問するように再び寄こされた問いに童子は顔を上げ、改めて自身が衝突した者を見る。
柔らかな色彩で彩られた着物を身につけた15・6の少女。
緩やかに束ねられたしなやかな黒髪は、風が吹くたびにさらさらと軽やかな音を立ててなびき、その木の葉舞う中にある少女の姿をより鮮明にする。

 

「どうして・・・わからない、気付けばここにいたんだ」
「わからない?」

童子の答えに少女は訝しげに返すと、品定めをするように童子をぐるりと見回し、口元に手をやって小首を傾げた。
少女の視線に、どこか変なところがあるだろうかと童子も自身を顧みるが、変わったところは見当たらず、少女の無言の視線に耐え切れなくて口を開く。

「・・・あんた、“上杜”という家を知らないか?」
「え?」
「・・・知らないならいい」

呆気に取られたような顔をする少女に、童子はさっさと見切りを付けて踵を返した。
望む答えを知らない者と話していても時間の無駄だと判断した結果だ。
短い言葉で言い捨てて、そのまま去っていこうとする童子を少女が慌てたように引き止める。

「待って、知ってるわ」

少女の荒げた声に再び斜面を駆け下りようとした足が止まり、童子はゆるりと振り返る。
その動作の滑らかさが魅せる幼い顔にそぐわぬ艶やかさに、少女は瞬間息を呑んだ。


木の葉を舞い手に伴いながら、風が童子のくすんだ金糸の髪を弄び、名残惜しげに駆け抜ける。
視界を奪う金糸を煩わしそうに見る細められた瞳でさえ、見るものの視線を奪う。
たった数秒の現実が切り取られたように停止していた。

 

 

「・・・どうした、知っているんだろう?だったら教えてくれ」
「っえ?!・・・えぇ」

訝しげに見返してくる童子の発する声で、少女ははっと我に返り、未だ夢幻に囚われた意識を必死に呼び戻す。
少々紅潮した頬を手で覆い隠し、視線をそらしつつも視界の端で童子を捕らえる。
童子は少女の行動にただ訝しがるだけで、それ以上の詮索はしなかった。

「貴方、上杜に何の用があるの?」
「言う必要があるのか」
「もちろんよ、上杜は私の家だもの」

当然、と胸を張る少女の言葉に今度は童子が眼を見開く。
まさかこんなところで上杜の人間と会えるとは思っていなかったため、童子は純粋に驚きを隠せなかった。

 

「どう行けばいい?!」

掴みかかりそうな勢いで童子は少女を問い詰める。
少女は突然人が変わったように問う童子にうろたえていたが、気圧されそうになる自身を奮い起こして跳ね返すように言葉を強めて言い放つ。

「ちょっと、まず何の用があるのか言いなさいよ!」

もっともな相手の発言に童子は我に返り、冷静を欠いていた自分を引き止める。
老人との突然の離別という初めてのことに直面して、ひどく自分を見失っているようだった。
急ぐ心がただただ身体を突き動かし、その早さに認識力がついてゆかない。

 

「あ・・・すまない・・・上杜の家に爺さんがいるんだ。俺は爺さんのところに戻りたい」
「そ、そうだったのね、こっちこそごめんなさい。貴方が禁域から走ってきたから・・・お役人関係かと」

小さく詫びたあと、心から振り絞るように理由を述べる童子の表情に、少女は慌てたように言葉をかける。
どうやら思いのほか傷心しきっている童子の表情が、彼女をそうさせてしまったらしい。

「今から帰るところだったから、一緒に行きましょう」

あたふたと言葉を継いで道を示し、緩やかな坂を下り始めた少女に、童子はひとつ頷くと後をついて足を踏み出す。
先ほどと違って冷たい孤独感は消え失せており、求める人物への道を見つけたことで足取りは軽くなっていた。

 

「そういえば、禁域ってなんだ?」

先ほどから少女が口にしていた言葉はここら辺一帯を示しているように思えるが、何の禁域なのかはわからなかった。
考え込むように口元に手をやり、目線を地に向けたまま歩いていると、少女が振り返り、歩く速さを落とす。
秘め事でも話すように人差し指を立てて、秘密なんだけどね、と話し始めたので、童子も耳をそばだてて聴く。

「貴方が下りて来たあの場所のちょっと先に、禁域と呼ばれる場所があるの。あそこにある御神木に森神様がいらっしゃって、神事を行う者しか入ってはいけないんだって。私は毎年、奉納の舞を舞うから練習してたんだけど、貴方がいてびっくりしたわ。」
「・・・何故?」
「この道の入り口に、白い注連縄の結びがあって、森神様が必要と思う者しか入れないはずなの。お役人はその注連縄を斬り捨てて入ってくるんだけど・・・貴方は斬るなんて出来ないわよね、丸腰だもの」
「・・・その注連縄は結界みたいなものか?」
「ん〜・・・そんな感じ。でも貴方は入って来れたんだし、森神様に何か必要とされてるのね」

ふふっと軽く笑って話す少女とは逆に、童子は怪訝そうな表情をする。
祀る者の血筋でもない自分が森神に必要とされる、その部分に何となく悪い予感を感じていたのだ。
自分で入り込んだのではなく、知らない内にその禁域の中にいたことが何より不安を掻き立てる。

 

「そういえば、ここにはあんた以外誰も来てないのか?」

童子はふと思い当たったことを口にするが、少女はそう訊ねる童子を不思議そうに見つめ、小首を傾げて否定する。


不意に思い当たったこと、それはまどろみの中で聴いた声のこと。
柔らかく優しい印象を受ける声色、けれどその声は悲しみに満ち、何かに苛まれているようだった。
童子の髪を撫でていたのもたぶんその声の主なのだろう。
それは人ではない存在。

 

「もしかして、森神様に逢ったの?」

考え事をしていて視線が落ちていた童子の顔を、覗き込むように少女は見る。
森神に“逢った”のかと訊くことに、童子は彼女も森神という存在に逢ったことがあるのだと思ったが、その問いに頷くことなく、『さぁ?』とだけ返して歩みを速める。
答えれば、確実に関わることになる気がして。

 

一人でさっさと歩いてゆく童子を少女は慌てて追い抜くと、ふてくされたように先陣を切って坂を下りていった。
そんな少女の後姿をおかしく思いながら、童子はゆるりと振り返る。

そこにあるのは変わらぬ森の風景と、不規則に舞い落ちる枯葉。
響く音はざわめく木々の声だけ。


――――何故憎まねばならぬ・・・


あの時の声が耳に残って離れない。
あれが森神だとするのなら、重久に相談事を持ち掛けられた老人はとうに巻き込まれているのだろう。
早くこの場を離れなければならない、という警鐘を自身の中で感じて、嘆く声を振り切るように踵を返すと、童子は先に行ってしまった少女の後を追って坂を下り始めた。