夢を見た。
夢の中で、冷たくなった身体を、何かが優しく撫でていた。 ぽかぽかと優しい光が、閉じた目蓋の裏にも明滅して、幻想的な軌跡を描く。 ふわりと重力を感じなくなったと思ったら、今度は硬く湿った何かに触れて、息が詰まった。 だがそれも一瞬で、嫌な感覚を拭い去るように、自分の指先に温かなものが触れる。 大丈夫だと宥めるようなぬくもりに、何故か懐かしさを感じて、もっと引き寄せようと躍起になった。 だけど、自分の夢の癖にどうにもうまくいかない。 ゆらり、ゆらりと揺れる地面に、たゆたうように身を任せるだけ。 そんな自分の目の前を、不意に白い蝶がひらりと舞った。 贄を選ぶ白い蝶。 憎い象徴であるはずなのに、やはりその美しさに魅せられて、とっさに手を伸ばしていた。 だが、掴もうとするたびに、ひらりとかわされ届かない。 選ばれたあの時には、すぐに捕らえることができたのに、今は指先一つ掠らなかった。 そうこうしているうちに、白い蝶はゆったりと距離をとる。 遠く、遠く、徐々に遠ざかっていく白い蝶を追って、揺れる地面を無意識に駆けた。 待って。 待ってくれ。 何処へ行こうっていうんだ。 お前は俺を選んだんじゃなかったのか。 あの日、母を泣かせるほど残酷な役目を、自分に与えたのではなかったのか。 この手に蝶が止まらぬことを喜ぶべきなのに、それを追いかける自分もどうかしている。 そう思っていながらも、追いかける足は止まらなかった。 ただ、蝶との距離が開き続けることを、とても酷くつらく感じていた。 追えども追えども縮まることのない距離。 息も絶え絶えになりかけた頃には、とうとう白い蝶を見失う寸前にまで遠のいてしまった。 あぁ、ダメだ。 行ってはダメだ。 見失う恐怖に耐え切れず、叫ぶ。 何を叫んだかはわからない。 だが、叫んだ瞬間、暗闇にぽつりと灯るばかりだった白い蝶が、突然溢れんばかりの閃光を解き放つ。 カッと炸裂するように突き刺さる光の矢に、見開いた視界は真っ白に染められた。
「……ん……」 やたらと視界が明るい。 白く視界を焼く光景に、アルヴィンはまだ夢の続きを見ているのではないかと思った。 ぼんやりと靄がかった頭を抱えながら、よろよろと上体を起こす。 なんだか身体のあちこちが痛む。 ぱっと見る限りでは、傷らしい傷などないのに、どうにも身体は疲弊して気だるい。 片手で頭を支えながら、アルヴィンはきょろきょろと辺りを見回した。 だが、自分が乗っている小さな舟のほかは何もなく、ただ眩しいほど光り輝く砂浜と、打ち寄せる波以外に何もない。 白と青と、砂浜に沿って道を示す崖の岩肌があるのみだ。 何もない。 誰もいない。 あまりにも平和で脅威のない光景に、アルヴィンは自分は死んでしまったのではないかとすら思った。 しかし、そんな夢うつつの状態も、砂浜へ無様に顔から突っ込めば目が覚める。 舟から砂浜へ降りようとしたものの、予想以上に身体が動かず、舟縁に足を取られてひっくり返ったのだ。 情けないし格好悪いことこの上ない。 ちくしょう、とざらついた口の中で悪態をついて起き上がる。 ぺっぺっと砂を吐き出しながら、もう一度ぐるりと辺りを見渡しても、本当に何もない。 夢のようだ。 あの城で気絶したはずなのに、魔法にかかったように自分は全く知らない場所にいる。 真っ暗な城とは似ても似つかない、明るい外の世界にいるなんて。 「……そ、と……?」 思いついた感想をくり返して、うわ言めいた頼りない音が、口端から零れ落ちる。 そうだ、何故自分は城の中ではなく外にいる。 城の影も形もない、こんな場所に。 そこまで考えて、アルヴィンは弾かれたように崖の上を見上げ、次いで海を見た。 崖の上には森らしき緑が溢れていて、城で探索したようなおどろおどろしい面影はない。 広大な青い海もひたすら穏やかに、どこまでも澄んだ色で視界を彩る。 霧に覆われた城など、まるで最初からなかったのだと告げるように。 「ジュー、ド……?」 弱々しい呼び声に、応えはない。 嫌な予感に、がくがくと震えが襲い掛かり、乱れた呼吸の合間に乾ききった失笑が掠れ出る。 嘘だ。 これは性質の悪い冗談だ。 焦点を失った視界で、水平線がじわりと歪む。 嘘だ。 うそだ。 だって、何度も約束をした。 必ず2人で一緒に城から出るのだと。 あの時、固く自分に誓った。 全ての決着をつけて、必ず迎えに行くと。 なのに なのに…… 「あぁぁぁあぁぁぁ――――っ!!」 喉を灼くほどの叫びが迸る。 押し寄せる波を押し返す。 一心不乱に沖へ向かって突き進む。 信じられない。 信じられるはずがない。 たった一人、自分だけが救われた結果など、信じてたまるものか。 水面を叩き、乱暴に泳ぐ。 だが、疲弊した身体と水分を含んでしまった衣服が足を取る。 波に攫われ、砂に呑まれ、何度も砂浜へ押し流される。 それでも抑えられない激情に、慟哭に、アルヴィンは叫び続ける。 何度も呼んだ、大切な名を。 魂を明け渡すように寄り添った、たった一人の名を。 応えるはずのその人をただ求めて、ひたすらにあらん限りの声を上げた。 気が狂いそうだ。 こんな結末など、ちっとも望んでいない。 泳いでは流され、流されては泳ぐ。 そうしてくり返されるアルヴィンと海のやり取りは、十数回に及んだ。 それでも、必死に抗い続けて叫ぶ声も、穏やかな海はただ静かに抱いて返すだけで、アルヴィンに望んだものを返す素振りは見せない。 その無情な優しさに、心身ともに疲弊しきったアルヴィンは、ついに膝をついた。 寄せて返す細波が、身体に跳ね返り、胸元へ飛沫を上げる。 だが、それもどうでもいい。 視界を焼くほど輝く景色も、もう見えない。 熱を帯びた目蓋に視界が歪み、飛沫と違った波紋が落ちる。 止めどなく涙を落とす瞳に映るものなど、どれ一つとして心に響くはずがない。 望み続けた外の世界。 それは誰と見たかった景色か。 嗄れた声で泣き崩れるアルヴィンを慰めるように、寄せて返す波が優しく撫でていく。 嗚咽を細波が掻き消していく。 海がそっと抱きしめて、泣くのはおよしと囁き続ける。 自分の無力さを、こんな形で味わうくらいなら、玉座の間でいっそ命尽きていればよかった。 こんな心を抱えたまま、生きていけるはずがない。 手放してはいけない人を城に置き去りにしたまま、のうのうと生きていけるはずがない。 「ジュード……」 お前に出会ってしまった俺に、お前は独りで生きろというのか。 ようやく、自分を偽る必要のない、心から傍にいたいと思える人と出会ったのに。 運命はいとも容易くアルヴィンからジュードを奪っていった。 それこそ、夢のように。 幻のように。 何一つ形に残るものを残さずに。 「、……ぅ……」 声を殺して泣いても、叫ぶほど泣いても、ジュードはこの手に戻らない。 揺るがぬ現実に、圧倒的な虚無感だけが、ぽっかり開いた胸のうちに巣食っていた。
それからどれくらい経っただろう。 涙も涸れ果て、声も嗄れ果て、精も根も尽きたように空っぽだ。 長らく身体を海に晒していたせいで、やけに熱を帯びた身体が重い。 だるさを訴える足を叱咤して立ち上がり、アルヴィンはふらふらと砂浜を歩き始めた。 ジュードがいないなら、きっと何処へ行っても一緒だ。 それなら、ジュードが示してくれたように、きちんと家に帰ってから、ほかの事を考えようとアルヴィンは思った。 ジュードを救いに戻るにしても、こんな疲弊しきった身体では戻れない。 体力を戻して、準備を整えて、船を借りて、そしてもう一度城を探しに行こう。 そして今度こそ、ジュードを取り戻す。 夢物語の中を歩くような足取りで、ぼんやりと考えながら、とぼとぼと歩いていく。 その間も、延々景色は白と青のコントラストで、どうにも時間感覚が狂ってしまいそうだ。 長く広がる砂浜に、自分の足跡だけが増えていくだけの変化。 さすがに足を運ぶだけの動作も疲れてしまって、膝に手を当ててやや前のめりに身体を支える。 髪から頬を辿って滴り落ちる雫を、気だるげに拭い、顔を上げたその時、 「……え?」 打ち寄せる波の合間で歪む、白波の影。 白い砂浜に突如見つけた不自然さに、アルヴィンは我が目を疑った。 「…………っ……」 息が詰まる。 喉がひりつく。 ばくばくと心音が囃し立ててうるさいくらいだ。 嘘だ、信じるものか、と詰りながら、期待に歩行の加速を止められない。 しまいには疲れも忘れて走っている自分がいて、発見した不自然な現象に近づけば近づくだけ、夢と現実がごちゃ混ぜになる。 あと10歩。 砂に足を取られて転げそうになるが気にしてられない。 あと5歩。 まばたきすら忘れるほど、逸らせない。 あと1歩。 たどり着いたその先で、アルヴィンは砂浜の上に横たわる姿を覗き込む。 さらさらと波に晒された白い裾は、おとぎ話に出てくる人魚さながらに揺らめいて。 陽に透ける白い肌が、砂浜の白さと交じって眩しく輝く。 その白さを際立たせるように、艶やかな黒髪が柔らかく風に踊れば、絹のように光を弾き。 薄い唇が浅い呼吸を繰り返す。 「…………」 アルヴィンが覗き込んだせいでできた影に反応して、硬く閉じた目蓋がゆっくりと持ち上がる。 緩やかにくり返されるまばたき。 佇む気配に、そろりと見上げてきた瞳は、蕩けるような蜜の色。 その瞳を見た瞬間、アルヴィンの唇が無意識に動いた。 頼りない呼び声。 夢幻をたゆたう声。 だが、優しい笑みを向けたその人は、まっすぐアルヴィンを見つめて応える。
「…se……y……」
求め続けた声で、はい、と。
* * * * 2012/09/9 (Sun) お わ り *新月鏡* |