U

 

地を踏む足音。
ひとつはしっかりと、ひとつは軽やかに。
賑やかな街並みを通り過ぎれば、今までの活気は息を潜めてしまい、まるで全く異なる場所へと入り込んでしまったような風景が目の前に広がる。
活気があり、人でごった返しているのはごくわずかな場所だけで、本来少しでも道を外れれば昔どおりの静かで和やかな田園風景へと姿を変えてしまう。

 

植えられたばかりの若い稲が、道を歩くたび足元でさわさわと秘め事を伝えて持ってゆく。
少々水気を帯びた風が頬を撫でて去りゆけば、木々がゆらりと大きく震えた。
見渡す限り鮮やかな緑色で彩られ、降り注ぐ日の光が流水に乱反射を繰り返す。


そんな長々と続く田園風景の奥、目指す屋敷は緑深まる森林の麓にひっそりと佇んでいた。
木目が描く流れの形は同じものなど何一つなく、見ているものを楽しませ、その黒ずんだ色彩に光が差し込まれると、外壁が明るさを増す。
どっしりと安定感のある構えであり、また静かな面持ちでそれは二人の来訪を待っていた。

開け放たれた戸口からは部屋の一部が垣間見え、しゅんしゅんと湯を沸かす釜の音が微かに聴こえる。

 

「どうも、変わりはないかい?」

砂利の上を独特の音を伴って足を進め、老人は部屋の奥の住人へと呼びかけた。
かたんと音がひとつ鳴り、数拍遅れて人影が姿を現す。

「あぁ、わざわざ遠くからすまないね、薬屋の」

現れた男は老人と歳近く、動作のみを見ればむしろこの人物の方が年老いて見えるほどにその者の持つ雰囲気は沈んでいた。

 

男の名は上杜重久。
この上杜家の当主であり、長くの間、役人たちと言い合いを続けている人物である。
役人を多く敵にまわしながらも、頑なに継がれてきた事柄を守るために不利な状況下と承知しながら弁論を用いて戦い続けていた。


そんな男と薬売りの老人が出会ったのは4・5年前で、ここらで雨に降られ立ち往生していた老人を、通りがかった重久が家に招きいれたところから、この二人の縁が続いている。
そして重久が今日老人を呼んだ理由は『話を聴いてほしい』ということだった。

役人を敵に回しているという点で、他の者たちが一線引いているのだろう。
深く関わってとばっちりを受けるようなことにはなりたくないと、重久の相談にのる者などほとんどいない。
それ故悩みや思考が、吐き出す所ないために内側にたまり続けてしまい、重久自身の気さえ暗い方向へと引きずり込まれて体調をきたすまでになっていた。

 

「まぁ立ち話もなんだ、上がっておくれ」

沈んだ声を少しでも明るく見せようと上ずる声。
それだけでどれだけ重く内に秘めているのかが聴かずとも自然と感じられる。
事の深さを感じて気取られぬように眉根を軽く寄せつつも、緩やかな動作で老人は童子と伴い座敷へ上がり、先ほどまで重久がいたであろう部屋へ入る。

 

「・・・っ!!」
「・・・これは・・・」

足を踏み入れた途端、身体に重くのしかかる見えない圧迫感。
以前来た時は、深く澄んだ涼しげな気があたりを満たしており、部屋の中でも不思議と荒立つ気持ちは息を潜めていた。
それほどまでに静かな気だったというのに、今のこの部屋に渦巻く流れの乱れようは思っていた以上に深刻なものだった。

 

その重々しい重圧に耐えかねて、童子の小柄な身体がぐらりと傾ぐ。

「いかん、お前さんは外に出ておいで」

自身の支えを失ってしまった童子を救い上げるように抱きとめながら老人は言う。
その言葉に一瞬眼をみはり、童子はふらつく身体を起こし上げ、頭を振り、老人の裾を掴んで離れまいとする。
つらい状態であるだろうに懸命に悟られぬよう振る舞い、唇をきつく結んで訴えるように老人を見上げる。

 

そんな童子の様子をみて困ったような表情をみせるものの、老人は全く揺らぐことなく諭すように眼を合わせて静かに話す。

「お前さんにこの気はきつすぎる。外で待ってておくれ」
「だったら爺さん、あんたにとってもきついはずだ」

掴んだ裾を再びぎゅっと握り締めて、童子が小さな声で息を吐くように言い返す。
震える指と寄せられた眉が、この小さな身体にどれだけつらい重圧が掛かっているかを物語る。

 

けれどそれを押し殺してでも童子は一歩も引く気はなく、老人はひとつ細いため息を吐き出すと背負っていた薬箱を床へ下ろした。
置かれた薬箱の小さなひきだしに指を掛けて開けると、中から何かをひとつ取り出し、それを童子の首に掛ける。
突然感じる冷たい感触にびくりと身体を震わせて思わず眼をつむるも、ちゃら・・・と小さな音を耳にすると緩やかに眼を開き、己の首に掛けられた連なりを見て童子は驚いたように老人に視線を向ける。

 

細い首元に掛かるのは煌々と輝く紅玉の連なり。
中央の一際大きな玉を軸に等間隔であしらわれた紅の色。
童子の白い肌によく映えるその紅い宝玉の輝きは、如何なる色の光をも紅に染めて空へと返す。

 

「それで多少は楽になるだろう」

柔らかに微笑んで老人は、目をまるくしたままの童子へと言葉を継ぐ。

「元来“紅玉”は魔を払い、真理を正しく導けるよう自身に強く気を与えてくれると云われている」
「・・・爺さん・・・」
「だがあまり保つわけじゃない。次にダメだと判断したら外へ出るんだよ」

念を押すように静かに告げられる言葉に、童子は胸に掛かる紅玉の首飾りを握り締めて神妙に頷いた。
老人の言っていたとおり、ひどくのしかかる気流の重圧は和らぎ、身体は軽い。


まだ掴んだままの老人の服の裾を慌てて放すと、先に勧められた場所へ座ってしまった老人にぴたりと寄り添って童子もその隣に座る。

 

「先ほどは急に倒れたが大丈夫なのかい?」

重久がひどく心配した面持ちで童子に尋ねる。
童子は重久の問いにひとつこくりと頷くだけで、言葉を発しようとしない。
隣に鎮座する童子の行動を見て老人は小さく笑い、重久に心配はいらないと答えてやった。

「この子はそんなに弱くはないよ」

 

それよりも、と話を切り出し、話したいことは何なのだと、先ほどまでの朗らかな表情とは違う、射抜くような視線で老人は重久に問う。
これほどまでに澱んだ気を生み出す原因を老人は知らなければならないと感じていた。
たとえそれが自分に関わりのないことであっても、もはや見過ごせる領域ではなくなっている。

 

後に何かが起こると予感を抱きながら、重久の語る事柄に少しでも手がかりを得ようと、他への思考を遮断する。
その老人の態度を見て、重久も構えなおし、


「まず、この家が代々伝えてきたことを知っていてほしい」


そう言って語り始めた。