「A*J×ICO -1-」

 

 

 

自然の恵みを失いつつあるエレンピオスは、死にゆく世界だった。
年月を重ねるごとに、木々は枯れ、大気は澱み、砂地と岩ばかりの景色が広がる。
原因は、黒匣<ジン>と呼ばれる最先端機器に注ぐ燃料の枯渇だった。
自然が消え去っていくに比例して、捻出の難しくなった原料を枯渇させないために、年々黒匣に関連する税金が上がっていく。
人々の生活を圧迫してもまだ足りず、エレンピオスは貧困者の悲痛な声が渦巻いていた。
具体的な救いを見出せなくなったエレンピオス人が、目に見えて迫る危機に対処しきれず、最終的に縋ったのは、神という名の偶像だった。
この世を統治し管理すると言われている物語の神-精霊の主<マクスウェル>-。
枯渇していく自然の現象を、マクスウェルの罰だと騒ぎ出す宗教団体が現れ、長い長い年月を経た今では、人の心は偶像への畏怖で満ち溢れていた。


どうして世界はこんなにくだらないものになってしまったのか。


16歳の誕生日を迎えた少年は、小窓から空を眺めて一人小さくため息をついた。
届かない窓の外、祭典を祝う民衆の声と、母の泣き叫ぶ声が交じり合う。

この世界には、人道から外れた儀式があった。
-再誕祭-と呼ばれる、エレンピオスで年に一度、自然再生への祈りを捧げて盛大に祝う大イベントで、その日だけは、一部の人間を除き、世界中の人々が苦しみを忘れて活気に包まれる。
よき年であれと願う年に一度の再生の祭、と言えば聞こえはいいだろう。
だが、蓋を開けば人身御供という酷いものだという事実を、多くの人は知らない。
普通の人間なら一生知ることのない真実だ。
真実を知る人間は、名門貴族に限られていて、何千年も昔からひっそりと悪逆非道なこの儀式が受け継がれている。
何故公表しないのか、といえば、民を混乱させないため、が上の言い分だった。
事実を知って民が混乱に陥った場合、国という根幹が破壊されかねないと恐れたからだ。
我が身や家族のために動く人間の意思は強く、また他者への偽善が群れを成せば、それが本当に必要かどうかなど関係なく、今までの枠組みは破壊されるものだ。
もちろん、破壊された側の人間は断罪され、新たな先導者の下、新しいルールが築き上げられることだろう。
それを恐れた上層部の連中が、情報改ざんを徹底し、今では最重要機密扱いの隠された真実になってしまった。
保身のちらつく大義名分を掲げながら、エレンピオスは人身御供などという呪われた儀式を行い続けてきたのだ。
毎年、同じ日、同じ時に、一人、一人と葬って、死にゆく世界は今日も生きている。

 

世界の歪な成り立ちを、少年-アルフレド・ヴィント・スヴェント-は幼い頃から枕元で幾度となく聞かされてきた。
どういう基準で人を選定されているのかは知らないが、再誕祭の1節前になると、白い蝶が何処からともなくやってきて、贄となる人物の肩へ止まるという。
そして、今年はアルフレドの肩に、そっと白い蝶が舞い降りたのだ。
幻想的な輝く羽根を持つ蝶を見たときは、その美しさに魅入られ、手をさし伸ばして迎えさえしたのだが、背後にいた母の悲鳴を聞いた途端、自分がどれほどとんでもない立場になったのか、アルフレドはすぐに気がついた。
だが、逃げる暇もなく、すぐさま政府の使いがやってきて、あれよあれよという間に檻の中に放り込またのである。
檻といっても、豪奢な造りの部屋に軟禁状態にされるだけなのだが、外へ一歩たりとも出られないなら、檻とさして変わらない。
扉の向こうで母・レティシャは泣き暮れ、日増しにその声が弱々しくなれば、アルフレドはいても立ってもいられず脱走を試みた。
だが、どれほど人を出し抜き、抜け出そうとしても、監視の目からは逃げられず、ついに祭典の当日まで母に会うことすらできなかった。
情けをかけてくれた看守によれば、レティシャは起き上がることもできないほど衰弱し、精神に異常まで来たしており、幼かった頃の息子の心配をするか、泣き叫んでいるかをくり返しているという。
教えられた母の現状に、アルフレドは何度も謝り続けるしかなかった。
惜しみない愛情を注いでくれた母へ、何ひとつしてやれずに不幸ばかりを与えてしまう。
そんな自分の無力さが腹立たしく、また情けなかったが、傍へ駆けつけるどころかここから出ることさえままならない。

親子を容赦なく引き裂き、嘆きを与えた祭典は、無情にも滞りなく進み、アルフレドはついに贄の場である『時忘れの城』へと向かうことになった。
目隠しをして連れ出され、祭典のために飾り立てられた籠へ乗せられる。
贄の子だと知らない民衆は、アルフレドを再生の象徴としてしか見ることなく、恐ろしいほど明るい声が感謝や祈りの言葉を投げてくるばかりだった。
民が事実を知らないのは、国として正しいのかもしれないが、手放しで自分の死を喜ばれているのだと思うと、こんな奴らのために母を泣かせたのかと憎悪すら湧き起こる。
偶像崇拝に踊らされた何も知らない人間も、諸悪の根源たるマクスウェルも、反吐が出るほど憎らしい。
アルフレドがやり場のない感情を煮えたぎらせている間も移動は続き、ようやく人の喧騒が遠のいたかと思えば、今度は船へと乗せられる。
『時忘れの城』への道のりは、貴族の中でもほんの一握りの限られたものしか知らない。
アルフレドもまた、城の名を知っていても場所まではわからなかったので、船を使うということに驚いていた。
ちゃぷちゃぷと揺れる波音に、海へ飛び降りて脱走してやろうかと目論むも、背後にいた男がすぐに両手を拘束した。

「痛ってぇな、放せよっ!」
「ならば、馬鹿な真似はしないことだ」

冷たい声で言い放った男は、投げ捨てるようにアルフレドを船底へ放り出し、暴れまわる四肢を紐で縛り上げる。
その間も、アルフレドは罵詈雑言を浴びせていたが、どれも現状打破への効果はなく、船は緩やかに城へたどり着いてしまった。
降りるときに足の紐と目隠しを解かれ、歩けと背中をぐいぐい乱暴に押し出される。
突っつかれるような格好で逃げることも出来ずに歩みを進めていくと、古代遺跡によくありそうな不気味な石像が2対並んでいた。
そこへ、付き添っていた女が、携えていた大剣の刀身をを鞘から抜き放ち、石像へ掲げる。
すると、深い藍の閃く剣が光を帯び、石像と共鳴を起こし始めた。
地面を削るような轟音と振動を起こして、2対の石像は両端へと移動する。
どうやら、石像は扉の役割を、大剣は鍵の役割を担っているらしい。
再び急きつかれるように奥へ向かい、大きなエレベーターを昇っていく。
古めかしい建造物の割りに、中の構造は近代の黒匣に似たような動きをすることがアルフレドには不思議だった。
簡単に言ってしまえば、この城は近代技術とおとぎ話の魔法、相反する二つの力を融合して機能しているのだ。
どれほど高等な技術を持ってしても、今のエレンピオスでは再現不可能な融合である。
そんな物珍しい城内をきょろきょろと見渡しながら、到着したエレベーターを降りると、目の前には大きな広間が現れた。
広間の壁には数えるのも億劫になるほどの棺が並んでおり、誰一人いない広間は荘厳さよりも不気味さの方が際立っている。
見回す壁に規則正しく並ぶ棺のうち、ひとつだけ扉の開け放たれている棺があり、見つけた瞬間、アルフレドはすぐに直感した。
あの棺に、自分が閉じ込められるのだと。
実感したと同時に恐怖が身体を駆け巡り、背後から拘束し続けている男を振り払おうと身を捻る。
だが、アルフレドと男の力の差は歴然で、大した抵抗にもならないまま、アルフレドはずるずると棺へと引きずられ、冷たい箱の中へと放り込まれた。

「我らを恨むな、少年よ。お前はスヴェント家の誇りとなる。これも世界のためだ……許せ」

物々しい男の声に、慌てて振り返ったときにはもう遅く、ごおん、と重たい音を立てて棺の扉が閉じられ、全ての視界を奪われる。
こつこつと単調な足音が次第に遠のき、続いて大きな振動が我が身を襲えば、アルフレドは恐怖のあまりパニックに陥り、むやみやたらと狭い箱の中で暴れまわった。
錯乱したまま一心不乱に暴れまわれば、アルフレドの閉じ込められた棺は右へ左へ、手前へ奥へと忙しなく揺れ動く。
がらがら、みしみし、嫌な音が足元からしたと気づいたときには、前のめりに倒れた棺が大きな段差に数回ぶち当たりながら転がり落ちた。
一度目の衝突で開いた扉から投げ出されたアルフレドは、冷たい石畳に強かに身体を打ちつけ、小さく呻く。
ぎゅっと胃を押し上げる吐き気と眩暈に襲われるが、頬を撫でる風に宥められながら、ゆっくりと起き上がった。

(……どう、なったんだ?)

まだ少しぼんやりとする視界で見渡せば、入ってきたはずの入り口が消失し、代わりに自分が閉じ込められていたであろう棺が無残に転がっていた。
そのまま棺があったであろう場所を見れば、台座に崩れた跡を見つける。
どうやら、台座が既に欠けていたおかげで、揺り動かした棺が落ちたらしい。
偶然とはいえ、助かった事実にほっと息をつき、アルフレドは胸をなでおろす。
あとは、ここから自力で脱出し、家へ帰らなければならない。
ぎゅっと唇を引き締めると、アルフレドは唯一広間から出られそうな扉を見つけて駆け出した。
誰かいないか、と叫ぼうかとも思ったが、生贄を要求してきた奴らに出くわして再び棺の中へ戻される可能性もあったので、速やかに広間から出ることを選択したのだ。
松明の炎が揺らめいて、おどろおどろしい影が揺らめく回廊を進み続ける。
いかにも何か出そうな雰囲気に、腕を抱くように身震いするが、追い払うように頭を振って闇の中へと足を踏み出した。
意を決して扉をくぐった先には、高く螺旋を描く階段があり、その中央に黒い檻がぶら下がっているばかりで、アルフレドが期待していたような出口らしい出口は見当たらなかった。
だが、とって返そうにも、戻れば広間と棺しかない。

(戻れないなら、進むしかないよな……)

あまり気は進まないが、アルフレドは自分を奮い起こして螺旋階段を上り始める。
暗い壁に添うように走る螺旋階段は長く、その高さは見上げていると首が痛くなりそうなほどだった。
途中、崩れ落ちた場所を飛び越え、段差を乗り越えしていると、だんだんと黒い檻の全貌が見えてくる。

「え……?」

やっと檻の床と同じ目線になったとき、アルフレドは檻の中身を見て息を呑んだ。
鎖で吊り下げられた真っ黒な檻の中にいたのは、白い薄衣を纏った人間だった。
縮こまるように両足を抱きかかえて顔を埋めているので表情はわからないが、背格好から推測すると、自分とたいして年が変わらないのではないだろうか。

「なぁ、何してるんだ?」

アルフレドは、思わず檻の中の人間に向かって声をかけていた。
いつ脱走に気づいて追っ手が来るか判らない状況だったが、それでもアルフレドは声をかけずにいられなかった。
響き渡るように反響する声は自分が思っていた以上に大きな音で、少々驚いたが、怯むことなく声を重ねる。

「そんなところで、何してるんだ?」

できるだけ優しく届くように願いながら問いかければ、中にいた人物がゆっくりと顔を上げて振り向いた。
ぬばたまの艶やかな黒髪に、何重も重ねた薄衣の白。
そこから伸びるしなやかな四肢はなめらかに動き、その肌は日の光を知らないのかと思うほど白い。
風に流れ、交わる白と黒のコントラストは美しく、呆然と目を奪われていると、伏せられていた蜜色の瞳と視線が絡む。
神秘的で、どこか悲しげな色の揺らめく瞳に、アルフレドはごくりと息を呑んだ。

「……っ、待ってろ、すぐ降ろしてやる」

自然とそう声を投げかけて、辺りを見回し、天井に連なる鎖の元を視線で辿る。
どうやら螺旋階段の最上部付近に操作装置があるようだ。
3分の2ほど昇りきっている今、多少昇る階段が増えても大した差ではない。
檻を気にしながら駆け上がり、鎖の巻きついた装置を動かし、黒い檻を限界まで引き降ろす。
だが、どうやら限界まで鎖を伸ばしても、あと少しのところで一番下まで届かず、人を閉じ込めたままの黒い檻は宙でゆらゆらと揺れていた。
何とか降ろしてやれないものかと、思案するが、ろくな持ち物もなければ大した道具もありはしない。
あるのは己の身体と、その辺に転がっている瓦礫、松明、木製の棒。
とりあえず、身近に転がっていた木の棒と尖った瓦礫を手にして、この二つをうまく使って鎖を切れないものかとアルフレドは少し考える。
どうにも現実的でスマートな作戦には思えなかったが、物は試しだと中腹から檻の真上めがけて飛び降りる。
途端、腐敗した鎖の部分がちぎれ、がちゃんと大きな金属音を響かせて、黒い檻が落下した。

「うわぁっ!」

どこにも掴まることのできなかったアルフレドは、落下した衝撃に踏ん張りきれず、檻の屋根から床へと転がり落ちた。
無様に尻餅をついてしまい、痛みを訴える身体を叱咤しながらゆるゆると上半身を起こす。
落下した黒い檻へ視線をやると、古臭い音を立てながら開いた扉から、囚われていた人物がゆっくりと出てくるところだった。
周囲を見回すように、首をめぐらせ、アルフレドへ視線を向けると、おもむろに口を開く。

「rd htna? ntktih rkkd?」

耳に届く声は、ふんわりと空気に溶けるような優しい音で、一瞬話しかけられていると気づかないほど心地よく届いた。
だが、アルフレドは届いた言葉に、何一つ返答することができなかった。
使っている言語が違うらしく、何を言っているのかさっぱりわらかなかったのである。

「……お前も、生贄にされた奴なのか?」

ためしに問いかけてみたが、一言も返事が帰ってこなかったので、向こうも自分の言っていることはわからないのだろう。
檻から出た人物は、代わりに躊躇いがちに白い足をこちらに向けて、ゆっくりと近づいてきた。
そっと運ぶ足音は小さく、一歩一歩を踏みしめるように歩き、アルフレドの前まで来ると視線を合わすようにしゃがみこむ。
白く頼りない指先が、アルフレドの頬へ伸ばされた瞬間、不意に目の前から白い姿が消失した。

「なっ……!?」

見失った姿を追って見上げれば、助けたはずの人物は、何処からともなく現れた黒い影に襲われていた。
弱々しい抵抗も空しく、強引に担がれたその人は、アルフレドと目が合うと、助けを求めるように手を伸ばす。
その姿を見た瞬間、アルフレドは迷わず隣に転がっていた棒切れを手に取り、黒い影めがけて振りきった。
腹を一閃、薙ぐように振り払い、立て続けに斜めから振り下ろす。
どんなに屈強だろうと叩き切る意気込みで振り回したものの、黒い影には、自分が思うほどの手ごたえはなかった。
だが、効果がなかったわけではなく、最初の一撃で攫おうとした人物を取り落とし、追撃を受けて霧散したのである。
まさに、言葉どおり霧のように空気に溶けて消えてしまった。
はぁっと止めていた息を吐き出し、呼吸をすばやく整えると、へたり込んでしまっている人へ駆け寄る。
相当怖かったのだろう、胸元に寄せた右手が小刻みに震えていた。

「大丈夫か?」

多少息の荒いまま、できるかぎり優しく問いかけ手を差し出すと、怯えていたその子はアルフレドを窺うように覗き込み、おずおずと手を重ねてきた。
ひんやりと冷たい指先からは、まだ小さな震えが伝わってくる。
促すように立ち上がらせて、汚れてしまった服を軽く落とす頃には、多少落ち着いてきたのか、やんわりとぬくもりが戻ってきた。
そのままよくよく観察してみると、中性的な面立ちをした人物が、自分と同じ少年だと知る。
ぱっと見、女か男かわからない容姿をしていただけに、今までどちらかわからなかった。
華奢な体つきに、蜜色の大きな瞳、濡れたように艶やかな黒髪に対して、透けるように白い肌。
名門貴族の深窓令嬢ですら、ここまでたおやかな印象を持つことはあるまい。
まじまじと観察し続けすぎたのか、見つめられていた少年が疑問を示すように首を傾げてくる。

「あ……い、今の、何だったんだ?お前を狙ってなかったか?」

取り繕うように言葉を探し出して問いかけてみたが、やはり言葉が通じず、不安げな眼差しばかりが返される。
目の前で佇む儚げな少年は、アルフレドにとって把握の出来ない未知の人間だが、檻に囚われ、得体の知らないものに狙われているのだ、このまま放っておくわけにもいくまい。
握ったままの手を安心させるように軽く力を込めて握り返し、アルフレドは現状なすべきことを優先させることにした。

「まぁいいや、ここにいるのは危険だってことに変わりないし。とにかく、ここから出なきゃな」

そう勇気づけるように少年に笑いかけるものの、ぐるっと見回す部屋に希望に満ちたものがありそうだとは思えない。
見上げた螺旋階段の最上部まで上っても、出口や扉があるわけではなかった。
ぽつんと2人で佇むこの場所にあるのは、護身用に持っておこうと決めた棒切れと、広間へ続く扉と……。

(あれ?これって……ひょっとして開いたりしないか?)

階段の奥にひっそりと隠れるようにあったのは、城へ連れてこられた時に見た2対の石像だった。
記憶が正しく、入り口にあったものと同じものなら、扉の役割をしているに違いない。
期待を込めて、重々しい石像に近寄り調べてみるが、押しても引いても、うんともすんともいわない。
やはり、鍵となる大剣がなければ、この石像は動かないのか。
やや諦めに近い絶望を感じていたとき、先ほど助けた少年がぱたぱたと走り寄ってきた。
控えめにアルフレドの服の袖を引いて、見上げるように首を傾げてくるが、何を言いたいのかわからない。
困惑に眉を寄せると、少年はアルフレドの瞳を数秒見つめ返し、並んだ石像の前で祈るように手を胸元へ寄せ、目を閉じた。
するとどうだろう、何処からともなく現れた白い輝きが、ふわりと少年を包み込み、その光に呼応するように石像まで光りだしたではないか。
驚きに目を見開くアルフレドの前で、硬く閉ざされていた扉は、轟音と地響きを上げながらあっけなくその道を開いた。

「すっげぇ……今の、お前がやったのか?」

ぽかんと開いた口が塞がらないまま振り返れば、少年の口端が僅かに弧を描く。
それと同時に、柔らかくなる目元に、あぁこの子は今笑い返してくれているのか、とアルフレドは気づいた。
こんな得体の知れない不気味な場所に閉じ込められていたのだ、自然と笑えないのも無理もない。
自分よりずっと儚い印象を纏う少年の感情に、無意識に触れた手を引き寄せる。
庇護欲といえばいいのだろうか。
自分がどれほど非力でも、この子は守らなければならないと、アルフレドは漠然とした使命感すら与えられたような気がしていた。
そんなアルフレドの気持ちを知らない少年は、握り締められた指先に視線を落とし、アルフレドを真似るように手を握り返して見つめてくる。

「一緒に行こう」

開いた扉へ、促すように一歩向かえば、意図を理解したのか、素直に少年はついてくる。
何の抵抗もなくついてきたことに安堵しながら道なりに歩いていくと、アルフレドの身長よりちょっと高めの段差が行く手を阻んだ。
段差の向こうには、先ほど少年が開けた石像の扉があり、どうにか2人でたどり着かなければならないらしい。
自分は乗り越えられないことはないが、後ろの少年が自力で登れるのだろうか?
振り返ってみると、窺うようにまた首を傾げてきた。
さらりと首筋を流れる黒髪が印象的で、自然と白いうなじに目が行ってしまう。
こんなときに何を考えているんだと頭を振って、アルフレドは丁寧に手を離すと目の前にあった段差をひょい、と乗り越えた。
次いで、上った段から手を差し出す。

「ほら、おいで」

ぽつんと佇む少年に声をかけると、少年はこれまた素直にアルフレドの手を取り、上ろうと奮闘してくれた。
段差へ手をかけ、タイミングを合わせて一気に引き上げる。
アルフレドの方が力があったおかげか、思ったよりすんなり引き上げることに成功した。
膝についたほこりを払って立ち上がると、アルフレドは石像を指差して少年を振り返る。
すると、意を得たといわんばかりにこくりと頷いて、少年は扉の前で先ほどと同じように目を閉じた。
白く柔らかな光は幻想的で、その光を見るたびに、アルフレドは自分を選定した蝶を思い出していた。
見るものを魅了する蝶の輝き、それはまさに少年の持つ神秘的な雰囲気によく似ている。
ぼんやりと白い輝きが消えるのを眺めていると、扉を開け終わった少年がくるりとアルフレドを振り返った。
その動作に合わせて、薄い布で編まれた白い裾がふわりと揺れる。

「ありがとう」

自然と微笑んでそう言うと、言葉が通じていないにもかかわらず、少年は目元を緩めて頷いてくれた。
手を差し出せば重ねられ、手を引けば素直について歩く存在は、アルフレドにとって初めての感覚を与えていた。
心をくすぐるようなそれが何なんか、具体的な名前を見つけられないが、何か特別な気持ちを抱いているのは間違いない。
暗い城の中で、今このとき、唯一互いだけが明確に存在しいるのだ。
親近感に近い何かを、ほんの僅かな時間で感じてしまうのも当然のことだろう。
芽生え始めた特殊な感情に後押しされながら、アルフレドは再び少年の手を取り、扉の向こうへ進んだ。

 

扉の向こうにあったのは、望んでいた外の景色と、塔と塔を繋ぐ長い長い通路だった。
外界に晒された石の橋は古めかしく、唸るように駆けてゆく風の音に、ごうごうと鼓膜を揺さぶる音がする。
見渡す景色は美しく、城をぐるりと取り囲む海には船ひとつ見当たらず、白い鳥が自由に駆け回るばかりだった。
確認のために下を見下ろせば、今いる場所がずいぶん高い場所なのだと気づく。
あまりの高さに、ここからどうにかして降りよう、などと考えることもできない。
断崖絶壁の古城は、戴く名の通り、世界から隔絶され、忘れられた時の狭間に佇んでいるようだ。
進むしかないか、と思っていると、軽く手を引かれたような気がしてアルフレドは振り返る。
手を繋いでいた少年が、壁の角にある何かを気にしていた。
視線を辿ってみれば、ぽつりと白い長椅子が目に映る。
風から避けるような場所にひっそりと置かれた長椅子は、人目にもつきにくい場所を選んで置かれているような印象を受けた。

「少し、休むか?」

何となく、少年が疲れているのではないかと感じたアルフレドは、窺うように訊ねてみた。
声に反応して見上げてきた少年は、何も言わなかったが、アルフレドと長椅子を交互に見るので、アルフレドは意を得たと言わんばかりに頷いて、長椅子へ少年を座らせる。
次いで、自分も隣へ腰かけ、背もたれに身体を預けた。
ぐったりと重く感じる身体は、緊張の連続で自分が思う以上に疲弊していたらしい。
いつまた黒い影や追っ手が来るかわからないが、何故かここは安全なような気がして、アルフレドはそっと目を閉じた。
繋いだままの手から感じるぬくもりは、不思議と安心感を与えてくれて、温かい。
与えられる体温に一息ついていると、不意に額に何かが触れる。
そっと目を開けると、白い指先がさらさらと髪を梳いていた。
ゆるりと視線を動かせば、少年が手を繋いでいない方の手で、優しく労わるように視界にかかった前髪を除けてくれた。

「大丈夫だよ、……」

感謝を示そうとしたものの、呼びかける名を知らないのだと気づいて言葉に詰まる。
だだっ広い城の中で、今はたった2人だけなのに、アルフレドは相手の名前さえ知らない。
名乗りたくても、相手に伝わるかどうかもわからない。
教えれば、応えてくれるだろうか。
じっと見つめていると、大きな蜜色の瞳が優しげに揺れて見つめ返してくる。
その瞳はとても綺麗で、ずっと見つめていると、時間を、場所を、うっかり忘れてしまいそうだ。

「……あのな、」
「?」
「名前……って言ってもわかんねぇよな……」

アルフレドは、意を決して少年の名を聞くことにした。
名前を呼べない、というのはやはりなかなか苦しいものだ。
だが、やはり言葉の通じない壁が立ちはだかって、どうにも聞きだせそうにない。
うぅんと唸るように頭を捻って十数秒、ならば逆を試してみようとアルフレドは思いついた。

「あのな、俺は、アルフレド・ヴィント・スヴェント、わかる?」
「……?」
「長いかな……んじゃ、縮めるか、アルヴィンだ。言ってみな?アルヴィン」
「……A?」
「そうそう、ア・ル・ヴィ・ン」
「s,……al……?」
「ア・ル・ヴィ・ン」
「Al……vi,n……?」

覚束ない言葉を懸命に紡ぎながら、自分の声を辿って少年の口が同じ音を繰り返す。
ゆっくりともう一度くり返すと、今度は先ほどより滑らかな発音が返って来て、アルフレド――アルヴィンは嬉しさのあまり破顔した。
促すように頷き、自分を指して同じ音を数回繰り返せば、少年もようやく理解してくれたのだろう、同じようにアルヴィンを指差し、名を呼ぶ。
ここまで来れば、後は逆のことをするだけだと、アルヴィンは自分に向けていた指先を少年に向け、問いかけるように首を傾げてみる。
だが、少年からは、名前を示すような言葉は返ってこなかった。

「Alvin……」

表情変化の乏しい少年だったが、このときばかりは悲しげに瞳が揺らめき、頭を振って否定を示してきた。
ぎゅっと握り締めてきた指先と表情に、どうやら言えないわけでもあるのではないかと、直感的に感じ取る。
申し訳なさそうに俯く少年の姿を見ていると、なんだかこの子に悪いことをしてしまったような気すらしてしまい、アルヴィンは慌てて少年の肩を掴んだ。

「俺は、気にしてない!大丈夫、聞かなくても大したことないって。俺が、訊いてみたかっただけなんだ」

畳み掛けるように言葉を重ねて、唯一ストレートに伝わる声のトーンと、表情をめいっぱい明るくして向ける。
安心させようと懸命に試行錯誤していると、少年は最初戸惑いを見せたものの、次第に翳りのない眼差しを返してくれた。
言葉が通じないことが、これほど厄介だとは思わなかったアルヴィンは、少年の懸念を解くことができた様子にほっとする。
一息ついたところで、白い長椅子から立ち上がると、少年に向かって笑いかけた。

「んじゃ、そろそろ行こうぜ」

繋いでいた手を引いて少年を立ち上がらせると、少年もまた頷いてアルヴィンの傍へ身を寄せる。
ごうごうと鳴る風に髪を煽られながら、2人は長い石橋の向こうにある塔を目指した。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2012/03/14 (Wed)

長っ!長っ!だがまだ序盤!
次は正門イベントまで書けたらいいなー。
造語は、セリフをローマ字打ち→逆配置→母音除外→スペース入れる、で出来てます。
なので、逆から読めば、わかる、はず。


*新月鏡*