「adherent and guardian」
何をせずとも、傍に佇む。 呼べば、嬉しげに身を寄せる。 手を差し出せば、美しく微笑む。 そして、その笑みが、この心を優しく撫でてゆく。
それは、つかの間の休息を取っていた時のこと。 「お目覚めはいかがかしら?」 眠りから醒めた頭に、雪のように溶ける声が注がれる。 まだまどろみの居座る思考を抱えながら、俺は声を辿って窓際に立つミュゼを見やった。 視線が合えば、にこりと返される笑顔は、感嘆の息が漏れるほど美しい。 万人を魅了するほどの美貌を持ちながら、子供のような無垢ささえ感じてしまうのは何故だろうか。 そのあまりの微笑ましさに彼女の笑みを見ていると、急ぎの難題を抱えた胸中にある、逸る気持ちが凪いでいく。 望まぬ足止めの時間すら、心地よいと錯覚してしまいそうになるほどだ。 俺たちは今、『足止め』の言葉どおり、ザイラの教会で留まることを余儀なくされていた。 本当なら、異界の果てで邂逅したミラとジュードたちを追うはずだったのだが、マクスウェルの妨害により、リーゼ・マクシアへと強制送還されてしまったのだ。 ミュゼの力で持ってしても、頑なに閉じた異界の扉に、ウィンガルからは一時の休息を、と進言が寄こされた。 無駄な足掻きを続けるつもりもなかったため、俺はすぐにその進言を聞き入れ、ひと気のないザイラの教会へと身を潜めたのである。 カン・バルクへ戻ることも頭を掠めたが、その案はすぐに切って捨てた。 不在を任せた者たちへの信頼を裏切ることになるとも思え、さらに王が負傷した姿を晒せば、いたずらに民の不安を煽るばかりでしかないからだ。 そうして人目を避けた休息の場として訪れた教会だったが、不本意なことに、本格的な休息の場として活躍することになった。 日ごろの激務に加えてラ・シュガルの統治、人の身に余る異界の旅路、溜まるばかりの疲労も祟ってか、俺は床に就いた途端、意識があっという間に飛んでしまったのだ。 意識が欠片も浮上しないほど深い眠りにあったのか、目覚めてすぐにミュゼと交わした先ほどの会話すら、時間が地続きになっているような錯覚を覚える。 すっかり抜け落ちた時間を取り戻すため、俺は現状の確認をしながら、隣に佇むミュゼに空白の時間に起こった出来事を訊ねた。 嬉々として話し出す彼女は、ずいぶん退屈していたらしい。 俺が眠りに落ちてから目覚めるまで片時も離れなかったというのだから、それはもう暇を持て余していたことだろう。 それは報告される情報の細かさに如実に現れていた。 顔色の優れぬウィンガルが何度か訪れたことや、雪が降っては止みをくり返していたこと。 それらが鐘いくつの頃に起こって、いつ終わったのか。 挙句、寝ている間の俺の眉間の皺がどうのこうの、といらぬところまで観察していたと報告してくれる。 一方的に話す彼女はとても楽しげで、口を挟む隙を与えないほどのおしゃべりだったが、俺は耳を傾け続けることを苦に思いはしなかった。 そうして止めどない彼女のおしゃべりが治まった頃、今度はこちらの番と口を開く。 「ミュゼ、エレンピオスという世界は、どんなところだ?」 今更ながらの質問だったが、俺はいい機会だと口にした。 本当は、霊山でミュゼを手元に引き寄せたときから訊ねる機会を窺っていたことだ。 だが、唐突に問われたミュゼは、ぴたりと動きを止めて俺を凝視する。 その瞳の澱みのなさに、先ほど楽しげにおしゃべりしていたあどけなさは見当たらない。 「黒匣のはびこる世界よ」 「それは聞いた。他に何かないのか?」 そう間髪いれずに切り返せば、ミュゼは目を丸くした後、口元に手を当てながら小首を傾げた。 どうやら彼女にとって、エレンピオスという世界は『黒匣のはびこる世界』としか言いようがないらしい。 それでも、俺の要求に応えようと懸命に他の表現を探しているらしく、ふらり、ふらりと視線が宙を舞う。 彼女の所作の美しさを眺めながら静かに待ち続けていると、ふとミュゼの視線が僅かに下がった。 「……そうね、とても苦しくて……残酷な世界だわ」 「残酷?」 「とてもじゃないけど、精霊が笑って過ごせる場所じゃないわ。あの世界は、悲鳴が絶えない世界なの。耳を澄ませば、悲嘆の声と断末魔が交じって聞こえる。どこかで人が笑みを見せるたび、助けてと怯える精霊の声が聞こえる。といっても、アルクノアの残党がいるリーゼ・マクシアでだって、時折聞こえるのだけれど」 「そうなのか?」 「えぇ。でも、あの世界はその比じゃないわ。あなたにわかりやすく例えるなら……戦場、かしら?」 穏やかな声音で紡がれた『例え』に、俺は思わず眉根を寄せた。 にこりと微笑むわりに、吐き出された単語があまりにも不穏すぎる。 だが、例えられた『戦場』は、ミュゼの語った全てによく当てはまるため、過言だと一蹴することはできなかった。 近しい記憶で言えば、自分が起こした戦争がある。 戦いに慣れた民族とはいえ、どれほどの悲鳴が野ざらしになり、うねる沼野に呑まれたか。 なるほど、ミュゼに聴こえる声が精霊の悲鳴ならば、俺に聞こえる声は人間の悲鳴だろう。 そうして感心する一方で、さらりと端的な表現を選んできた彼女の明哲さにも感心する。 こういった部分では、彼女は驚くほど聡明に語る。 「そんな世界で、お前は何をしていたんだ」 知的な一面を垣間見たせいか、間を置かずに連なる問いが口を突く。 悲鳴ばかりが耳を劈く世界で、彼女はどうすごしてきたのか。 他人の人生などたいして気にしてこなかったが、彼女が精霊であるせいか、どうにも聞かずにはいられなかった。 だが、彼女から返って来た回答は、期待していたよりずっと端的なものだった。 「黒匣を壊し続けてきたわ。壊しても、壊しても、すぐに別場所で新たな黒匣が作られてしまうから、結局その場しのぎにしかならなかったけれど」 淡々と答える声とは裏腹に、ミュゼの表情は影を帯び、うっすらと悔しさが滲み出す。 それもそうだろう。 抜け出せない悪循環ほど、無力さと虚しさを感じるものはない。 しかし、しぼんでしまった彼女とは対照的に、俺は思いっきり眉間に皺を寄せてしまった。 「お前ほどの力なら、その黒匣を生み出す場所を跡形もなく消すことなど容易だろう」 「それは、……」 一歩後ろへ下がったミュゼが言い澱む。 「……マクスウェル様の意思に反するわ」 「マクスウェルの意思だと?」 言いにくそうに零れた返答の中、思わぬ名前の乱入に、俺は僅かに声を荒げていた。 俺は、自分が思う以上にマクスウェルという存在を快く思っていなかったらしい。 不快感を滲ませて転がり落ちた声に、思わず目を見張って己を省みる。 だが、そんな微々たる変化も、幸か不幸か、沈み込んでしまった彼女には届かなかったようだ。 しょんぼりと肩を落としたまま、ミュゼの視線がさらに下がる。 「私に課せられた使命は、黒匣の破壊とエレンピオスの動向監視、断界殻を知る者を消すこと。人の営みを害することじゃないわ。それに……」 「それに?」 「あの方は、とても慈しんでいらっしゃったし……私も、嫌いじゃないの」 ぽつりと呟いて、ミュゼはそっと自分の両手を包むように引き寄せ、胸に掲げた。 その姿は静謐な祈りにも似て、まとう雰囲気に清廉さが増す。 そんな彼女を見つめながら、俺はミュゼの言葉を反芻していた。 誰をとも、何をとも言わないものの、精霊が慈しみ、好意を向けていた対象が『人』であるのは明らかだ。 人を葬ることに躊躇いのないミュゼとて、やはり人を厭って行動していたわけではないのだろう。 そうして思い量っていれば、僅かに流れる彼女の視線に、ここにはいない誰かを思い出しているのだと気づく。 「……向こうに、関わった人間でもいるのか?」 「えぇ、……視力を失ってしまった人間と、少しだけ。私が精霊だって気づいてないんじゃないかしら?たまに本を読み聞かせに行ったりするの。でも、人間って不思議ね。そんなこと、毎日顔をあわせる人間に頼めばいいのに」 懐かしげに思いを馳せて、ミュゼはようやくふわりと微笑む。 ころころと転がる笑い声とその笑みに、俺は少しだけ胸をなでおろした。 ミュゼが、穏やかさに満ちた声音で語るほどのものが、悲鳴ばかり蔓延したという世界にもあるのだと。 だが、どれだけ促し、どれほど掘り下げて問いかけても、彼女は一向に盲目の人間以外の人物について語りはしなかった。 その異様なまでの登場人物の少なさに、俺は再び眉根を寄せる。 「その者以外に、関わった人間はいないのか?」 「いないわ。だって、必要ないでしょう?」 きょとん、としたように、澄み切った大きな瞳が向けられる。 「私の使命に人間は必要ない。黒匣を壊し、断界殻を守ること。それが全て」 ふわふわとしていた声がまるで嘘のように強く芯の通った声音に変わり、無形だった雰囲気もぴしりと張りつめる。 だが、 「そう、……全て」 ――――私には、それしかないもの…… 誇らしげだった力強い声も、嘘のようにぽつりと消えた。 当然のように告げられたからこそ、彼女の声は雪に溶けるようにこの身に沁みる。 遠く窓の外を眺めるミュゼの儚さも相まってか、俺はひどく憐憫を感じていた。 確約された使命を失ってしまった彼女を想ってではない。 使命が健在であった頃でさえ、使命のみを支えに独りで生きることを強いられてきたという事実に、この上ないほど哀れみを抱いてしまう。 彼女は、あまりにも孤独だ。 「……寂しくは、なかったのか?」 やんわりと唇を引き結び、俺は静かに問いかけた。 思いのほか柔らかな音が吐き出されたのは、おそらく、泣き崩れて縋るミュゼの姿を思い出したせいだろう。 彼女は、自分が思うよりずっと孤独を恐れているはずなのだ。 だからこそ、 「さぁ、よくわからないわ」 あっさりと返された言葉と穏やかな微笑に、俺は胸を突かれる思いだった。 やはり、当然の感情を自覚するより先に、ミュゼの思考は止まってしまっている。 使命という大義のために生きようとすれば、自ずと使命に反する感情を殺さなければならなくなる。 そうなれば、反する感情に干渉してくる対象は自然と避けることになり、それこそ孤独へと簡単に足を踏み込むことになる。 『不必要なもの』とそぎ落とし、徐々に『個人』の実体を失い、目的に添った思考と感情を器に残せば、そこには完璧な『理想』を目指す自分ができあがる。 ミュゼの場合、それはマクスウェルによって意図的に構築されていたように思う。 まさに、マクスウェルが突き詰めた『理想』が形を成した存在が、ミュゼだったのだ。 それゆえ、ミュゼはそぎ落とされた『当然の感情』を自覚せず、何も知らぬ幼子のように平然と笑っていられるのだろう。 そして、 「そういう状況だと、人は寂しいと思うものなの?」 尽きぬ好奇心を宿しながら、こんなにも簡単なことを問う。 「そもそも、寂しいってどういう気持ちなのかしら?」 「……一般的には、人恋しいような気持ちだろうな」 「あら、だったら私には無縁ね。人を恋しいと思ったことなんて一度もないもの」 やや乗り出し気味だった身体を正し、つんと唇を尖らせる様は、「つまらない」と言外に物語る。 称する名を知らないことが、こんなにも切なくさせるものなのだろうか。 ぼんやり見つめていると、ミュゼの興味は窓の外へ移ったらしく、ちらちらと降る雪の後を追う。 もう、欠片も気に留めない。 「ミュゼ」 「なにかしら?」 「もう少し近くで話してくれないか?詳しく聞きたいことがある」 「っ!えぇ、喜んで!」 そっと手を差し出して招けば、ぱぁっと華やいだ笑みを浮かべたミュゼが、すぐさま俺の傍へと舞い降りた。 やはり、彼女は殺し続けた『寂しさ』を知っている。 ただ、彼女の中に、それを指し示す名がないだけなのだ。 だからこそ、言葉どおり、ミュゼは『人』恋しいと思ったことなどないのだろう。 必要最低限の干渉の中で生きてきた彼女にとって、心から求めて焦がれる存在に、枠組みなど最初からないのだ。 精霊だろうと人間だろうと、彼女にとって種族の枠組みは何の意味も成さない。 ミュゼを成す核を支える存在は、その名でもって彼女に乞われる。 唯一の存在が常に心の傍にあり、求め、指し示してくれることだけを願い、それが満たされるだけで、彼女は寂寥とした場所にいながら美しく微笑むのだ。 それは、陶酔される者にとって、どれほど甘美なことだろう。 数え切れぬ存在の中で、たった一人と謳われることに、俺とて優越感を抱かないはずがないのだ。 多くの民が『王』と讃え、崇め、求めたとて、それは俺個人に向けられた感情ではなく、「王」という役割への感情だ。 だが、彼女一人から向けられる感情は、例外なく全て俺個人に注がれる。 この身に余りあるほどの心地よさを与えられてしまえば、捨てたはずの『個人』を思い出しそうになる。 このままでは、いずれ取り戻したいと願ってしまいそうだ。 「ガイアス」 あぁ、ミュゼが呼んでいる。 羽根のように触れる身体を寄せて、彼女が俺の名を口にするたび、この心は凪いだ海のように満たされてゆく。 甘く、優しく、心地よく。 民のための名とわかっていながら、彼女が呼ぶ一瞬だけは、まるで自分だけのもののような感覚に浸ってしまう。 王としてではなく、たった一人の人間として求められる喜びを、再び俺に与えたのだから当然か。 「何から話せばいいかしら」 「お前の好きに話すといい」 「あら、聞きたいことがあったんじゃなかったの?」 「忘れた」 「まぁ!ふふっ、ガイアスでもそんなことがあるのね」 はしゃいだように跳ね回る声音につられて、僅かに口元が弛んでしまう。 寂しさの正体を知らぬミュゼだが、こうして俺の傍で嬉しげに微笑むなら、無理に教える必要もないだろう。 知らぬなら、知らぬまま。 彼女が気づかぬうちに、この手を差し出せばいいのだから。 内に秘めた結論を刻みつつ、上機嫌な声が語る影の歴史に、俺はしばしの間耳を傾けていた。
* * * * 2012/08/26 (Sun) 色々捏造まがいなことしたけど、気にしない! 私の思う世界観を盛大に盛り込んでみた。 しかし、ガイミュゼって不思議なもので。 表面上はガイ→←←←←←ミュゼに見えるのに、心情書き込んでみるとガイ→←ミュゼで、陛下負けてねぇよwっていう。 本編中の話なので、ミュゼが『依存』に傾倒してる頃ですね。 ただ、彼女の依存は自覚症状ないのでこんなにぐだりました。 うーん、アンバランスなミュゼが愛しくて仕方ない。 あの極端から極端へ飛ぶ感じが好きです。 空果様へ 大変お待たせして申し訳ございませんでしたorz お待たせした挙句に、全然甘くもなければいちゃいちゃもしてなくて、二重三重にすみません;; 次書くときはもうちょっと糖度上げて書いてみますね。 にしても、ガイミュゼお好きだと聞いて、かなりテンション上がってしまって、リクエストいただいたときはもう……もう……ガイミュゼいいですよねっ!!!!(大声) 本当に嬉しいリクエストありがとうございました。 ガイミュゼは、今後もじわじわと書いていけたらいいなと思っております。 そして、アルジュファンがガイミュゼファンにもなればいいと目論んでおります← 何故マイナーなのかが理解できない……! おっと、荒ぶってしまった;; 何はともあれ、転げまわるほど嬉しいリクエストをありがとうございました! *新月鏡* |