「a spotted rose -1-」

 

 

 

グラグラと脳が揺れる。
遠く離れた指先から痺れが駆け上がってくる。
しかしそれも、心臓に近づくにつれてぼやけてしまう。
他人事の感覚、まさにそれだ。
閃光弾と炸裂する爆音に五感のほとんどを奪われた直後に似ている。
何もない空間に放り出されたような気分で、天地の掴めない浮遊感が気持ち悪い。
いったい何がどうしてこうなったのか。
切り離された感覚を引き戻すに合わせて、アルヴィンは吹っ飛んだ記憶も掘り起こす。

『早く逃げろ』

突然、記憶が途切れる数秒前の、荒い自分の声が劈く。
次いで、その声を引き裂くように上がる悲鳴。
なんでこんな小さな子がここにいるんだ。
振り返る先、転がり出てきた子供の姿に、アルヴィンは呆気にとられた。
だが、意識するより早く、傭兵として鍛え抜かれた身体は瞬間的に走り出す。
咆える銃声を背後に、小さな身体を突き飛ばして、それから。
と、直近の記憶に触れた途端、背中が焼けるように熱を発した。
そこに心臓があるのではないかと思うほど、脈打つたびに抉られ激痛が突き刺さる。
何故、こんな痛みを忘れていられたのか不思議なほどだ。
思わず顔をしかめてしまったが、そんなもので軽減されるはずもない。
思考を侵食する激痛に、記憶を追うことも放棄して、必死に痛みを忘れることだけを念じて身を捩る。

「い、ってぇ」

ガラガラの干乾びた声を絞り出すように零した途端、歯車がかちりと合う。
自分の身体と感覚がリンクした音だ。
夢現の霧が一斉に晴れてクリアになり、間髪入れずに鉛を詰め込まれたのかと思うほどの重苦しいだるさに襲われる。
反射的に背中を丸めてしまったが、今度はその動作にぷっつりと背中の割れるような痛みが走り、噛み締めた歯の隙間から、殺しきれなかったうめき声が漏れた。
皮膚を滑り落ちる冷や汗を拭うこともできず、アルヴィンは暴れ回る苦痛が過ぎ去ることを願い続ける。
鈍っていた他人事の感覚も麻痺した浮遊感も綺麗さっぱり姿を消して、熱の篭った痛みだけがそのまま残るとは、なんという皮肉だろう。
一番消え去ってほしかったものが残るという現実に、抗う気力も殺がれていく。
もう一度気を失ってしまえないだろうか。
アルヴィンの心の隅で甘っちょろい願望が面を上げたとき、突然、痛みの熱とは別のぬくもりが現れた。

「万物に宿りし生命」
「その息吹をここに」

耳に心地よい柔らかな詠唱が同調する。
2人分の声が旋律をなぞるように抑揚し、それに合わせて目にも鮮やかな光の演舞が始まった。
うつ伏せで横たわるアルヴィンを包むように光の線が走り、複雑な詠唱紋の組み込まれた円陣を描く。
数秒で描き上がった陣は輝きを増して発光し、わずかな風の流動を見せた。

『リザレクション』

2つの声がぴたりと揃った時、渦を巻く風が上昇を始める。
緩やかに巻き上げられる光の粒がアルヴィンの肌を撫でれば、みるみるうちに激痛が遠のき、強張った身体から力が抜けていった。
優しく抱かれるような心地よさに、忘れ果てたはずの浮遊感が手招く。
だが、痛みが完全に遠のいた途端、薄っぺらい浮遊感は光の演舞が終わるのと同時に風に溶けて消えた。
眠りへ誘われる手前の、あともう一歩の物足りなさに口端が曲がる。
名残惜しさだけが転がって、結局意識は保ったままだ。
残念さのあまり、アルヴィンがこれ見よがしのため息をつきかけると、不意に視界が翳った。

「大丈夫ですか?」

その声に、ちらりと視線だけで見上げる。
微細な不満を抱えたアルヴィンだったが、覗き込む大きな瞳とかち合えば、それもあっさり崩れ落ちた。

「エリー、ゼ」
「はい、おはようございます、アルヴィン」

大きく瞬きをして凝視する先には、可憐な花が綻ぶような愛らしい笑みを浮かべた少女――エリーゼがいた。
小首を傾げて様子を窺う動作に合わせて、緑色を基調としたパステルカラーのドレスがふわふわと揺れる。
だが、自分の記憶の中では、彼女はカラハ・シャールで学業に勤しむ身のはずだ。
そんな彼女が、何故自分の傍にいる。
とっさに理由を導き出すことができずに困惑していると、今度はその背後から別の顔も覗き込んできた。

「わー、すごいガラガラ声。起きたてじゃ声出ないのも当然だね。わたし、何か飲みものもらってくるよ」
「レ、」
「はーい、わかったから無理に声出さなくていいよ。病人は無理しない!あとでちゃんと説明してあげるから大人しく寝てること。いい?」

名を呼ぶ前に、びしりと人差し指を突きつけられて封殺される。
相変わらずの活発さを言動に滲ませる少女はレイアだ。
髪を後ろで一括りにまとめており、日に焼けた健康的な素肌が惜しげもなく晒されている。
レイアが好んでパンツスタイルを選ぶせいか、彼女を目にした人間には、女性らしい甘さより爽やかな印象を与えるようだ。
目に麗しい見知った顔が並んでいるだけでも、アルヴィンにとっては大層な驚きだったが、それよりも有無を言わさぬレイアのちゃきちゃきした行動の方が、寝起きの頭にはよほど刺激的だった。
目を白黒させているアルヴィンを他所に、エリーゼにあとを任せたレイアは軽やかな足音を立てて部屋から出ていく。
レイアの背中を見送ったエリーゼは、小さく息を吐くと、もう一度「大丈夫ですか?」と控えめに訊ねてきた。
よく見れば目元に薄らと隈ができている。
彼女たちがこの場所にいる理由はよくわからないが、とにかくずいぶん心配をかけたようだ。
記憶を掘り起こしきれなかったアルヴィンは、エリーゼの様子に眉根をわずかに寄せて頷くと、起きることすらできない自分の身体を視線のみで見下ろした。

「俺、いったい……」
「アルヴィンは、3日も眠ったままだったんですよ」
「3日?」
「詳しいことは、ローエンたちが話してくれると思います。私も、あまりよくわからないんです。ただ、よくない事態になっている、みたいなことを言ってました」
「よくない事態?」

やや視線を下げて言葉を選ぶように話すエリーゼに、アルヴィンは居心地の悪い感覚を抱く。
昏睡状態に陥るほどの怪我や、それに関わる記憶がはっきりしないだけでも得体の知れない不安感を抱くのに、既知の仲間から得る不確定な情報のおかげでさらに拍車がかかるようだ。
まだ寝ぼけたままの頭がもう少し覚めてくれたなら、エリーゼが言わんとしている『よくない事態』の見当もつくかもしれない。
そこでアルヴィンは、レイアが先ほど飲み物を持ってくると言っていたことを思い出す。
干乾びた身体に冷たい飲み水を流し込めば、少しは覚めてくれるだろうか。
レイアがもたらす成果を期待して、楽観視できない3日間の空白を再び遡りかけたとき、控えめな音を立てて重厚な扉が開いた。

「目が覚めたか」

数人の配下を引き連れて現れた人物に、アルヴィンはエリーゼとレイアを目にした時以上に驚いた。
一般人を装うようにシックな服に身を包んではいるが、纏う雰囲気と硬い声は間違えようがない。

「……ガイアス」

驚愕に押されてアルヴィンが零したのは、リーゼ・マクシアの覇王の名前だった。
大国を統べる王を敬称もなく呼び捨てにできる人間は限られていたが、幸いなことに、アルヴィンはその稀なる人間のうちの一人だった。
今では自分の商売分野で関わる程度のつき合いだが、かつては死闘もくり広げた仲である。
しかし、いくらアルヴィンが大きな負傷をしたからといって、ガイアスほどの人物が見舞いに訪れるには、いささか理由としての説得力に欠ける。
そこまで心配されるほど、自分はこの厳めしい王と親密ではなかったはずだ。
困惑と驚きをそのままに、開いた口すら塞げず見上げていると、観察するようにガイアスの鋭い視線が寄こされた。

「なん、で」
「ここは俺の居城だ。俺がいることに不自然さはない」

直立不動で見下ろしながら、ガイアスは面白くもないと言わんばかりの声音でアルヴィンの疑問を払拭する。
その返答を受けて、アルヴィンは初めて自分がどこにいるのかという疑問を持ち、その答えを知った。
そろりと視線を動かせる範囲で見渡せば、細部には一般の屋敷とはかけ離れた豪奢な造りが窺える。
絢爛豪華と言うには質素すぎるが、柱や壁布、装飾の一つ一つに伝統的で繊細な紋様が刻まれており、脈々と受け継がれる文化の温かみを伝えてくるようだ。
そのぬくもりを他所に、おそらく外は猛吹雪に荒れ狂っていることだろう。
年中雪に覆われた、リーゼ・マクシアでも指折りの過酷な土地、カン・バルク。
その地に立つ城こそが、リーゼ・マクシアの覇王ガイアスが起点とする城なのだ。
唖然としたまま部屋の中をひとしきり見回して、再びガイアスに視線を戻す。
いつの間にか、ガイアスの体勢は仁王立ちから腕を組んだ楽な体勢に変わっており、自分の所在を確かめるアルヴィンに配慮して、落ち着くまで待っていてくれたことに気づく。
混乱の渦中に投げ込まれている今のアルヴィンには、その配慮がとてもありがたかった。
一息ついた頃合いを見計らって、ガイアスは再び姿勢を正す。

「目覚めて早々で悪いが、お前に言っておかなくてはならないことがある」

改めるように切り出してきたガイアスの声は、普段耳にするより幾分硬い。
その微細な変化が言い知れぬ不安を呼び、喉が鳴る。

「ははっ、おたくが改まって俺に言っておかなきゃならないこと?厄介事か?」
「あぁ、厄介なことになった。事が収まるまで、お前にはここからの外出を禁じる」
「はぁっ!?」
「正確には、この城からの外出を禁じる」
「ちょっとまて、どういう、っい」

聞き捨てならない命令に、アルヴィンはとっさに手を突き、上掛けを跳ねのけて上体を起こしかける。
だが、動作の反動で背中から痺れるような激痛が走り、指先すら動かせなくなった身体は支えを失って再びベッドに沈んだ。
無様に突っ伏すアルヴィンを、弾力性の高いスプリングが小さな非難の声を上げつつ受け止めてくれた。
頬に触れるシーツが柔らかい。

「そんな状態で無理に起き上がるな」

アルヴィンの後頭部を見下ろしながら、ガイアスは抑揚のない声音で制止をかける。
頭上から降り注ぐ冷たい感想に情けなさを歯噛みしつつ、アルヴィンは顔を半分シーツに埋めたままガイアスを見上げた。

「出るなってどういうことだよ。俺がおたくの命令に従うとでも思ってんのか?」
「力ずくでも従ってもらう」
「ガイアスっ!」
「動いちゃダメです、アルヴィン!」

無茶な体勢でガイアスに掴みかかろうとするアルヴィンを、エリーゼが咎めた。
拾い上げた上掛けごとアルヴィンにしがみつき、ベッドへ必死に押し返す。
小さなエリーゼ一人で自分を止められるものか。
そう高を括っていたが、アルヴィンの意思に反し、傷ついた身体はエリーゼの力に沿ってベッドに押し戻された。
非力な少女一人の力にすら抗う体力のないことに、アルヴィンは愕然とした。
その様子を眺めていたガイアスが、再び口を開く。

「冷静さを欠いた今のお前に話すことはない。しばし身体を休めて頭を冷やせ。頭が冷えた頃に詳細を話してやる」

そう言って、ガイアスはアルヴィンに背を向ける。
宣言通り、これ以上の話をするつもりはないということだろう。
取り付く島もないガイアスの意思表示に、アルヴィンは思いっきり左手でシーツを殴った。
ぼふっと間抜けな音を立てるばかりだったが、傍に立つエリーゼに僅かに身を竦めさせるくらいには、アルヴィンの激情が表れていた。
突然の一方的な拘束に、人間が大人しく従うと考える方がどうかしている。
そんなもの、冷静な頭でなくてもわかるはずだ。
真っ当な理由が見つけられず、持て余した憤りが自分の無力さへの苛立ちにも火をつけて止まらない。
そんなアルヴィンを背中越しにちらりと見とめたガイアスは、背を向けたまま言葉を継いだ。

「ただ、これだけは言っておく」
「なんだよ」

重く響く声に、アルヴィンは投げやりな返答で応える。
口汚く罵ってやりたい気分にも陥れば、自然と語気も荒くなるものだ。
どうせ自分の後始末もできない未熟さに、お小言でもくれる気だろう。
相手を侮る軽薄さで構えていたアルヴィンだったが、次の瞬間、己の短慮を後悔することになった。

「お前の存在がスヴェント家に知れた。波乱は目の前だ。相応の覚悟はしておけ」

冷たく言い放ち、ガイアスは用は済んだと従者を引き連れて立ち去る。
遠ざかるその背に、今まで不貞腐れた態度をとっていたアルヴィンは、一言も反発することができなかった。
それどころか、エリーゼの心配げに寄こしてくる視線にすら、気づく余裕が一切なかった。
徐々に俯くアルヴィンの目は見開かれたままで、微かに震える指先も治まる気配がない。
ガイアスの残した言葉が木霊する。
スヴェント家に、自分の存在がバレた。
空白の3日間に起こった事態は、アルヴィンが想像する以上に悪いものだったのだ。
底知れぬ恐怖に身を浸しながら、しかしそれを凌駕するほどの不安に、アルヴィンは脳裏にある人物を思い描いていた。
それは、否応なしに巻き込まれてしまうであろう、一人の青年の姿だった。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2013/07/18 (Thu)

火蓋は切って落とされた。


*新月鏡*