V
この家に言い伝えというものが存在する理由。
それはこの家を囲む自然から発生したものだった。
「古人が伝えることには深い意味があるのだと思う」
重久は自身の思いを混ぜながら二人に語る。
昔から人は恩恵を与えてくれるもの、感謝するべきもの、敬うべきもの、そして畏怖すべき対象として自然という大きな存在と共存してきた。
自然に対する想いを表現するために人は祭事・神事を行い、意思を示す。
あるところでは『火・水・地・岩』などの自然の中の存在を、あるところでは『蛇・鳥』などの動物を神の使いとして崇める。
重久たちが住む、ここ周辺で崇められてきた対象は『大樹』であった。
木はもともと霊的な場を作りやすく、樹齢何年と経てきた大樹に至っては『神の依代』として大切に扱われていることが多い。
よく見かける白い注連縄を纏う大樹こそがその対象であり、それを崇め護ることで神の恩恵を受けることができたのだ。
またそのような木は護るうちは大きな恩恵を与え、逆に侵害すればひどく祟ると云われている。
荒ぶる御霊を内に宿した守り神、それが『神霊』として大木に宿るのだと。
重久たちの家系もまた、大切に『大樹』を扱い護ることでその恩恵を受けてきた。
そして『神の依代』として扱われる『大樹』は、自身が危害をくわえられる兆しを感じたとき、自身をある形で人前に現し、警告してくるのだとも伝えられる。
それは人型や獣であったり、物体であったりと姿の現し方は異なり、警告の仕方もさまざまであるという。
「そして6年前、その警告は伝えられた」
重久は苦々しげに歯を噛み締めて言う。
『大樹』自身が危機を感じているのだと。
「孫娘の“真名”が森神様に逢い、聴いたことらしい」
――――もうすぐ我を滅ぼさんとする者らが来る
「そう伝えられた矢先、外から来たある富豪がこの神木を切り倒すと言い出したのだ」
仕え先の主のために屋敷を建てる、そのために見栄えのする柱がほしい、と。
自分たちが奉ってきた『神木』を切り倒されるというだけでも許しがたいことなのに、ただの飾り柱のようにされると聴いて重久は憤慨した。
ひどく腹を立てた重久がその富豪を断固として受け入れようとせず、その頑なさに富豪はその一時おとなしく引き下がった。
富豪のあまりに淡白な引き下がりように重久はこれで終わりかと思っていた。
「だがそうではなかった・・・」
富豪が立ち去って数日が経ったある日、重久の娘“凛”と孫の“真名”が行方不明になったのだ。
帰りが遅いと不安に思っていると、『神木』のある森から数名の男たちが降りてきて、闇に紛れるように影から影へと足早に歩いてきた。
じっと見ていた重久と眼が合うと、一瞬ぎくりと眼を見張る。
探ろうと声を掛けかけると慌てたようにさっと視線をそらし、何事もなかったように街へと去っていく。
重久は、その男たちを不振に思いながらも、凛と真名の行方を探ることを優先し、必死に捜し続けた。
周辺の者にも協力してもらい、広範囲で捜したがその日の内には結局見つからずに終わってしまった。
このまま見つからないのではと夜が明けても心配だけが募り、為す術なく重久が途方に暮れていると、不思議なことに真名がひょっこりと帰ってきたのだ。
しかし母親である凛の姿は何処にも見えない。
幼い真名だけが泥で汚れてはいたが無傷で現れたことに、重久は疑問を抱き訊ねた。
「真名、凛はどうした?一緒ではないのか?どうやってここまで帰ってきたのだ?」
畳み掛けるようにして問う重久に、真名は小首を傾げながらもポツリポツリと答える。
「母様は消えちゃった・・・。一人で怖くて泣いてたら、あの人“もうすぐ紅い夜が来る、こちらにおいで”って言うの。そしたらいつの間にかお日様が出ていて、おじい様が見えたのよ」
「知らない者についていったのか?」
素直に答える真名の言葉に、険しい表情で重久が返す。
その表情に小さな少女は悲しそうにしゅんと肩を落とし、唇を噛んで涙をこらえた。
「・・・その人はきっと森神様よ。大きくて暖かい感じだったもの」
涙に震える声で少女は訴えるように小さく零す。
「森神様が護ってくれたのよ」
少女が話す夢幻のような事柄を、重久は信じられないといった面持ちで聴いていた。
少女の言う『森神』とは、重久たち家系が祀ってきた『大樹』の敬称である。
姓としていただいている“上杜”もこの『森神』から派生したもので、本来“守森”―森神を守る者―という意味で名づけられていた。
その神と崇める存在が、真名の前に姿を現し重久の許へと連れ帰ったと言うのだ。
「そういえばおじい様、母様はいつ帰ってくるのかな?」
混乱する重久を前に、真名は無邪気に訊ねてそわそわと外を見回す。
まだ幼い真名は、『消えてしまった』という言葉の深さを知らず、母親が自分と同じように帰ってくるのだと信じてやまなかった。
遺体の見つからないまま数日が過ぎ、後に『神隠し』と噂されるまで。
その頃になると幼くとも訝しがり、周りの者の声にひどく傷つき泣いては必死でそれを否定していた。
必ず帰ってくるのだと泣きじゃくる孫娘をあやしながら、重久はそんな境遇に合わせてしまったことを、深く悔やんだ。
「ある程度自分でも何となくわかっていたのだろう」
それがどれだけひどく悲しいことか、そしてまた偽りようのない事実であるか、ということも。
しかしその1年後さらに不思議なことが起こった。
ある日を境に、母親を失ったというのに、真名がそのことすら忘れてしまったように普通に振舞い始めたのだ。
行方知れずになったその部分だけがすっかり抜け落ちてしまっていて、何を聴いても知らないと言う。
嘘偽りを言っているわけでもなく、本当に知らなさそうであったため、それ以上の追求ができず、周りのものがうろたえたほどであった。
そして、何より周りの者が一番驚いたのは、その真名が3年前から富豪相手に抗議し出したことだった。
富豪の屋敷へ出向いては、面会を申し出、訴え続けるのだ。
「あの森は森神様のもの!!決して手出しをしてはいけません!!」
一人立ち向かうには大きすぎる相手だと知ってなお、真名は言い続ける。
そのことで役人たちから目を付けられ、何度も罰せられそうになっても、諦めることなどなかった。
今では周りの住人たちからも見放され、気狂いな娘として見られていたとしても。
重久はそんな真名を哀れみ、何故そこまでするのかと問うた。
すると彼女は真剣な面持ちでこう言ったという。
「おじい様、私たちは森神様を護る事が役目。“上杜”の名に汚点を残したくないのです。何より、私は今まで護ってきて下さった森神様を失いたくありません」
静かにけれどきっぱりと告げる真名に、重久は心動かされ、自然と共に戦う道を選んでいた。
今日にまで至る長い長い年月を見守ってきた森神。
それがこの6年という短さで失われるという危機にあるのだ。
心を決めた重久は、真名と共に今まで以上に固い拒絶を示し、諭そうと何度も討論を繰り返していた。
しかし、役人はそんな重久との永久に続くような平行線の攻防に嫌気が差し、ついに最近では脅しをかけてくるまでになり、事態はますます悪化するばかりだった。
「神木を助けたくば、真名を差し出せとまで奴らは言うのだ。奴らはまるで鬼だ」
苦渋の色を滲ませて、ひとつひとつ落とすように重久は呟く。
「どちらも大切な存在であることに変わりない。それをどうして選べようか・・・」
「・・・重久殿・・・」
涙は見せずとも嘆く重久に、老人はかける言葉を失っていた。
思っていたより事は深刻で、ひどく取り返しのつかないところまで来ているように思われてならない。
一介の薬屋の老人がどこまで介入してよいものだろうか。
話を聴くだけでも精神的負担は多少軽減されたかもしれないが、根本的なものは何一つ変わらない。
――――力になれるのはここまでかもしれん
人と人が生み出した物事は人にしか解決できず、また関係のない者が不用意に手を出せば、かえって物事を複雑にしかねない。
切り出しておきながら、己の役割の限界に為す術なくいる自分がもどかしく、じっと重久を見据えたまま深く拳を握る。
ふと、その裾を小さな手が引いた。
「・・・爺、さん・・・」
その声の弱さに、老人ははっと我に返り素早く隣に視線をやる。
触れる感覚から伝わるのは血の気が完全に引いてしまった手の冷たさ。
視界に入るのは、必死に耐える真っ青な横顔。
「俺・・・変、だ・・・」
自身に異変を感じ訴えた瞬間、平衡感覚を失い、天地が混じる。
視界に鮮やかな紅玉の朱が奔ると、それを追うように瞼が閉じて身体が傾いだ。
支えを失い、意思と切り離された身体をよく知る感覚が抱きとめるのを感じて、全ての不安感が霧散する。
誰かの足音と老人の声を遠くに聴きながら、童子の意識は闇へと堕ちた。
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