「spring scenery -3-」

 

 

 

「お前はリーゼ・マクシアの文字が読めなかったのか?」

『偶然拾った』2輪の花を見せた途端、端整な美貌を歪めてミラは開口一番そう言った。
視線でも鋭く問われ少々怯んだが、リーゼ・マクシアの文字、という聴き慣れない言い回しに頭が自然と傾く。

「エレンピオスで暇つぶしに文字は覚えたけど、文字って何種類もあるものなの?」

反射的に聞き返すと、ミラは少し目を丸くした。
どうやら思わぬ返答だったらしい。
瞬きを数回した後、手元のリボンへ視線を落とし、考え込むように顎に手をかけて小さく唸る。

「ミュゼは、エレンピオスの文字しか知らなかったのか」
「リーゼ・マクシア独特の文字なんて初耳だわ。言語をそんなに複雑化して何が楽しいのかしら?」
「文字の違いは、文化と歴史の違いが生んだものだ。別に娯楽で増やしたわけではないさ」
「それもそうね」

ふむふむと興味深げに聞き入ると、何故かミラが肩を落とした。

「これはあいつも大変だな」
「ミラ?」
「いや、それよりリボンについて、だったな」

ぼそりと零された独り言を聞き落した私がいぶかしがれば、ミラはわざとらしい咳を挟んで仕切り直しをはかる。
何か聞き逃してはいけないような気がしたが、話す気のないミラに追及するのも無駄だろう。
そう結論付け、あっさり追及の道を放棄した私は、居住まいを正して向き直る。
こちらが完全に聴く体勢になったのを確認して、ミラが本を朗読するような滑らかさで話し始めた。

「推測するに、これはおそらく祈念布の応用だろう。祈念布というのは、ア・ジュール地方の広い範囲で行われている伝統工芸の一つで、願いを込めて手織りで作られる飾り布のことだ。普通は願いに沿った紋様を織り込むだけなんだが、このリボンは紋様の他にも、文字になるよう糸を織り込んであるみたいだな。手紙代わりといったところか。なかなか楽しい趣向を凝らしているじゃないか」

そう言って、ミラは指先に紫色のリボンを掬い上げ、控えめに声を立てて笑う。
楽しそうなミラの様子に、こちらも微笑んで眺めていたいところだが、少し気になる部分に疑問を口にする方が早かった。

「ねぇミラ、紋様は何の願いを表してるの?」
「願いの意味か?少し待ってくれ、調べてみる」

ちょこんと指先でリボンに触れて問うと、ミラは2輪の花を私に預けて背を向けた。
ミラの背後にあった大樹の傍には、これでもかと積み重ねられた本の山が築かれており、ミラは本の山に埋もれながらひとつひとつ背表紙をなぞっていく。
人間の知識を知るためにと、ミラが20年間集め続けた書籍の一部だ。
精神分野や趣味に若干偏りを見せるものの、歴史書の類も数多い。
住まい代わりにと精霊界でも造った社に行けば、ここにあるものとは比べ物にならない量の本がある。
社を埋め尽くすほどの書籍の山だ、綺麗に収まる本棚を作ってやれば、巨大な図書館顔負けの品揃えになるに違いない。
その一部とはいえ、大樹の隣に積み重なる本は軽く50冊はある。
しかし、ミラは物ともせずに、読めているのかどうか怪しいスピードで背表紙を追っていく。
時間の許す限り読書にのめり込むミラゆえに、短時間でお目当ての本を探し出せるのだろう。
この特技は何度見ても神業としか思えない。
そうこうしているうちに、ミラはものの十数秒で一冊の本を抱えて戻ってきた。
表紙にはポップな字体で可愛らしくタイトルが書かれているが、文字が読めないので何が書いてあるかまではわからない。
分厚い本を開いて読み進めるミラを眺めながら、なんとなく手持無沙汰でリボンの端を少しだけ弄る。
織り糸特有の手触りが心地よくて、なかなか手放せなくなってきた。
人差し指にリボンを絡める遊びにまで発展したとき、パラパラと忙しなく踊るページの音が止み、ミラはここでようやく一息ついてこちらを見た。
その目が楽しげに輝いていて、意図の読めない私はまたしても小首を傾げる。
そんな私に笑いかけ、ミラは私の指に絡んだ黒色のリボンを指差した。

「どうやらこの紋様は『恋愛成就』を表しているらしい」
「れ、恋愛!?」

想像だにしない単語にぎくりと指先が凍る。
だが、ミラはお構いなしに言葉を継ぐ。

「ちなみに、それはミュゼ宛だ。こっちの祈願成就、無病息災の紋様がある方は、どうやら私宛らしい。そしてこの両端に走るラインは幸運を招くと信じられている伝統的な紋様だそうだ。親しい人へ贈るときによく選ばれるらしい」

驚愕に打ち震える私を他所に、ミラの丁寧な説明がこんこんと続く。
大好きなミラの声も、残念なことに、『恋愛』の一言のおかげで今の私には右から左だ。
ただでさえあのガイアスが恋愛成就を願うことに驚くのに、それが自分宛のリボンに刻まれているということも天変地異の前触れかと思うほどの驚嘆に値する。
何より、民の幸せを願い、世の平和を願い、力で束ねて平定しようと奔走するあのガイアスに、恋愛の文字はどうにもすんなり結びつかないものだった。
もちろん、彼とて人間だ。
誰かを特別に愛することも、当然考えられる。
だが、自分の認識にある可愛らしい恋愛感と彼がどうやっても結びつかない。
ぐるぐると目まぐるしく空回る思考と感情に陥っていると、ミラは口端を引き上げて肩を寄せてきた。

「しかし、ミュゼ、あからさまに私たち宛のものを偶然拾ってきたのか?」
「え、えぇ、そうよ。こんな偶然ってあるのね。きっと私が拾いやすいようにガイアスが罠にかけたのよ」
「ほぅ、ガイアスが、な」
「あっ!」

口を突いて出た言い訳がとんでもない大失態だと気づいて、慌てて両手で口元を覆い隠す。
彼のことについて考え込んでいたせいで、あれだけ気をつけていたのにとっさに名前を出してしまった。
後続の言葉を失いながら、視線を右へ左へ泳がせて狼狽える。
あぁ、なんてこと。
これで日課が台無しになったら、全部ガイアスのせいだわ!
予想外の日課の変化と紋様の意味、破壊力抜群のサプライズに、これを罠と言わずして何というのか。
不在の人物に腹を立てつつ、覗き込むように寄ってきた妹を盗み見る。
視線が合った途端、面白くて仕方ないと言わんばかりの輝かしい瞳を見つけて頬に朱が走った。

「違……た、例えよ、例え!もしかするとローエンの罠かもしれないわ。一国の宰相ですもの、巧妙な罠を仕掛けてたのよ」
「……ふむ、まぁミュゼがそう言うなら、そういうことにしておこう」
「そ、そんなことより、紋様以外にも文字があるんでしょう?ミラにもメッセージがあったの?」
「いや、これはガイアスからではないな」
「だから、ガイアスは例え話だって言ってるじゃない!」
「まぁそれも置いておくとして、今はお前宛のメッセージの話が先だな」
「もう、ミラのいじわる!」

赤くなった頬を両手で覆って小さく憤慨する私を軽くあしらって、ミラは手元に引き寄せた黒色のリボンを指でなぞった。
そして、こちらの熱を冷ますような真摯な瞳でひたと見つめ、よく通る声音で読み上げる。

「『風霊終節風旬(カルム・ブラウ)の初日、鐘2つ、いつもの場所にて待つ』」
「え……?」

吹き上げる風に、意識すら一瞬飛んだ。
リセットをかけるように、ばちりと大きく瞬く。
数呼吸の間を開けて吹っ飛んだ感覚が戻ってくると、急に恐ろしくなって身が竦んだ。
ガイアス、貴方、いったい何を考えているの?
大きく脈打つ心音がひどくうるさくて、指先から帯びていたはずの熱が波のように引いていく。
膝の上に横たわる華やかな2輪の花は、変化の兆しどころか、もっと恐ろしい苛烈さを秘めていた。
彼は、嵐を呼びたいのだ。
人と精霊の境界線を、大精霊としての均衡を、彼はぶち壊して会いに来いと言っている。
こちらのルールを彼が知らないのはもっともだが、それでも思慮深い彼がささやかな日常を破壊するほどの変化を起こすことに、こんなにお肯定的だったとは思わなかった。
今の今まで、こちらが望む距離で接してくれていたのに、何故今になってこんな急速な変化を仕掛けてくるのか。
掴めない意図に愕然としていると、僅かに眉を下げたミラが白い花を引き抜いて、私に向かって差し出した。
ほっそりとした優美な花弁を追って、茎に絡む黒色のリボンが誘うように揺らめく。

「ミュゼ、会ってやったらどうだ。まんざらでもないんだろう?」

その一言に、今度はミラに驚かされる。
喉の詰まるような呼吸に、開いた口が塞がらない。
まさか、誰より精霊と人の均衡を大切にするミラから、そんなセリフが寄こされるなんて。
自分自身には大義を振りかざして甘えを許さないくせに、どうして私には甘言を差し出してくるの?
戸惑いに瞳を揺らめかせていると、ミラは小さく苦笑した。

「黙っていたが、ずいぶん前から人間界へ行き来していることには気づいていたんだ。今更隠さなくていい。私は怒るつもりもない」
「ミラ……」
「会いたいと思う気持ちはよくわかる。ミュゼが自分で何らかの制約をかけていることも。だが、今回は向こうから会いたいと言ってきたんだ。ミュゼ、それくらい自分に許してやらないか?」

優しく甘やかな誘惑に眩暈を覚えて身体が揺らぐ。
必死に隠してきた日課がバレていたことに心臓の凍るような気持ちになったが、許容した上で唆しているというミラにも信じられない思いだった。
だが、不安も恐怖も驚嘆も過ぎ去ってしまえば、じっと見つめ返してくるミラの気持ちに心が触れる。
ミラは、ミラ自身の気持ちを知っているから、私には叶えさせようとしているのだろう。
特別な一人に焦がれる感情。
会いたい想うその感情を、率先して救い上げようとしているのだ。
決して届くことのない自分自身の代わりに。
理想と使命を誇りとし、その立場から動けない自分の代わりに。

あぁ、バカね

慈しみのマクスウェル、貴女こそ、誰より人間に恋焦がれているだろうに

胸締めつけるような労りに、愛しさが溢れて仕方ない。
抱きしめてやりたくなる衝動を抑えながら、焦れて私を呼ぶミラを見つめて微笑む。
こんな時ばかりは、男勝りな彼女もただの可愛らしい妹に見えてしまうようだ。
姉としての気構えが自然と面を上げれば、不安に曲がっていた背筋が正される。

「ミラ、ダメよ。それはダメ。だって、これはガイアスのメッセージじゃない。あの人の言葉じゃない」

思った以上に強く出た声は、ミラの甘言をぴしゃりと遮断する。
ミラは予想外の返答に目を丸くしているけれど、こんなこと、私には最初から気づいていたことなのだ。
まどろっこしくも可愛らしい手段を、彼が思い浮かぶはずがないと。
凝り性でもないのに、こんなに愉快な趣向を凝らしてくるはずもないと。
抱いた違和感が最初から断言している。
なら、とるべき行動は自然と決まってくる。
彼が熱望しているわけではないとわかっていれば、気軽な誘い文句のメッセージに応えるべきでない。
危険を冒してまで均衡を崩すような行動をする必要はないのだ。
この心を駆り立てるものがないなら、なおさら。
私を駆り立てるのは、彼自身の自然な行動が魅せるものであって、こんな小細工めいた駆け引きではない。
それが、私とガイアスの在り方で、それは日課を続けてくれていた彼も承知しているはずなのだ。
しゃんとした態度で自分に言い聞かせるように断言すれば、今度はミラの懇願するような声が宙を滑る。

「ミュゼ」

久しぶりにみる情けない妹の顔に、断固として撥ね退けようとした気持ちが崩れ落ちていく。
まるで、こちらが悪いことをしているようだ。
だが、いつもの凛々しいミラが影をひそめ、取りつく島がないと言わんばかりに垂れ下がる眉を見ると、どうしても申し訳なさより可愛いと思う気持ちが騒ぎ出す。
どうしようかしら。
困り顔の可愛いミラをもっと見てみたい気がするけれど、これではこっちがいじめっこね。
愛情表現の一種としてもう少し焦らしてみたい気持ちを抑えつつ、仕方ない、とこっそりため息をつく。

「でも……そうね、律儀な人だもの。きっと待っているのでしょうね」

そう言って微笑みかけて、私はそっとミラから視線を逸らした。
ミラが背中を押さなくても、会いたいと願うこの心はすでにわかっている。
彼は必ず待っているのだと。
たとえ誰かにお膳立てされ、唆されたことであっても、自分で承諾した行動の結果に責任を負うのだと。
届くかどうかもわからない一方的な約束すら、彼は違えることなく実行する。
その場に私が現れようと現れまいと、寒空の下で待ち続ける、彼はそんな人なのだ。

なんて融通の利かない人。

なんて意志の強い人。


あぁ、本当に、なんて意固地でいじらしい人なのかしら。


目を閉じて脳裏に彼の後ろ姿を思い描けば、胸を突くような甘い痛みに切なくなる。
白い雪に映える燃えるような背中を忘れるはずがない。
ぎゅっと胸元に寄せた両手で閉じ込めて、振り切るように瞼をこじ開ける。
幾分気遣わしげに寄こされるミラの視線に、柔らかく微笑んで答える。

「仕方がないから、会いに行くわ」

彼のために。
貴女のために。
彼の背を押した誰かのために。
そして、私のために。

たくさんの言い訳をより集めて、私はひとつだけ私に危険な甘えを許しましょう。

「いいのか?」

自分から唆したくせに、不安げに再確認をするのはずるいと思ったが、それでも私はしっかりと頷いた。

「えぇ、いいの」

変化を全く望まなかったわけじゃない。
ギリギリの境界線まで会いに行くほど、離れ難かった人ならば、このきっかけは喜ばしい一面すら覗かせる。
ただ、これが彼自身で導き出した明確な答えだったなら、もっとすんなり事が運んだのだ。
その一点だけは、どうにも残念だ。
僅かに翳る視界に俯けば、フォローするようにミラが口を開いた。

「お前の気持ちは、わかる」
「ふふっ、私たち姉妹ですものね。やっぱり似たところがあるみたい」
「すまない、ミュゼ」
「何を言うの。私は幸せよ」

この身の置かれた状況を思いやって謝ってきたミラの額に、私はそっと目を閉じて額を寄せた。
幸せだと思う気持ちは本心で、ミラが気に病むことなどまったくないのだ。
密かに求める彼との距離も、考えによっては楽しい日々を過ごす幸せな距離ですらあったのだから。
それに、

「必要なときに、人は出会うようになっているのよ、きっと」

吐息に溶ける声で言葉にした途端、温かな灯火がぽつりと胸に灯る。
えぇ、きっとそうね。
この変化のきっかけすら、私たちには必要だったのかもしれない。
一人納得して笑みを深くしていると、突然、ミラが噴き出すように声を立てて笑い始めた。
目を丸くして凝視しても治まることなく、軽やかな笑い声が澄んだ青空を駆け回る。

「私、おかしなことを言ったかしら?」
「いや、なんでもない」

必死に笑いを治めようと努めつつ、ミラは素知らぬふりで話さないつもりらしい。

「あら、隠し事はダメよ、ミラ!」

姉に隠し事なんて言語道断!
日課を隠し続けてきた過去を棚に上げて、白状させようと手を伸ばせば、ミラはするりとこの腕をすり抜けて逃げてしまった。
振り向いたミラの好戦的な笑顔に、これは鬼ごっこなのだと気づいて立ち上がる。

「白状なさい、ミラ!」
「捕まえられたら話してやろう。来い、シルフ!」
『お、おい!僕を巻き込むなよ!』

こっそり見守っていたシルフを引きずり出して、ミラが空を駆ける。
私がその背を追いかける。
弾けるような複数の笑い声は、しばらくの間、野を駆けた。

 

 

 

誰もいなくなった大樹の木漏れ日の下。

置き去りにされた2輪が囁く。

 

約束の日は近い。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2013/05/25 (Sat)

ミュゼ様の決意。
マクスウェル姉妹マジ可愛いVvv


*新月鏡*