「my name ...」

 

 

 

静かなリビングに低い唸り声が響く。
ぎゅっと眉根を寄せて悩んでいますと全身で表現してるアルヴィンに、僕は小さく首を傾げた。
彼がこんな姿を見せるのも珍しい。
基本的に、彼は僕の前では飄々とした構えを貫いており、それを崩すときは彼が体裁を繕えなくなるほど精神面に余裕がなくなった時だけだ。
ということは、今回も何かが原因で精神的に不安定になっているのだろう。
一体なんだろう?
自分の中にも原因はないかと振り返りつつ、ソファの前に突っ立ったままアルヴィンを見つめる。
しげしげと観察を始める影に気づいた彼がやや視線を上げて僕を視界に収めると、おもむろに口を開いた。

「なぁ、ためしにフレッドって言ってみてくんね?」
「え?」

何の脈絡もない要望に、僕はきょとんとしてしまう。
何をどうしてその言葉が出てきたのか。
彼の悩みの種はわからないままだったが、彼のお願いを断る理由も特にないので、僕は望まれた通りに「フレッド」と返す。
すると、望んだとおりに返したはずなのに、彼は再びしかめっ面で俯いた。
腕を組んで考え込むアルヴィンと斜めに向かい合うようにソファに座り、どうにもおかしい彼の様子を眺める。
思案に沈む姿は真剣そのものだ。
声すらかけにくい状況に、沈黙を保ったまま彼の行動を待っていると、

「次、アルって言ってみて」

と、再び唐突な要望が飛んできた。
フレッド、アル、と来ると何となく予想ができてしまうが、やはりこれも突っぱねる必要性も理由も見当たらないので素直に応える。
できるだけそっけなく聞こえるように「アル」と零すと、先ほどとは違った印象で彼の表情が曇った。
たぶん、今、彼の脳裏には一人の女性が思い浮かんだことであろう。
彼を愛し、彼を守り、己の矜持に従って生きた気高い女性の姿を。
彼女がここにいれば、きっと僕と同じように、必死に答えを探している姿に微笑ましさを感じているだろう。
答えはとうに出ているし、どうしたってそれ以外の答えはないというのに、彼は再確認をしなければ落ち着かないらしい。
僕では決してぶち当たらない悩みを可愛らしいと思う反面、彼にはそうしなければならない過去があることに少々胸が痛んだ。
顔に出さずに少しの感傷に浸っていると、気を持ち直した彼が再びねだる。

「……んじゃ、アルフレドって言ってみてくれ」

予想通りの要望に従順に応えれば、彼は胸をわずかに押さえて瞠目する。
当然のことながら、親しい声が放つ聴き慣れない呼び声は彼の心に新鮮に響いたことだろう。
言われ慣れてないという自覚が吹っ飛んでいた代償だ。
予想と寸分違わぬ反応を示す彼に、僕は柔らかく微笑み問いかける。

「今度は何て呼べばいいのかな、アルヴィン?」

そう言って、指先でちょんと彼の頬をつつくと、ぶわっと勢いよくその頬が朱に染まった。

「なっ、なん……」
「やっぱり『アルヴィン』が一番落ち着くでしょう?」

にこりと笑みを深めれば、顔を真っ赤にした彼の視線が左右へ忙しなく揺らぐ。
挙動不審に陥った彼を宥めるべく、僕は行き場を失った彼の手を取って握り、その甲を撫でた。
包むように数回同じ動作をゆっくり繰り返せば、ゆるゆると応えるように握り返される。
驚愕と羞恥に飛んでいた理性が戻って来た頃合いを見計らい、僕はそっと言葉を継いだ。

「本名で呼ばれたかったのかな。けど、しっくり来なかったんでしょ?」
「……正解。正直落ち着かなかった」
「そうだろうね。だって、僕は『アルフレド』と出会ってないからね」
「は?え、いや……俺に、会ってるだろ?」

そう言って困惑に陥る彼は、僕の意図に気づかない。
いつものことながら、彼は表面上の情報整理が早いわりに、自分の言動の少し先を読まないことが多い。
核心に触れ、正しい道筋を辿ってておきながら、その言葉から導き出されるはずの『結果』を見ない。
それは、『結果』をあえて見逃すことが、彼を生かしてきたからだろう。
アルクノアだった頃の彼は、僕が絶対に止めに入ると断言できる行為を繰り返していたという。
回避できる場合は回避したが、逃れようのない場合ももちろんある。
そんな時、彼は自分の心を守るには、見えるはずのものを見ないようにすることが有効だと知ったのだ。
自分が生き残る、そのために葬ってきた代償を彼はどれほど覚えているだろうか。
おそらく、記憶する数倍以上の犠牲が彼の過去に転がっているに違いない。
直視すれば生きていられないとわかっていたからこその防衛本能は、彼自身が本当に望んでいることすらまったく見えなくなるほど彼の視界を固く閉ざす。
今ではずいぶん改善されたが、やはり根深いそれが劇的に変化を与えるはずもない。
時折訪れる心からの欲求、それが引き起こす難解な感情に頭を捻って、その感情の正体を暴こうと躍起になるのだ。
そんな姿を見るたびに、僕には簡単なことが彼には解読不能の難問でしかないのだと気づく。
きっと逆の場面だって多くあって、僕が難問にぶち当たったその時は、彼が僕を救いに来てくれるのだろう。
僕に見えないものは、彼が見ていてくれる。
そして今は、僕の番。
ぎゅっと手をつないだまま、斜め向かいから隣へ移動して腰かける。
説得力を上げるために気恥ずかしいほど密着した状態で、至近距離の鳶色の瞳を見上げた。

「僕が出会ったのは、しがない傭兵の顔したアルクノアのスパイで仕事はできるくせにものすごく寂しがりな『アルヴィン』であって、エレンピオスで育った名門貴族の『アルフレド』じゃない」

そう断言したあと、僕は一呼吸の間を置いて彼の苦悩に触れる。
僕に見える、彼が悩んだ本当の理由。
生死に過剰反応する心が叫ぶ、正体不明の感情。

「『アルヴィン』はアルフレドの一部。けど、本名じゃないから偽物ってわけでもないと僕は思うよ」

殊更優しく響くよう願えば、見つめた瞳が僅かに見開かれた。
ようやく自覚に至ったのか、数秒の瞬きを挟んで緩やかに表情が翳る。

「確かにな。人生の半分はアルヴィンで過ごしてるし……今じゃ本名で呼ぶ奴の方が少ないもんな」

零した声と翳った瞳が言い知れぬ寂しさを示しているような気がして、僕はやや視線を下げた彼の頭をそっと抱き寄せる。
何がきっかけかはわからないが、彼は見失った自分自身を探していたのだろう。
名前はそれだけで自分を表すものだ。
本名以外に愛称や偽名が数多くある彼は、それだけ多くの人と関わって生きてきた。
けど、その多くの人と深く長い関係が続いているのかと言えば、答えは「NO」だ。
生まれ育った場所には20年も戻れず、反発しつつも拠り所にしていた組織は壊滅し、最も近しい肉親は死んだ。
愛してくれた女性<ひと>も目の前で失い、残ったのは新しく築いていこうと決めた絆だけだ。
故郷と彼を繋ぎ合わせてくれる従兄の存在がなければ、『アルフレド』がリーゼ・マクシアで息を吹き返すことはなかったのかもしれない。
だからこそ、彼は怯えているのだ。
偽りの名に本当の自分を喰われてしまうのではないか、魂の根幹である『アルフレド』が実質的に殺されるのではないか、と。

「『アルヴィン』が大半を占めて『アルフレド』が忘れ去られていったら、『アルフレド』は死んじまうのかな……」

そろりと背に腕を回され、泣くのを堪えるようにしがみつかれる。
心中を読んだかのような呟きに、やはり自分の憶測は間違っていなかったのだと気づく。
僕にはない彼の不安は、いつだって過去に直結しているのだ。
穏やかな世界で育った自分は、どうしたってその深い傷に寄り添ってやれない。
そうとわかっていても、眼前で項垂れる弱り果てた彼を慰めたい気持ちは膨れるばかりで、僕は抱きかかえた手に力を込めて応える。

「そんなことないよ。さっきも言ったでしょう、アルヴィンはアルフレドの一部だって。どっちも本物なら、死ぬときは一緒だよ」

どんな名であれ、呼ばれて振り返るのが彼なら、彼の名が死ぬときは彼自身が死ぬ時以外に他ならない。
裏を返せば、彼が生きている限り、どんな名も共に生きているのだ。
そう強く語りかければ、か細い声が問いかける。

「そうかな」
「そうだよ。アルヴィンが生きている限り、アルフレドは生きてる」

揺らぐ声音を励ますように強く断言し、整えられた髪を柔らかく撫でる。
単調に繰り返すそれは拒まれることなく、背中に回された指先から力が抜けるまで何度でも繰り返す。
彼は長身のせいか、頭を撫でられるのがとても好きだ。
甘えてくるときのあやし方が定着しつつあるなと思いつつ、逆に彼に抱きしめられることを満更でもないと感じている自分も同じくらい甘えただと自覚する。
優しい彼は、僕を溺死させるんじゃないかと思うほど愛情表現過多な人だ。
人によっては重たい上に面倒くさいと思われると嘆いていたが、甘えベタを自負する僕からすればありがたい話である。
そろりと肩口から窺うように見上げてくる彼の仕草が可愛らしくて、思わずその額に唇を寄せて信愛を示す。
ようやく納得のいく結論が出たのだろう、触れるばかりのキスに擽ったそうに笑う彼の表情からは、寂しさは読み取れない。
安定した穏やかな笑みに、こちらもひと心地ついたような気分になった。
やっぱり、彼は笑っている方がいい。
眩しげに目を細めて見つめ返し、僕はそっと訊ねる。

「ねぇ、どう呼ばれたい?」
「ん?」
「呼んでほしい名前で呼んであげる」

本来名づけられた名前。
故郷で呼ばれた愛称。
愛されて得た呼び名。
そして、異国で生きる偽名。


僕が彼にしてあげられる数少ない大切なこと。


「んじゃ、『アルヴィン』で」
「理由を聞いても?」
「お前が好きになった俺でいたい。それに、『アルヴィン』が俺の一部だってわかっててお前が呼ぶんだから、ついでに紛れてアルフレドも呼ばれてんだろ、って解釈しとく」
「新発想だね」
「お得でいいだろ」

「お前が教えてくれたことだ」と囁いて、アルヴィンはずるずると身体を傾けるとソファに長身を横たえる。
肩にあった頭が膝元まで降りてくると、今度はぎゅうっと腰を抱きしめられた。
驚いて見下ろせば、安心したような満足げな顔があって、こっちまで口元が緩む。
本当に、どうしてこの人はこんなにも僕を揺さぶるのか。
甘えモード全開の可愛さに悶々としていると、こちらの気持ちを知ってか知らずか、アルヴィンはさらに可愛らしいお願いを口にする。

「呼んでくれ、ジュード」

それは、懇願に近い願い。
だが、あまりにもささやかな願い。
想像から寄り添うだけでこんなにも苦しいのに、彼はどれほどの悲しみに視界を閉ざしてきたのだろう。
息が詰まりそうになるのを必死で抑えながら、気づかれないように声を潜めて呼びかける。

「アルヴィン」
「もっと」

「アルヴィン」
「もう一回」

「アルヴィン」
「まだ足りない」

ひとつ、ふたつと名を呼び続けても、まだまだ満たされない願いのかけら。
この小さな願いをいくつ積み重ねれば、彼は過去のしがらみから解放されるのだろうか。
つらくとも大切な記憶に違いない。
なくなればいいとも思わない。
だけど、いつか、閉ざしてきた残酷さが引き起こす不安に囚われることなく、彼が未来を生きていけたらと思う。
そのために、僕が差しだせるものは何でも差し出そう。
彼が僕に望む名で、僕は彼を呼び続け、閉ざした先を見つめ続けよう。

「アルヴィン」

さらさらと髪を梳いて、一音一音大切にしながら囁く。
腰に腕を絡めたまま乞い続ける彼の嬉しそうな表情に、むず痒いほどの『好き』を感じて苦しい胸の内に温かな灯がともる。
うっかり頬が緩む僕に気づいたのか、アルヴィンが眩しそうに見上げてきた。

「お前に呼ばれると、不思議な感じがする」
「え?」
「なんか、すごく大事にされてる気がする」

ふわふわと夢見心地な感想に、密かに込めた気持ちに気づかれたようで気恥ずかしさが勢いよく舞い込む。

「そ、うなんだ」
「うん、だから、好き」

そう言ってアルヴィンは柔らかな微笑みを浮かべ、左手をゆっくり持ち上げ僕の頬を包み込む。
羞恥にとどめを刺すような追撃の好意に、僕はびしりと固まり、頭の中が沸騰するような錯覚に襲われた。
だからどうして、この人はこんなに簡単に好意を混ぜて返すのだろう。
ただでさえ無防備に晒される純粋な笑顔と好意は破壊力抜群だというのに、顔がいい分より一層性質が悪い。

「ぼ、僕も、アルヴィンに呼ばれるの好きだよ」
「ジュードも呼ぶか?」

子犬のようにことんと首を傾げて問われ、一気に熱が駆け上る。
大好きな人が魅せる甘えた仕草に冷静さの吹っ飛んだ頭は、当然ろくな答えを弾き出さなかった。

「じゃ、じゃぁ……そう、だね、お願いしよう、かな」

 

その後しばらく、第三者が見れば何の罰ゲームかと思うほど甘ったるい呼び合いがリビングに転がることになる。

 

 

 

 

 

* * * *

2014/01/06 (Man)

数ある中の呼ばれたい名前。


*新月鏡*