「I wish...」

 

 

 

心のどこかで、諦めることを覚えてしまっていたんだ。
相手の困らないように動いて、障りない会話をして、欲しがられれば与え、望まれなければ手を引いて。
何度もくり返していれば、いつの間にか誰ともそれなりにやっていけるようになってしまった。
人と接して生きていくために作り上げた、自分のルール。
そのルールに則るために、受ける苦痛も、嫌悪も、全部薄れていって、ただ甘受する術だけが残った。
だから、気づけばこんなにも歪で不自然な自分が立っていて、『僕』という存在は少々希薄になっていた。
『お人好し』なんて言われるけど、他人の意思に添うことで自分の必要性を確かめたかっただけだった。
自分じゃない誰かの助けになることで、僕自身の価値や必要性を実感していたかった。
そんなもので測れるはずがないって、今では当たり前のように口にしてしまうけど、あの頃の自分は他人の物差しを借りずに自分の価値を知ることができないと思い込んでいた。


――――『それを決めるのは誰だ?』


高潔な声が僕に問う。
陽に透けて黄金色に輝く長い髪と、強い眼差し。
思い出せばこんなにも心強い。
あの頃の自分を彼女が救い出してくれなければ、導いてくれなければ、きっと今の自分はなかった。
でもそんなことを本人に言ったら、「それは君が決めたことだろう?私は何もしていない」と何でもないように返すに違いない。

「ミラ」

胸元で揺れるペンダントを柔らかく握り締める。
彼女が僕にくれた親愛の証。
僕が、僕の理想を真っ直ぐ歩くための道しるべ。


ねぇ、今の僕は、ミラに誇れる人であるだろうか。

 

 

 

あれはいつのときだったか。
たぶん、自分の在りように不安を覚えたきっかけは、ミラと出会ってハ・ミルを通り過ぎた辺りから。
その不安が解消されたのは、それからずいぶん後で、ル・ロンドを訪れた時だった。
吹っ切れる前の僕は、酷いくらい怯えていたとミラは言う。
それは、僕の本質に気づいてずっと心配してくれていた幼馴染と会ったせいかもしれないし、ずっと倦厭してきた父さんと会ったからかもしれない。
何にせよ、僕は今までの自分の在り方に、漠然と不安を抱き情緒不安定になっていた。
接し方ひとつで一気に感情の針が振れるくらいには、酷かったように思う。
そこにきて、父さんから「お前は彼女がわかっていない」と告げられた。
自分が見てきたミラが、全部まやかしだと言われたような気がして、僕は、このたった一言で足元から崩れるような衝撃に襲われた。
見ないようにしてきた事実を突きつけられ、誤魔化してきた自分が声を上げる。


――――『僕』は、必要なんだろうか?


ミラの生き方に憧れ、後ろを追いかけてきたからこそ、自分が本当に必要なのかどうかわからなくなった。

ミラを守る、ミラの使命を手伝う、ミラと一緒にいたい。

どれも自分本位の一方的な想いで、彼女は一度たりとも「助けてくれ」と僕を求めたことはない。
ただ、僕の想いを尊重して一緒にいさせてくれているのだ。
もし突き放されたらどうしよう。
そればかり考えて、怖くて、恐ろしくて、無意識に全力で逃げてきた。

知りたくない。
でも、知りたい。

本当はどう思っているんだろうか。
嫌われたくない。

怖い。

 

俯いたまま、暴れまわる制御不能な感情を抱いて、暗い海停の海を眺めていた。
ベンチに一人腰かけ、ずっと遠い果ての星をぼんやりと見つめる。
イル・ファンを思い起こす黒い帳は懐かしく、荒れる心をそっと包み込んでくれるような優しささえ感じていた。
べたつく潮風に頬を撫でられるのも心地よかった。
閉じた世界で、一人きり。
全部、自分から切り離して守ってくれるんじゃないかって思えて。

「ジュード」

ごうっと鳴る風に乗せて、柔らかな声が僕を呼ぶ。

「……、ミラ?」
「どうした?珍しく反応が遅いな」
「えっと、ちょっとぼーっとしてて」

心配げに首を傾げるミラに、少し慌てて応える。
反応するのに数秒の間が開いたのは、心ここにあらずだったからなのだが、戻ってきた意識はてんやわんやと忙しない。
今も、ミラの心配をする前に自分を言い繕う方を優先させてしまったくらいには、自分の心は余裕を欠いている。
しかも最悪なことに、罰の悪さに繕う言葉は尽きないらしい。

「じゃなくて、ミラ、まだこんなところに来ちゃダメだよ!退院だってようやくできそうだって言われてたのに。もし悪化でもしたらどうするの?しかも一人?危ないから、どうしても病院を出なきゃいけないときは誰かに付き添ってもらうか」
「ジュード」

詰め寄るように言葉を重ねる唇に、細い指先がそっと触れる。

「わかっているのだろう?私の足はもう平気だ」

確かに、ミラの足のリハビリはほぼ終わっている。
あと数日もすれば退院許可も下りて、旅が再開されるのは目に見えている。
でも油断ができないのも事実だ。
ぎゅっと唇を引き結ぶ。

「平気なわけないよ。ミラ、左手見せて」
「……何故だ?」
「ミラ、隠しても無駄だよ」

一歩退くミラとの距離を詰めて、逃げる左手首を掴んで引き寄せた。
ついでに引っ張られて傾いだミラが、バランスを崩してベンチへ右手を突く。

「手のひらを土と傷だらけにしてる人が大丈夫なわけないでしょう?はい、座って」
「まったく……君には敵わないな」
「ミラには負けるよ」

くすぐったそうに笑いながら、ミラは隣へ腰かける。
僕が治癒術を使っている間もその視線はまっすぐ僕を見つめてくるから、ちょっとやりづらい。
それから十数秒の間、互いに一言も言葉を交わすことはなかった。
ぼんやりと治癒の輝きだけが辺りを淡く染めて、マナが雪のようにひらひらと舞うばかり。
でもそれを心地よく思っている自分がいて、少し照れくさくなる。
こんな感情を僕が持っているって知ったら、ミラはどう思うのだろう。
密やかな憧憬を押し隠して、すっかり綺麗になった手を確認し、満足して小さく頷く。

「終わったよ、ミラ」
「……ジュード、何を思っている?」
「え?」

思わず胸を押さえてしまった。
ちょっと雰囲気に流されてくだらない想像をしました、など言えるはずもなかったが、ミラが言わんとしていることは、そこではなかったらしい。
焦って視線を上げた先の瞳に、誇り高い輝きを見て頭が冷える。

「何が君を悩ませるのかは知らない。だがそれは……君のままで解決できないことなのか?」
「……それは……」

おそらく難しい。
今までそれとなく自分なりの解答を出してきたが、ここに来てその『自分』が崩壊しかかっているのだ。
自分を確立するための一切が、今の僕には信じられないでいる。
誰かに寄り添って生きてきたから、『自分らしい』がわからない。
勉学は好きだけど、別に医学じゃなくても良かったはずだ。
護身術だって、レイアに誘われてやってただけだし。
その他の『自分らしい』を探しても、思い当たるものがない。
今、ミラに突き放されてしまったら、僕には一体何が残るんだろう?
僕が、動くための原動力は、いったい何なんだろう?

理由がほしい。

必要とされていたい。

それ以外に、僕の使い方がわからない。

 

「……たぶん、僕は自分自身がわからなくなってるんだと思う」
「自分自身がわからない?」
「うん。今まで、誰かにお節介焼いたり、お人好しっていわれることしてきたけど、全部自分のためで、僕は……そうでもしないと自分に価値を見出せなかったんだ」

誰かに必要とされていたい。
必要とされていれば、こんなことに悩むこともなかったし、自分にそれだけの価値があると教えてもらえた気がしていたから。
だから、傍から見れば自己犠牲甚だしいほどの献身ぶりだったことだろう。
それでも、そうしていれば周囲に角は立たないし、平和だし、僕は自分の価値を見つけて安心できる。
それはとても合理的に見えるから、それが良いことだと思っていた。

「誰かに必要とされていたかったんだ。それ以外に、僕の、使い道が……わからなくて……」

いらないって言われるのが怖いんだ。
誰かの意思に添って生きてきたから、放り出されてしまったらどうすればいいのかわからない。
ぎゅっと胸元を掻き寄せて俯く。
競りあがってくる何かが呼吸を乱して息苦しい。
本当は、ミラにこんな弱音吐きたくなかった。

失望されるかもしれない。

見限られるかもしれない。

イヤだ……それだけは!

 

「ジュード、それは誰が決めたことだ?」

ぎゅっと目を瞑っていると、穏やかなミラの声が問う。
驚きに目を丸くして顔を上げれば、静謐な空気を纏ったミラが見つめていて。
再度問う柔らかな威厳のある声は、混乱に沈んだ心に静かに響く。

「必要か不必要か、などと誰が決めている?」
「ミ、ラ……?」
「君は……本当に自分を知らないようだな」

例えばの話をしてやろう。
ミラはそう言って真っ直ぐ僕に向き合う。

「今日、君は私のためにとナップルの実を持ってきてくれた。さっきの話から言えば、それは、『私に感謝されたい、必要とされたい』そう思っていたからだということになる」
「……うん」
「確かに私は君の好意が嬉しかった。だが、君の行動に感謝する人間は私だけではない。むしろ私以上に、君の行動が必要な者もいたはずだ」
「どういうこと?」
「簡単なことだよ、ジュード。君はあのナップルに関わる全ての人々に必要とされ、感謝されているのだよ。商売人もそうだろうし、栽培する者もそうだろう。彼らは彼らの生活のために、他者を必要としている。たとえ君を特定するわけではなくとも、必要とされ、感謝されていることに違いはない。君は生きているだけで多くの人から必要とされ、感謝されている」
「でも、それは……」

きっと、僕の求めているものではない。
確かに、ミラの言う事は正しい。
必要とされたい、感謝されたい、その二つは叶えられている。
だが、この身に実感が伴わないために、すんなり心の内に治まらない。
もやもやとした得体の知れない感覚がくすぶって、自然と落ちる視線に、小さくミラが笑う。

「全て、君の主観に基づく選定だよ、ジュード」

そっと頬に温かな手のひらが触れる。

「レイアや身近な人間に感謝されたとき、君はどう思う?」
「……嬉しい、んじゃないかな?」
「そう、君はその気持ちを感じたときに『必要とされている』と実感する。逆の気持ちを感じれば『必要とされていない』と思う」

撫でるように僅かに上下する手に誘われて、ゆるゆると顔を上げれば、

「とても人間らしい、素直な気持ちだ」

ミラは甘く微笑んで言った。
厳しく気高い彼女が、女性らしい柔らかな微笑を向けて僕の心を包み込む。

「そのときの気持ちを大切にすればいい。君が君の感情で他者を想うように、相手もまた自分の感情で君を想っている。君が必要とされていないと思っていても、相手は必要としていることだってあるだろう。わからなければ訊けばいい。君が相手を想う限り、何度でも機会はあるのだから」
「……ミラ」
「君の意思は既にある。君の感情が君自身だ。見失うはずがない。それに、何も訊かずに、憶測だけで相手の気持ちを測れるはずもないだろう。全部、君が作り上げたものだ」

僕が作り上げたもの。
ミラのその言葉に、ぐさりと心を突き刺されたような気がした。
怯えていたことも、恐れていたことも、自分の中でわだかまりを作っていたもの全て、確かに誰かに訊ねたことはなかった。
父さんのことだけにしても、わからないことはたくさんある。
何故父さんが『医療ジンテクス』をあれほど否定的に扱うのか。
ミラをわかっていない、ということがどういうことなのか。
確かに僕は、その真意を何一つ知らない。
父さんの態度や今までの接し方で、一方的に見ていたのかもしれない。
そこまで考えて、ミラを見つめ返した。
改めて、ミラがとても強くて、すごい人なんだと思う。
ここ2週間ほど僕が延々悩み続けてきたことを、こんなにもあっさり、事もなげに片付けてしまった。

「……でも、今までのやり方を変えるのは、ちょっと難しそうだね」

さすがに、いきなり改心して父さんに直接質問攻めしに行く勇気はない。
父さんはすごく苦手だし、何かと僕の行動を否定したがる。
どれだけ言い募っても、全部言いくるめて結局最後は怒るんだ。
そんなのわかって……あ、しまった。
言われた矢先にやってしまった。
あわわと情けなさに頭を振っていると、ミラは顎に手をかけて少しばかり考え、思いついた勢いそのままに僕に向き直る。

「ふむ……ならばジュード、君は身近な相手に訊ねることから始めるといい。まず私で練習してみるか!」
「え!?いや、いきなりそんなこと言われても……」
「遠慮はいらない。さぁ、どんと来い!」

そ、そんなに胸を張られても困る。
期待に満ちた瞳は、夜目にも輝いて見えるから余計に弱ってしまって。
ミラの期待にはとことん弱いと自覚しているだけに、逃げられない。
そして、自分がその期待に応えなければ!と脊髄反射のごとく思ってしまうことも、よくよくわかっている。

「……うぅ、えっと、ね」
「うむ、なんだ?」

ずいっと顔を寄せられて、思わず仰け反る。
顔が近すぎて、まともに視線を合わせられない上に、じっとり手に汗が吹き出るくらい体温が上がっていく。

「ジュード?」
「ミ、ミラ……ぼ、僕……ちゃんと、手伝えて、る?」

意を決してそう問えば、ミラは呆気に取られたような表情で固まった。
そんなミラの表情に、説明が足りないのかと慌てて言葉を継ぐ。

「あの、覚えてないかもしれないけど……ミラについて行きたいってお願いしたときに、僕はミラの手伝いがしたいって言ったでしょ?あれは僕が自分で決めたことだし、果たせてなかったらこれから有言実行しなきゃって、思ってて。それで、あの」
「ふっ……ふふふ……」
「……ミラ?」

言い募っている途中で、いきなり笑い出されてしまった。
どうやらミラの笑いのツボに嵌ったらしく、思い出しては笑い、をしばらくくり返すばかりで、僕はどんどん惨めになっていく。
なけなしの勇気を振り絞ってあれだけ言ったというのに、この様である。
自分の中の男心に確実にひびが入った気がする。

「いやいや、すまない。ふふっ」
「ミラ……酷いよ。練習だって言うから僕、頑張って言ったのに」
「わかっているよ。……だが、まさかそんな質問を寄こされるとは思っていなくてな。予想外というか、君らしいというか……あははっ」
「もう……好きなだけ笑えば!」

自分が笑われているところなんて見たくもなくて、ついっとそっぽを向くと、ミラの声が慌てたように追いすがる。

「いや……本当にすまない、ジュード。別に呆れたわけでも貶したわけでもないんだ。機嫌を直してくれ。ただ、本当に君らしくて微笑ましかったんだ」
「僕らしい?」
「あぁ、実に君らしい。やはり君はもっと相手に気持ちを伝えて確認するべきだ」

再び視線を戻せば、言葉そのままにミラが微笑んでいて驚いた。

「君の問いに答えよう。……『手伝う』では表しきれないほど、君は私を助けてくれているよ」

 

初めて出会ったイル・ファンで、四大を失った私を迷わず助けに来てくれた。

イラート海停で君が作ってくれた食事は、今でも忘れられない。

キジル海瀑で捕まっていたとき、君の機転の利かせ方には驚嘆したな。

ニ・アケリアで、「手伝う」と言われたときは、驚いたが嬉しくもあった。

樹海ではジャオを文字通り煙に巻いたし、バーミア狭谷では微精霊たちを守ってくれた。

ガンダラ要塞に囚われた私たちを追って、我が身省みず君が駆けつけてくれたおかげで、私は一命をとりとめた。

ル・ロンドまでの道のりを、君は私を背負って歩いてくれた。

そして今は……こうして再び歩けるようになった。

 

「君が私を想って行動したどれもが、私を生かし支えてきたんだ。君は、君が定めたことを成し遂げている。自信を持っていい」

ひとつ、ひとつと指折り思い出して列挙される自分の行動は、お人好しやお節介レベルの話ではなくなっていたが、それでもミラはそんな僕自身を誇っていいと言う。
迷いながら、引きずられるように歩いてきた今までを、ミラはちゃんと見てくれていて。
僕が「僕のままで」答えを出すことを、待っていてくれていて。
じんわりと温かなミラの優しさに触れて、切羽詰っていた焦燥が薄れていく。
この気持ちが、僕に確かな意思を示している。
そうだ、ミラの言ったとおりなんだ。
必要とされるとかされないとか、自分の価値を誰かに委ねても迷うだけで、きっと僕がほしがっている答えは、自分で探しに行かなきゃいけないんだ。
無意識に背負い込んでいた重圧が掻き消えて、いままで苦しんでいたことが、びっくりするほど些細な事のように思えてくるから不思議だ。

「ミラ……ありがとう」
「ふふふ、おかしな奴だな、君は。今、感謝を述べるべきなのは私だろう?」
「うん……でも、嬉しかったんだ」

だから、言わせてほしい。
ミラが教えてくれた自分の気持ちを大切にしたいから、できる限り言葉にしていきたい。
感情も決意も全部伝えるために。
自分自身に刻むために。


そして、僕は『僕』に望む。


ミラに誇れる人間でありたいと、強く願う。


今の僕が確かにわかることは、きっとこの想いだけなのだ。
ミラの隣に立っていられるように、同じ未来を見ていられるように。
今はそれが理由でいい。

 

「少しずつでいい。ジュード、君が望み続ける限り、君は変わっていけるよ」

 

優しげな声が、そっと僕の背中を押した。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2011/11/01 (Tue)

ミラジュでル・ロンドの一夜。
迷える青少年が、3週間も不器用さんな父と過ごしてむしゃくしゃしないわけないと思ってw


*新月鏡*