「A*J×ICO -5-」
甲高い鳥の声が響き渡る。 さらさらと優しく吹きつける風に促されるように、アルヴィンの意識はふっと浮上した。 ぼんやりとした頭を起こすために数回まばたきをくり返し、崩れた体制を正して座ったまま手を掲げると、背伸びをひとつ。 固まっていた身体がぎゅーっと伸びて、気持ちがいい。 思う存分柔軟を堪能していると、隣にあった気配が僅かに動いた。 自然と視線を向ければ、ゆったりと身を起こしたジュードが眠たげな目を擦っている。 どうやら2人して居眠りしてしまったらしい。 「おはよ」 起床の習慣でつい声をかけてしまったが、何となく意味が伝わったのか、ジュードは笑って返してくれた。 その笑顔に微笑み返して、アルヴィンは長椅子から立ち上がると、自分の両頬をぱちんと叩いて居座るまどろみを追い出す。 すると、背後でぱちん、と同じ音がした。 音につられて振り返ると、ジュードも自分の頬に両手を添えていて、その状態のままアルヴィンを見上げてくる。 アルヴィンの動作を見て、真似たらしい。 目が合った瞬間、にこりと笑みを返されて、何故か少し気恥ずかしくなった。 「えーっと……じゃ、行くか」 右に左に視線を彷徨わせ、誤魔化すようにそう言って手を差し出す。 そっと重ねられた手を引いて立ち上がらせると、アルヴィンは素通りした石像の扉へ向かった。 ジュードに扉を開いてもらい、未知なる場所へと歩みを進める。 風車の穏やかさに似た木漏れ日の水路を辿り、石柱に囲まれた見晴台を通り過ぎ、その先にもあった石像の扉を開くと、見慣れた場所へたどり着いた。 草花と大きな灯篭と、そして閉ざされた城門。 知っている景色との違いを上げれば、その高さだろうか。 2人は、城門を取り囲む城壁の上にいた。 あたりを一望できる城壁の回廊は、城門を中央に配して対称的に伸びており、それぞれ孤立した崖の先に繋がっている。 その崖の上にも謎めいた建物があり、いかにも何かありそうで不気味だ。 景色や城の構造をよく観察しながら進み、丁度折り返し地点にあるオーナメントをアルヴィンは見上げた。 城門前でジュードが指し示してくれた地球儀のようなオーナメントだ。 何かスイッチのようなものでもあるのかと、念入りに調べてみるが、それらしいものは見当たらない。 「Alvin」 「どうした?」 くいくいと小さく袖を引かれて振り向くと、後ろからついてきていたジュードは、城壁が繋ぐ不気味な崖の建物を指差した。 その仕草に、アルヴィンは指し示された建物に、このオーナメントに関わる何かがあるのだと直感する。 オーナメントと建物、城壁、そして城門は、全て直線上にあり、城門を中心に線対称で配置されていた。 短絡的に考えるなら、明らかに何かしら連動しそうなつくりだ。 なるほど、と口端を上げて頷くと、見つめてくるジュードの頭をくしゃりと撫でた。 「サンキューな、ジュード」 そう言って笑いかければ、嬉しそうに笑い返される。 ジュードの笑顔にほんのり温かな気持ちを抱きつつ、アルヴィンは再びジュードの手を取り、指し示された建物へと歩き始めた。 近づけば近づくほど詳細が明らかになる謎の建物の全貌。 一番目につく一際大きな丸いくぼみは、最初は飾りか何かかと思っていたが、円の中央にうっすら走る隙間は、これが開くのだと指し示す。 どうやら扉になっているらしい。 そして、大きな丸い扉の真下、立ち入るものを拒むように、入り口に鎮座する石像の扉。 やはり城門を開く鍵はここにありそうだ。 ジュードに石像の扉を開けてもらい、不気味な建物の中へと足を踏み入れる。 石造りの部屋の中は、上から差し込む光以外、松明の灯りで僅かに見えるかどうかの薄暗さだった。 埃っぽく、長い年月誰も訪れていないのだと物語る。 ジュードの手を引きながら、きょろきょろと辺りを見回しながら進んでいくと、途端、背後でごぉんと重たい音が鳴り響いた。 「……は?」 「a……」 音に驚いて2人して振り向くと、何の変哲もない石の扉が、何事もなかったかのように佇んでいた。 「え、ちょっと待て……まさか……」 嫌な予感に恐る恐る近づき、押してみるがびくともしない。 試しに引いてみたり蹴飛ばしてみたりするが、うんともすんともいわない。 あまりの不動っぷりに、さぁっと血の気が引いていく。 「おい、嘘だろ……」 あまりのことにアルヴィンは思わず呻いてしまった。 それもそうだろう、突然降りてきた石の扉は、入ってきたはずの入り口を完全に閉ざしてしまっているのだから。 2人は、よりにもよって隔絶された崖の建物の中に閉じ込められる羽目になってしまったのだ。 ジュードが開けられる類の扉ではないため、無情な石の扉は、非力な少年二人では絶対に開けられない。 「……やってくれるぜ」 「Alvin……」 「大丈夫だ、心配するな」 手を握り締めて、不安げに見上げてくるジュードに力強く笑いかける。 本心を言うと、大丈夫だとは欠片も思っていないアルヴィンだったが、そんな姿をジュードに見せたくはなかった。 ここで自分が弱音を吐いてしまうと、ジュードが余計に不安になってしまう。 それだけは絶対にしてはいけない。 はったりでもいい、自分を騙してでも、気丈に振舞わなければならない。 弱気になりそうな自分を奮い起こして、アルヴィンは繋いでいた手を強く握り締めた。 そうすれば、強張ったジュードの身体からすとんと力が抜けて、ごく自然な状態でアルヴィンの行動を待っていてくれる。 ジュードが自分に全幅の信頼を寄せてくれるからこそ、アルヴィンは決して弱気な振る舞いをしてはいけなかった。 「んじゃ、まずは、ここがどういう場所か調べなきゃな」 寄せられる信頼に応えるため、アルヴィンは嫌な予感を振り払うように、無理やり意識を切り替える。 どうせこの建物の中に用があったのだ、たとえ入り口を塞がれようとやることは変わりない。 それに、入り口の上にある丸い扉を開ける方法を見つければ、そこから出ることだって可能だろう。 できる限り楽観的に現状を捉え、アルヴィンは周囲の探索をすることにした。 部屋の中はとても簡素なもので、入り口の真上にある大きな丸い扉と同じものが、入って向かい側の壁にもある。 意味深な造りに首を傾げつつ歩き回ってみるが、それ以外、現状を打破するものはありそうにない。 仰け反るように見上げると、さらに上の階層にも何かあるらしい、ということだけしかわからない。 ここがどんな場所なのか、はっきり指し示すものはないが、そこらかしこに無造作に剣が転がっているところを見ると、日常的に剣が使われていた場所なのだろう。 自分の家でも、剣術の鍛錬をする場所があったように、そういった類の場所なのだ。 アルヴィンは、向かいの丸い扉の下、壁に立てかけられている剣をひとつ拝借すると、手にしていた木の棒と取り替えた。 「今まで棒切れ一本でやってきてたんだよな……」 それほど長い間ではないとはいえ、時忘れの城へ連れて来られてからアルヴィンが手にした武器は、木の棒だけだった。 頼りないその武器ですら頼もしく思えるほど切羽詰った状態だったことも考えれば、よく戦ってこれたな、と自分自身に驚きさえする。 本当に、あれだけ大量に湧いた影を、よく棒切れ一本で撃退してきたものだと、自分を少し労ってやりたくなった。 ようやく武器らしい武器を手に入れて、心強さに後押しされるように、アルヴィンはさらに奥へ続く道を歩く。 進んだ奥の部屋もがらんとしたもので、入り口と剣を手に入れた壁にあったものと同じ、丸い大きな扉が突き当たりにあった。 部屋を跨いで3つ並んだ同じ丸い扉は、明らかに関連がありそうだ。 「Alvin」 部屋を見上げて眺めていると、柔らかな声が手招くように呼びかける。 呼び声に促されるように視線を振れば、最奥の丸い扉の傍に立つジュードの前に、何かの装置があった。 「何だそれ?」 足早にジュードに駆け寄って、ジュードがじっと見つめる装置を見てみる。 配線らしいものはなく、何処のどんな仕掛けと連動しているかわからない。 だが、この装置以外現状を打破するようなものは見当たらない今、ものは試しと、アルヴィンは躊躇いなく装置のレバーを引いた。 すると、がこん、と大きな音が鳴り響き、背後にあった一番奥の丸い扉がゆっくりと開き始めた。 薄暗い部屋の中に優しい光が差し込んで、扉に閉ざされていた景色を解放する。 「なるほどな、この装置が扉を開く鍵ってわけだ」 ならば、入り口の丸い扉に連動した装置を探し出せば、閉じ込められた建物からの脱出は可能になる。 何とか閉じ込められたままのたれ死ぬことは回避できそうだ。 そのことに、ふぅっと息をついて安堵していると、明るい声が弾けるように鼓膜をくすぐる。 「Alvin」 自分を呼ぶ声に慌てて気を引き締め振り返ると、ジュードは開ききった丸い扉によじ登ってアルヴィンを待っていた。 どうやら、このちょっとした冒険に慣れ始めたようで、最初は絶対にアルヴィンの前には立たなかったジュードだが、今ではある程度の先行すらしてしまうようになったようだ。 「くくっ……元気だなぁ、お前」 扉の上でちょこんと座り込んで待っているジュードに、アルヴィンは思わず微笑んでしまう。 にこりと笑って早くと促してくるジュードの表情は、何処までも明るく穏やかで、この表情こそ、ジュードが本来持つべきものなのだとアルヴィンは感じていた。 一番最初に見た、寂しげな面影など一切なく、蜜色の瞳には、光に透けるような輝きばかりが溢れている。 それもこれも、自分がそうさせたのだ、と思えば小さな優越感と充足感に満たされた。 自分に向けられる信頼ゆえの安心感から、ジュードは本当にあどけなく笑う。 自分が連れ出したからこそ、ジュードは出会う外の景色全てに瞳を輝かせる。 これほど心満たす優越感もあるまい。 「Alvin?」 「はいはい、今行くって」 不思議そうに目をぱちりと瞬かせて首を傾げてくるジュードに、やんわりとした愛しさを感じながら、アルヴィンはジュードの待つ丸い扉へ手をかける。 勢いをつけて、ひらりと軽く飛び上がって登ると、ジュードはぱぁっと表情を輝かせて笑った。 にこにこと見上げてくるジュードが何を考えているかはわからないが、自分が段差を軽く登ったことに対して何かしら好印象を与えたらしい。 なんだか少し気恥ずかしくなったが、同時に誇らしい気持ちにもなって、うまく笑い返してやれない。 こんな些細なことで、いちいち喜んでくれる人に出会ったことがなかったため、ジュードの純粋な行動にアルヴィンは終始戸惑い混じりの歓喜を感じてしまう。 頬を染める熱と照れを隠すように、ジュードの手を引いて先行すると、ジュードは微笑んだまま素直についてきた。 この『当然の行動』すら嬉しくて、思わず口がにやけてしまう。 ジュードが後ろを歩いてくれてよかった、と小さく安堵しつつ、アルヴィンは丸い扉から外へ出た。 扉の向こう側には緑の景色と見晴らしのいい海が広がり、切り立った崖の端に大きな鏡のようなものが立っていた。 丁度、丸い扉の直線上に設置されている大きな鏡に、アルヴィンは今まで見てきた丸い扉との関連性を考える。 今はまだ、一番奥の扉を開けただけだが、入り口と中央の丸い扉も開けてしまえば、何かしら起こるのではないかと。 確信など一切ないが、どうせ他の可能性も見当たらないなら、やってみればいい。 そう短絡的に結論づけたアルヴィンは、ジュードの手を引いて2階へ続く梯子を上ることにした。 1階部分で扉を開く装置らしきものは、起動した奥の扉の装置のみ。 なら、残りはおそらく上階にあるのだろう。 面倒くさい造りをしている、と小さくため息をつきつつ、ちまちまと一段一段丁寧に梯子を上るジュードを、上り切った先の場所で待つ。 上って来たジュードの手を引いて部屋の中へ戻ると、やはりアルヴィンの予測どおり、丸い扉を開けた装置と同じレバーが見つかった。 そのレバーも先ほどと同じように引けば、今度は中央にあった丸い扉が重たい音を立ててゆっくりと開き始める。 これで、残された丸い扉は入り口だけだ。 「問題は、入り口の丸扉を開くレバーが何処にあるか、だな」 ここへ来てすぐ、1階を一通り見回してみたが、階段の先は行き止まりばかりで、何かしらあるだろう2階部分、もしくは3階部分へ繋がる道などどこにもなかったような気がする。 あるとすれば、たった一箇所。 それらしいものを見た覚えはあるのだが、ジュードを連れて通れそうにないと即却下したことを考えれば、あまり好ましいルートとはいえない。 だが、いつまでもここでじっとしているわけにもいかないのも事実だ。 仕方なく、アルヴィンは剣を拾った場所まで戻ることにした。 扉と装置が近しい場所にあるのなら、入り口の扉を開く装置も近くにあるはず。 いったん戻って、またしらみつぶしに探索すれば、何か他の方法も見つかるかもしれない。 そんなことを考えつつ、1階へ戻るために飛び降りようとすると、ぐいっと引き止めるように手を引かれた。 「ん?」 「Alvin, ……」 眉根を寄せて小さく頭を振るジュードの意図が読めず、ぽかんと見つめてしまう。 だが、ぐいぐいと手を引き戻す仕草は、道の途切れた場所からアルヴィンを引き離すようにも思えた。 「……あぁ、もしかして、ここから降りるなって?」 「…………Alvin」 問いかけてみるが、言葉は伝わらないので、不安に駆られたジュードの表情が穏やかになることはない。 アルヴィンが思い至ったことが正しくジュードの危惧することだとすると、それは杞憂というものだった。 確かに2階から1階へ飛び降りるとなると、自分の身長を優に超えた距離を飛ぶ羽目になるのだが、眼下に見える距離は見た目ほど高くもないのだ。 怪我をしたり最悪死に至ったり、などありえるはずもなく、せいぜい捻挫できるかどうかくらいの距離しかない。 下手に着地しなければ、おそらくあっさり飛び降りることができるだろう。 ジュードは距離の目算と結果を知らないだけで、落ちれば死ぬ、怪我をする、という体験や憶測だけが鮮明に心の中にあるのだ。 ならば、新しい経験を与えて、ジュードの価値観を塗り替えるのも自分だけの特権か。 湧き起こる優越感と特別さに、アルヴィンは口端を上げてジュードの手を握り返す。 「よし、じゃぁ、こうだな!」 言うが早いか、アルヴィンは引き戻すジュードの力を圧倒的に上回る強さで引っ張り返し、引きずられるように雪崩れ込んでくるジュードを抱えて2階から飛び降りた。 「hy!」 「よっと」 身体の内側を押し上げるような浮遊感を数秒感じた後、とん、と衝撃を上手く相殺して着地する。 やや抱えるように飛んだジュードを見ると、僅かに動揺した瞳がゆらゆらと揺れて呆然としているようだ。 ぎゅうっと繋いだままの手に力を込められて、あぁまたやってしまった、とアルヴィンは小さく後悔をした。 怖い思いはさせないと、あれほど思ったはずなのに、状況に慣れ始めたジュードの姿に、つい調子に乗ってしまったようだ。 絶対に無事に降りられると確証はあったが、それでもやはり、するべきではなかったのだろう。 「……ジュード」 躊躇いがちに名を呼べば、ぴくりと放心状態から戻ったジュードの眼差しがアルヴィンへ向けられる。 ジュードはアルヴィンを見つめたまま大きくまばたきを一つした後、今度は飛び降りた場所と自分の位置を交互に見やり、そしてふわりと笑った。 「あれ?」 「……?」 「怖く、ないのか?」 「…………?」 「………いや、いい。……なんか、お前のこと甘く見てたわ」 ジュード自身の持つ神秘的な雰囲気や儚さに忘れがちだが、どれほど非力だろうと、ジュードはアルヴィンと同じ『少年』なのだ。 好奇心や冒険心など山ほど抱える多感な年頃だと思えば、これくらいのスリルはいいスパイスでしかないのかもしれない。 新たな発見に少し驚きつつ、アルヴィンはきょとんと見つめるジュードに苦笑する。 (そのうち俺の見よう見まねで剣を片手に戦ったりしてな……) 一朝一夕に扱えるとは思えないが、慣れる早さと順応力の高さ、溢れんばかりの好奇心を持つジュードに、一抹の不安がよぎった。 笑えない冗談に、無茶なまねだけはしてくれるなと願いつつ、アルヴィンは気を取り直して剣を拾った場所まで戻る。 戻った部屋の中で唯一足を踏み入れてない場所は、記憶に正しく、確かにあった。 だが、探索のときに一番最初に除外した道だと思えば、やはりアルヴィンの胸中に少々億劫さが湧き起こる。 「……これしか、ないよなぁ……」 げんなりと見上げる先には、急な上り坂になった床を這うように流れる水、水、水。 たぶん、どう足掻こうがこの坂に触れれば濡れるのは必須である。 さらに、急な坂道に水の幕など、滑って転んで落ちろという三段構えの悪意の罠としか思えない。 いや、そこに無様に流されてしまえという第4段階の悪意もあるかもしれない。 さて、どうするか、と見え透いた仕掛けにげんなりしつつ頭を捻る。 一方、佇んでいるアルヴィンの隣では、ジュードが足元に流れる水を小さく蹴り上げて楽しんでいた。 ジュードにとっては、なかなか面白い場所らしい。 だが、当然アルヴィンにとっては面白くも楽しくもない。 目算する距離を考えれば、勢いよく走って頂上まで届くか、と言われれば無理があるような気がする。 が、 「ものは試しだ、な!」 体勢を低く構えて一気に伸び上がり、押し上げる勢いを活かしながら、すばやく一気に駆け上がる。 だが、途中で水の勢いに足を取られてひっくり返り、腹ばいのまま情けなくもとの位置まで流された。 さらさらと冷たい水が頭から容赦なく降り注いで、さらに惨めな気分になりそうだ。 「……だよな、うん、わかってた」 どうだよ、望みどおり無様に流されてやったぜ!と半ばやけくそになりながら、両手を突いて起き上がるも、あまりに予想通りすぎて思わず自嘲の笑みを零してしまった。 この仕掛けを作った奴に行き場のない怒りを飛ばして、別の方法を探そうとした矢先、視界の端を白い足が軽やかに飛んで行く。 「はっ!?」 慌てて上げた視線の先、ふわりと裾が翻り、白い背中が水の斜面を駆け上がる。 ぱしゃん、と跳ねる水を蹴り上げ、さらに上へ。 だが、やはり途中で身体が傾ぐ。 「うわぁぁぁっ!ジュード、お前はそんなことしなくていいんだよっ!」 悲鳴のように叫びながら反射的に駆け上り、水面へ打ち付けられそうになるジュードの身体を庇うように抱きかかえたまま、アルヴィンは再び水の斜面を滑り落ちた。 これで背中もぐっしょり濡れて、風車のときにやった全身ずぶ濡れの再来である。 それでも、できるかぎりジュードを水面から遠ざけようと抱き込んでみたものの、自分が濡れていたために大した効果はなかったらしい。 下まで滑り落ちてから腕の中のジュードを見てみると、努力虚しく白い服にうっすらと肌の色が透けて、元から艶やかな黒髪がさらにみずみずしくなってしまっていた。 「あぁ、もう……お前までずぶ濡れじゃねーか」 「……?」 「んな可愛く見上げてもダメだからな。ったく……頼むから、大人しくしててくれよ」 届かない愚痴を零しつつ、自分の袖でジュードの顔と髪を拭ってやる。 できるだけ肌を傷つけないよう柔らかく触れれば、されるがままのジュードは気持ちよさそうに目を瞑って甘受し続ける。 まったく、こうしていれば可愛らしいだけの少年だ。 自分が何をして、何故怒られているのかなどジュードはひとつも理解もしていないのだが、この完全に安心しきった表情を見てしまうとアルヴィンはついつい絆されて許してしまう。 「ジュード」 呼べば、ことりと首を傾げて見つめてくる蜜色の瞳。 自分の許容範囲外へすぐに駆けていってしまうジュードを、どこまで守りきれるだろうか。 去来する不安に、自然と拭っていた手は止まり、視線が落ちる。 心の底から信じて委ねてくれるのは嬉しいのだが、アルヴィンとてただの非力な人間でしかないのだ。 あまり目の届かないところで好奇心に駆られないでほしい。 必ず助けてやるという意気込みはあれど、自信などひと欠片もありはしないのだから。 「Alvin?」 「いや、なんでもない」 見上げてくるジュードに笑いかけて、水気を含んだ髪をやんわりと撫でて立ち上がる。 こうして少しでも悩めば、すぐに察して心配してくる姿に、やはり弱音など吐いていられないのだとアルヴィンは思った。 自信などなくていい。 アルヴィンが揺らげば、ジュードがアルヴィン以上に揺らぐ。 これだけは確かなのだ。 ならば、アルヴィンはただ、できるかぎりジュードから不安や恐怖を遠ざけ、この城から脱出することだけを考えればいい。 気分を一新して、思考を再び目の前の仕掛け解除へ切り替える。 とにかく、何とかしてこの水の坂道を越えなければ話にならない。 きょろきょろと狭い部屋の中を丹念に見渡し、探索すると、壁伝いに飾りのようなでっぱりが走っており、それを伝えばなんとかたどり着けるようだった。 「ちょっと行ってくるから、大人しく待ってろよ」 顔だけ振り向きそう告げた後、アルヴィンはでっぱりに手をかけてよじ登った。 壁に手をぴたりとつけて、足を滑らさないよう慎重に進み、上へ、横へと移動を繰り返す。 坂の頂上まで行き当たり、ぱっとでっぱりから手を離して飛び降りれば、見事思惑通りの場所に立つことができた。 またジュードが真似して危険なことなどしないだろうか、と少々心配はしたが、どうやらそれも杞憂に終わったらしい。 でっぱりを掴んでぶら下がることはできても、よじ登ったり腕の力だけで移動することができないのか、数回チャレンジしたあと、諦めたように隅っこで水を蹴り上げていた。 なんともいじらしい仕草に、思わず笑ってしまう。 そんなジュードの姿を確認した後、アルヴィンはすぐに頂上から伸びる廊下を走り、隣の部屋へと足を踏み入れ、打開策になりそうなものを探し回った。 飛び込むように駆け込んだ四角い部屋の中、壁に沿って設置されている階段が上へと伸びていて、アルヴィンのいる場所からは届かない対岸の奥に、また別の部屋があった。 そのままぐるりと見上げれば、橋渡しする板が折りたたまれており、それを下ろせば対岸の部屋へ行くことも出来るだろう。 だが、それより離れ離れになったままのジュードと合流する方が先だ。 最優先事項を心の中で唱えながら、アルヴィンは階段を登れるだけ登り、しらみつぶしに探索を続ける。 途中で橋板を上げていたロープを2箇所ほど切って、ついでに橋を架けておき、さらに上へと歩みを早めて突き進む。 開いた右手の違和感に、じわじわと焦燥感が湧き出始めた頃、ようやくたどり着いた階段の最上部の扉をくぐると、忌々しいほどよく聞いた水音が鼓膜を揺らす。 はっとして見下ろせば、所在なさげにしているジュードが斜面の一番下、壁の隅っこの方にいた。 両腕を抱えて、暗がりの部屋にひっそりと佇む白の姿が、あまりにも心もとなく見えて、アルヴィンは思わず身を乗り出す。 「ジュード!」 「……!Alvin!」 呼んだ途端、弾かれたように身体が揺れて、蜜色の瞳がこちらを見上げる。 ほっとしたような表情を向けられて、アルヴィンはすぐさまここから飛び降りて抱きしめてやりたい衝動に駆られた。 それほどまでに、ジュードが寂しげで、儚げで、この手に触れていないだけでこんなにも不安になる。 「待ってろ、すぐ戻る!」 必死に見上げてくるジュードにそう声をかけ、アルヴィンは行き止まりの細い通路を慌てて見渡し、背後にあった装置のスイッチを躊躇いなく切り替える。 すると、一定の感覚で流れていた水が徐々に水量を減らし、ぴたりと止まった。 エレンピオスでも、連動する機械と装置は近接しているもので、アルヴィンはこの背後にあった装置こそ何か意味があるのだと直感していた。 ただ、装置といえば大掛かりな仕掛け、という構図が頭の中で出来上がっていたアルヴィンには、水が止まるという簡単な発想がなかったため、少しだけ期待はずれな気分になる。 そんな気持ちを押し隠しつつ、完全に水の止まった階下の斜面を覗き込み確認すると、アルヴィンはおもむろに2階の柵へ手をかけた。 柵を乗り越え、慎重に一番下の方を掴み、斜面との距離を目算で測って手を放す。 「a!」 「っ、いって」 どさりと尻餅をつくように坂の上に落ちたアルヴィンの耳に、はっと息を呑むような音と共に、か細い悲鳴が届いた。 ぱたぱたと急な斜面を駆け上がってきたジュードが、心配そうにしゃがみこんで手を伸ばす。 だが、アルヴィンはそれより早く、ジュードの白い手を掴んで引き寄せた。 ぽすん、と腕の中に帰る温かな身体。 不思議そうに見上げてくるジュードの瞳に、上階から見た薄暗い不安の色はないことを確認して、アルヴィンはほっと息をついた。 自分がいないだけで、ジュードがあれほどか弱く、儚げに見えるとは思わなかった。 好奇心旺盛さを見せ始めたジュードの活発さを知っただけに、その印象の落差は衝撃的で、余計にアルヴィンの胸の内側をくすぐっていく。 やはり、アルヴィンがいるから、ジュードはあれだけ自由に行動を起こすのだ。 非力な一人の人間が傍にいるかいないかだけで、ジュードはこんなにも変わってしまう。 それは、なんて特別なことだろう。 (やべっ……すげぇ嬉しい……) 思わずにやけてしまいそうな口元を覆い隠して、ジュードから視線を逸らす。 自由奔放な振る舞いを危惧することに変わりはないが、その根底を知れば、苛立ちよりも嬉しさが勝って心が軽やかに弾んでいくようだ。 より一層深まる愛しさは止めどなく、触れる指先からジュードに伝わればいいのにと強く思うが、そんな魔法のようなことが起こるはずもない。 「Alvin……」 「ん?あぁ、平気だよ」 きょろきょろと背中を覗き込み、ぺたぺたと身体のあちこちに触れてくる細い手に、アルヴィンは力強く笑って応えた。 一緒に飛び降りた距離より高いところから無様に落ちたため、ジュードの心配はまだ払拭されていなかったようだ。 ひとしきり一方的な確認を受けたあと、納得したジュードを連れて先ほど通った道を進み、架けておいた橋を渡って対岸にあった別の部屋へと移動する。 すると、2人の目の前に石像の扉が姿を現した。 さらに、その石像の横に、丸い扉を開く装置に似たレバーも発見する。 とんとん拍子に進む喜ばしい展開に、アルヴィンは声を上げて騒ぎたくなったが、その高揚感も距離を縮めれば、一瞬で沈静化する羽目になった。 道がなかったのだ。 今いる場所から、石像の扉へと続く道や橋などが一切ない。 今までのように、別の場所から橋を架けてみるのかとも思ったが、見渡す部屋はがらんとしていて仕掛けらしい仕掛けも見当たらない。 バルコニーのように途切れた場所から階下を見下ろせば、遥か下方に自分たちがこの建物に入ってきた入り口と、剣を拾った場所が見えた。 一番最初に、上階に何かあるのだと確認した、あの場所にいるのだと気づいて、アルヴィンは小さく唇を噛む。 あと、少しなのだ。 届かない向かい側の装置を起動させれば、入り口の丸い扉が開いて、この意味深な建物から出ることができる。 そうとわかっていながら、最後の最後でどうにもできない現状に立たされてしまえば、期待していた分だけ心が折れそうだった。 その時、 「Alvin」 小さな呼び声に俯いていた顔を上げると、優しく微笑むジュードがいた。 ただし、先ほどまで何もなかった位置に。 「……え?」 呆然と見つめる先は、記憶が確かならば、何もない空間のはずで。 なのに、何故ジュードの足元には床がある? 把握の追いつかない出来事に目を白黒させていると、もう一度ジュードがアルヴィンを呼ぶ。 ちらちらと促すようにこちらを窺うジュードに、夢を見るようにふらふらと近づけば、きん、と冷えるような音と共に、ジュードとアルヴィンが立った一歩先にくすんだ翡翠色の床が突如出現した。 「うわっ!なんだこれ!?」 何もない空間に、降って湧いた謎の石の床は、進む一歩先に次から次へと現れた。 まるで魔法だ。 しかも、アルヴィンが一人で先行しても何も現れず、二人で進むと出現するという、謎の仕掛け。 この城に連れて来られてから、今まで多くの不可思議なものをアルヴィンは見てきたが、何もないところから何かが出現するという、ロジックやギミックをまるで無視したものは初めてだった。 まさか途中で消えたりしないだろうな、と嫌な予感を抱きつつ、恐る恐る進んでいくが、アルヴィンの懸念は杞憂に終わり、ジュードと2人して無事に石像の扉へとたどり着く。 扉を開くいつもの光景を目にして、たどり着けないと思っていた向かいの通路へ足をつけた時、ようやくアルヴィンは夢心地から解放された。 「……」 「Alvin?」 「…………」 「Alvin!」 「あ……あぁ、そうだな」 まだ実感の湧かない感覚を抱きながら、ジュードの声に促されるように装置に近寄り、レバーを引いた。 がこん、と大きな音を立てて、下の扉がゆっくりと開いていく。 これでようやく、3枚の大きな丸い扉が開通する。 じわじわと膨れ上がる期待に、アルヴィンとジュードは、2人して柵に身を乗り出し、何一つ見落とすまいと階下覗き込んだ。 すると、完全に入り口の丸い扉が開いた途端、建物の奥のほうから大量の光の束が矢を射るように駆け抜けた。 きらきらと、途切れることのない光の道。 それは、薄暗い部屋を一気に光溢れる場所へ変え、煌々とあたりを照らし続ける。 だが、それ以上の変化は待てど暮らせど起こらなかった。 もっと大事になるような気がしていただけに、少し拍子抜けしたが、一瞬にして雰囲気の変わってしまった建物に何かしら意味があるのかもしれない、と肯定的に受け入れ、アルヴィンは、未だ柵から身を乗り出しているジュードの手を引いた。 「ほら、降りるぞ」 装置があった場所とは真逆の方向に設置されていた簡易エレベーターのようなものに乗り込み、階下まで一気に降下する。 軽い金属音を立てて到着したのは、一番最初にこの建物へ入ってきた場所。 開放的になった入り口へ戻ってきたが、やはりこれほど大量の光が差し込んでいると、受ける印象ががらりと変わる。 埃っぽさも相変わらずだが、それ以上に、丸い扉から差し込む光の束がとても綺麗だった。 贅沢なほど眩しい光景に、アルヴィンはしばらく眺めていたいような気がしたが、またいつ閉じ込められるかもしれない、と思い直して頭を振る。 「ジュード」 城壁の回廊へ戻る丸い扉へ上ると、アルヴィンは光の道を見上げているジュードを呼び、手を差し伸べて引き上げる。 崖の上の建物と、丸い3つの扉や最奥の鏡に一体何の意味があるのか。 結局何一つわからないままだったが、ともあれ、無事に脱出することができただけでもよかった。 ほっとする気持ちを抱えて、アルヴィンは隣に立つジュードの手をしっかりと握り締め、光の道が差し続ける城壁へと踵を返した。
* * * * 2012/04/29 (Sun) 切りどころを見失った結果、中途半端に終わった上に長ったらしくて申し訳ない。 ヨルダとジュードの違いってのを書きたかったんですよ。 おかげさまで、影の出番なしwwww *新月鏡* |