「a love affair -3.5-」

 

 

 

変革の日以降でも、夜の足が早いイル・ファンの港は、すっかり夕焼け色で、薄暗い夜の気配が忍び寄る。
黒い空と赤い空が交わって、なんだか不思議な気持ち。
潮風が撫で去っていく頬に、もう涙はなく、ぱりぱりと肌の引っ張られるような感覚があるばかりだ。
泣き暮れる、という言葉が合うほど、ここ何年もないくらいに泣いた気がする。
嗚咽を堪えて、それでも耐えられなくて。
誰も来ない港の端っこで、膝を抱えて海を眺めながら泣き続けた。
涸れてしまった、と言っていいほど、すっかり涙が出なくなって。
それでもこの場所から動く気にはなれなくて。
纏わりつく潮風に身を晒しながら、だるい疲労感にゆらゆらと意識が揺れる。
もう、どうしていいかわからない。

アルヴィンのことも。

ジュードのことも。

いっぺんに激変してしまった景色は目まぐるしく、私の処理能力では追いつかない。
泣き続けている間も、ぼんやりとしている今も、どうしようもないほど自覚するのは自分がどれほどジュードを好きだったのかということだけで。
言えなくなった『好き』を持て余して、何処にもいけないまま見るともなしに揺れる水平線を眺め続ける。
どうして、どうしてと、心はずっと泣いている。
わかるはずのない理由を求めて、苦しい、助けてと嘆き続ける。
それに明確な答えを持たないわたしは、ループし続ける自問自答を延々と繰り返して。
頭の中もぼんやりと麻痺してきた頃。

「こんなところにいたんだね」

不意に穏やかな声が、背後からわたしを包み込む。
男のくせに少し高めの優しい声。
耳にやんわりと優しく届くその声を、わたしが聞き間違うはずがない。
びくりと肩を震わせてしまったものの、自分の今の顔の酷さを思うと振り向くに振り向けなくて、縮こまるように膝を寄せる。

「待ち合わせ場所に来ないから、ずいぶん探したよ、レイア。……無事でよかった」

気遣う気配と、安堵の呼吸に、振り向かずとも、彼が心底わたしの身を案じてくれていたのだとわかる。
そういえば、もう待ち合わせの時間になってしまっていたのか。
誰も来ない中央広場で、心配しながら待っていてくれる姿を思い浮かべれば、少し罪悪感を感じたが、どうにも動けそうになかったんだと言えば、ジュードは許してくれるだろう。
優しくて、温かくて、居心地のいい人。
自然な動作で片膝を立てて隣に腰かけ、同じように海を眺めるジュードの横顔を盗み見て、わたしはほんのりとささくれ立った心が静まるのを感じていた。
ジュードは、何も言わない。
触れてほしくない傷には、絶対に触れようとはしない。
ただ、静かに傍にいてくれる。


――――変わらないなぁ……


遠く見つめるジュードの横顔に、ふわりと過去を思い出す。
黒匣の暴発で大怪我をした小さな頃。
あの時も、ジュードは何も言わずにただ傍にいてくれた。
お母さんやお父さん、大先生やエリンおばさんたちが、口すっぱく何度もリハビリを促し続ける中で、ジュードだけはわたしに何も言わなかった。
エリンおばさんが、ジュードにわたしのリハビリを手伝うように言っていたのも知ってたから、どうしてジュードがそれを言ってこないのか、最初はよくわからなかった。
だけど、疑問に思いながらも、わたしはそれがとても嬉しかった。
あまりに居心地がよくて、わたしは自然と大人を避け、ジュードと2人でいることを好むようになった。
あの頃は、押しつけるように言われるのがとても嫌だったのだ。
心配してくれてるんだって、わかってても、実際リハビリをやれば痛いし、つらい。
思うようにいかないリハビリは、やればやるだけわたしのやる気を全てへし折っていった。
頑張ったって、痛くてつらいだけで、治らない。
そんなことを考え始めた頃だったっけ。
リハビリから逃げ出してジュードと2人でこっそり隠れた時に、わたしは一つだけ、今まで触れてこなかった質問をジュードにした。

『ジュードは、リハビリしろって言わないんだね?大先生に怒られない?』

なんてことはない、素朴な疑問だった。
大先生とジュードがあまり仲良くないってのは、見てればわかることだったから、わたしのせいでジュードが怒られるのは嫌だな、程度の軽いものだった。

『うーん……ちょっとだけね。このままじゃレイアは、一生普通の子供と同じようには遊べないんだ、って』
『……ごめん』
『レイアが謝ることないよ。僕、レイアがつらいの、見てる方が嫌なんだ。それに、遊べないわけじゃない。怪我してても遊べる遊びをすればいいのにね?』
『……ジュード……』
『あ、でも……』

その後続いた返答が、わたしの人生を変えたんだよ、なんてジュードはきっと気づいてない。

嬉しかったの。

ただ、本当に、嬉しくて。
一緒に分け合ってほしかったんだって、その時初めて気づいたの。
今でもはっきり覚えてる。


――――『僕、走ってるレイアを見るの好きだったから、見れなくなるのは残念だなぁ』


にこりと笑って、ジュードがそう言ってくれたとき、わたしは不思議と『リハビリを頑張ろう』って自然に思ったの。
わたしのことをずっと見てくれてて、わたしの気持ちを大事に思ってくれてて、わたしを好きだって言ってくれるジュードのために、頑張ろうって。
嬉しかったの、すごく。
だから、わたし、ジュードを好きになったんだよ。
痛い、つらいって言えば、わかるはずのないわたしの痛みを感じようとしてくれて。
笑えば、当然のように笑い返してくれて。
そんなジュードに、慰められて、励まされて、恋をした。

優しく抱きしめてくれるような気配で、隣に立っていてほしかったんだ。


ジュードの傍に、いたかったんだ。

 

「……ジュード」
「なに?」
「…………」
「…………」
「……アルヴィンのこと、好き?」

長い沈黙を挟んで零した問いかけに、ジュードはゆっくりと目を見開き、数回まばたきをした。
この問いの意味を、きっとジュードはすぐに理解してくれる。
『好き』が仲間同士の間にあるものじゃなくて、恋人の間にあるものだって。
ジュードが今まで言ってこなかったことを、わたしが知ってるんだって。
そんな予測は正しく働き、ジュードは数秒わたしを見つめた後、再び海へ視線を向けると、ひどく穏やかな声で告げた。

「うん、好きだよ」

着飾らない端的なセリフは、細波に溶けてしまうような声音で紡がれ、どこまでも優しく響く。
なんのてらいもなく、事実を静かに肯定するだけのジュードの声。
そっと見つめる横顔に迷いや戸惑いはなく、赤い夕日に照らされた黒髪が艶を帯びる。
ずいぶん大人びてしまった横顔は、すっかり『男性』の雰囲気で、なんだか別人にさえ見えて寂しくなった。
まだ僅かに幼さが残るものの、眼差しは何処までも揺るぎない。
小さな頃や旅をしていた頃とは格段に変わってしまった、ジュードの雰囲気に、格好いいと見惚れる自分と、突き放されて愕然とする自分がいた。

「……どうして、アルヴィンなの?」

滑稽な問いだと思いはしたが、嘆き続けて麻痺した思考回路は聞かずにはいられないらしい。
わたしとアルヴィンの違いは、一体何なのか。
どうして、わたしじゃダメなのか。
何がジュードにアルヴィンを選ばせたのか。

「どうして……?」
「……そう、だね……」

焦れて重ねた声に、ジュードが吟味するような素振りで口を開く。

「一緒に泣いてくれるから、かな……」
「……一緒、に?」
「うん。一緒に分け合って、傷ついて、僕のために一喜一憂してくれて、好きだって言ってくれて……それが、なんていうのかなぁ……すごく、嬉しかったんだ」

そう言って、ふわりと微笑むジュードの気配が、やんわりと温かなものに変化する。
だけど、わたしはその変化に気づくより先に、強くデジャヴを感じてしまって、得体の知れない浮遊感に苛まれた。
選んだ理由なんて、わたしと、なんら変わらなかったのだ。
わたしが些細なきっかけでジュードに恋したように、ジュードはそれでアルヴィンを選んだのだ。
たったひとつ、寄り添って、わけあって、そうして傍にいてくれさえすれば、それだけでよかったんだ。
わたしとアルヴィンに決定的な違いなど、何もなかった。
ただ、ジュードに一番寄り添って、ジュードが求めたときにすんなりその手を差し出したのが、アルヴィンだっただけなのだ。

『ジュードの感情なんて全部無視して、捨ててくれるなと追い縋った。その結果……ジュードは今、俺の手の中だ』

アルヴィンの行動は、正しかった。
本当に心から望むなら、いつ訪れるとも知れぬチャンスを逃さぬよう、注意深く相手を見ていなければいけなかったのだ。
そして貪欲に、相手を求め続けなければ、好意も届きはしなかったのだ。
アルヴィンは、ジュードを得たいがために、縋れるものには全て縋りつき、傍にいられるだけ傍にいた。
示せるだけの好意を示し、言えるだけ好きだと囁いて、ジュードが誰かを求めたとき、真っ先にその手を引き寄せたのだろう。
だからこそ、ジュードはアルヴィンを選んだのだ。
決定的な部分で誰にも心の一線を越えることを許さないジュードが、アルヴィンには心のうちを晒したという事実。
その揺るぎなさは、遠くから見つめ続けてきたわたしには、とてもよくわかる。
それが、間違いや勘違いでないことも。

「ジュード……」

ダメだ、わたしの気持ちは届かない。
自分の恋と似たような軌跡を描いたジュードの恋心。
知ってしまえば、揺らぎようがないのだと自然と思い至ってしまって、アルヴィンが言い放った言葉を思い出す。
つけ入る隙などないのだと、彼は確かにそう言い、実際本当に隙など一切ないのだ。
ただ、ジュードが変わらぬ親愛を自分に向けてくれていることだけははっきりとしていて、自分が抱える恋心との差異に、ただ胸が痛む。

「ジュード」
「なに?」

「あの、ね」
「うん」

「……あの……ね……」
「うん」

 

 

 

「だいすき」

 

 

 

熱く揺らぐ視界を懸命に堪えて、震える声で小さく零す。

 

 

あのね、好きなの。

大好きなの。

 

小さい頃からずっと、ジュードが好きで。

ミラが傍にいたときも、ジュードが好きで。

届かないとわかった今でも、やっぱりジュードが好き。

 

 

世界で一番、ジュードが好き。

 

 

 

「僕も、レイアが大好きだよ」

 

 

愛しげに揺らめく瞳に見つめられて、涙が零れる。

 

優しく返された微笑みは、幼い頃に見た笑顔と変わらなかった。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2012/05/05 (Sat)

大切なことに変わりはない。
だが、親愛と恋愛の間にある僅かで圧倒的な差はどうしようもない。


*新月鏡*