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首筋に刃の気配がまだ残る。
カイは屋上に出ると改めて自分の首筋に手を触れた。
あの時小夜は、カイがあれ以上前へ踏み出そうものなら確実にあの刃を食い込ませていただろう。
凍りついた空気に諦めが勝って部屋を出た。
目的を失って、行き場をなくしていると自然と屋上へと足が進んでいる。
広く、明るく、輝く光に満ちた青。
駆ける冷たい風が澱んだ心をさらっていく気がして、カイは吹き付ける風に身を任せていた。
「カイ」
不意に誰かが呼びかける。
風の音が重なってはっきりとは聴こえなかったが、確かに呼ばれた。
そう思って振り返ると、軋むドアの前に先ほどまではなかった黒い影があった。
カイは思わずかぶりを振る。
眠っているはずのハジがここにいることよりも、自分が名を呼ばれたことに驚いた。
しかし驚きはそれだけでは止まらず、彼はカイに更なる衝撃を与える。
「・・・ありがとう」
思わず自分の耳を疑った。
ただでさえ自分と会話をしたことのない人物が、いきなり呼びかけてきたことにも驚かされるのに、感謝の言葉まで言ってくるのだから。
事態の把握についていけなくて、カイは混乱する頭で必死に考える。
「え?・・・お、お前って、部屋で寝てたんじゃ・・・?」
つい口から出た言葉は驚いた点からズレていて、自分で何を言っているのかさえわからなくなる。
「だから、カイに感謝を」
「はぁ?」
――――眠ってて、なんで俺に感謝なんかするんだよ?
ハジの話す言葉にさらに混乱を引き起こす。
そんなカイの雰囲気を読み取ったのか、言葉を継ぎはじめる。
「叫んでいるのが聴こえた。起きろ、と。小夜が泣く、そう言っていた。だから私は目覚めた」
断片的にハジは話す。
「俺がそう言ったから、起きたってことか?」
なんだかよくわからなくて、自分なりの解釈を述べてみると、彼は静かに頷いた。
率直にそう言えばいいものを、とカイは苛立たしげに思う。
そのむしゃくしゃした感情は話す声にも色を添え、八つ当たりのように撥ねつける。
「そう言ったのは小夜のためだ。お前のためじゃない・・・あいつがお前を一番大切に想って、一番、必要だと感じてるから・・・」
自分の言葉に胸が疼く。
小夜が家族以外の誰かを一番に想う、それが何故かカイを苦しめる。
そしてどこかで、『家族』ではなく『自分』ではないからかもしれない、という考えがよぎることもあった。
「カイはどこか私と似ている」
いきなり話が途切れる。
カイはハジという人物を全くつかめず、その突拍子な言葉に返答ができない。
「小夜が想う『大切な存在』に順位はない。カイと私の違いは生きる時間の長さだ。それが小夜の執着する理由」
「・・・んなわけねぇだろ」
彼の言い分にげんなりしながら反論する。
『時間』それだけで今まで親しかった家族を遠ざけてまで行動するわけがない、と。
「違わない。あの時カイが倒れたなら、小夜は何を捨てても、命すら投げ捨ててカイを護る方をとる。自分よりも大切な者のために、小夜はそういう人だ」
静かに淡々とつむぐ言葉に苛立ちを隠せず、カイは声を荒げて言う。
「違う!!お前が特別な奴だからだ!!現に俺は・・・小夜に刀を向けられた・・・」
語尾は悲嘆の色を帯び、うなだれる。
鮮明に思い出されるあの冷たさ。
触れた首筋に痕が残っていないものか、何度も確かめるように手でなぞる。
「・・・私たちの眠りと人の眠りは同じだが?」
まるで小夜とカイの言動を全て見ていたかのような口ぶりでハジは言う。
小夜が刀を向けた理由がすでにそれであると知っているのだ。
だがカイはそんなことには気を止めず、ハジが言った内容に驚く。
「同じ?」
「人も寝ている間は記憶が一度崩壊する。その後、目覚めに向けて再構築し、起きたときにはいつもと変わらない記憶を維持しているはずだ」
「で、でも、小夜は『特別』みたいな言い方してたぞ・・・?」
「・・・人と基礎構造は変わらない。小夜が懸念していたの、は・・・」
ハジはそこまで言って言葉を止めた。
不自然な言葉の途切れ方にカイは眉根を寄せて怪訝そうな顔をする。
しかし、彼はいつもと変わらず無表情のままでいる。
会話がなくなり、居心地悪い沈黙を何とかするためにはいったいどうすればいいのか、とカイは思い悩む。
思い切ってこちらから言葉を切り出そうとしたときだった。
「あ、・・・『寝ぼけている』・・・?」
――――疑問形。
・・・
「はぁ?」
さすがにカイもあっけにとられた。
だがハジは一人納得したように頷くと気にせず話し続ける。
「人にも記憶があいまいな、寝ぼけている状態があるように、私にそれが起きることを小夜は気にしていたと思う」
話したいことを話し終えて気が済んだのか、ハジは再び沈黙し、カイは先ほどのことが頭から抜けず、いまだにあっけにとられている。
奇妙な沈黙が続く中、我に返ったカイが口を開く。
「・・・お前、もしかして今必死で言葉捜してた?」
素直に頷くハジに、カイは笑いがこらえられなかった。
カイが急に腹を抱えだし、歯をかみ締めても咽喉の奥からくつくつと鳴る笑い声を上げていることに、ハジは首をかしげる。
いつも無表情で何でもやってのける彼が見せたほんの一瞬の出来事が、カイには今まで見たことがないだけに強い衝撃がきたらしい。
思えば世界をまたにかけて生きてきたのだ、どこでも言葉が通じるわけはなく、その地の言語を一から覚えてきたのだろう。
語彙が地元の人間より少なくて当たり前だ。
カイが聞く限り、ハジの話す言葉は日本人の英訳に似て固い。
その理由の一部が少し見えた気がした。
そしてそれと同時に一気に親近感が湧き出してくる。
自分と彼の距離を隔てていたのは、もしかすると自分自身だったかもしれない、今ならそう感じられる。
「っ、お前、意外に面白いな」
笑い続けるカイに、ハジは何がなんだか理解できないという眼を向けていた。
「お前が言ってた俺たちが『似てる』って意味、なんとなくだけどわかった気がする」
笑いをおさめて言葉をつむぐ。
はっきりとはわからないが、小夜にとって同じ『大切な存在』という意味はなんとなく理解でき、また彼とカイ自身のすることも『小夜を護る』という点で共通していると思った。
ハジはその言葉に返答しなかったものの、周りの雰囲気がやわらかくなったとカイは感じる。
まるで二人の心を表すように冷たかった風はいつの間にか和らいでいた。
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