「You are so sweet -invisible tenderness-」

 

 

 

それは、無償で与えられる目に見えないもので。
ふと振り返ったときに、気づくか気づかないかのささやかなサインを残すだけの、慎ましやかなもの。
そして、わざわざ口にして確認するような無粋なことを嫌う。
ただ、気づいた人に心温かくなるような感謝と嬉しさを与えるのみ。
人は、それを『優しさ』と呼ぶのだろう。

 

 

 

誰が名づけたやら、実験室での『青天の霹靂事件』から早5日。
歩けばついてくる視線の数は、だいぶ少なくなり、僕はこっそりため息をつく。
大人しく目立たない15歳の学者が、金持ちの先輩学者相手に大喧嘩を吹っかけた、という話題は一日であっという間に研究棟全域に知れ渡った。
アルヴィンと帰宅した翌日、嫌な予感を抱いて研究棟へ赴けば、出会う人出会う人に質問責めにされたり、名指しで噂確認されたりと散々だった。
事件当日に夕飯を共にしたノーヴェすら、待ち合わせていた店についた途端あれこれ問い質してきたのだから、仕方のないことだと言われればそうなのかもしれない。
あれからずっと人々の視線はついてまわり、異常なまでの注目を浴びてしまった僕は、その視線に耐えるだけでずいぶん疲れてしまっていた。
だから、少しの甘えを許してアルヴィンに愚痴を零したというのに、

「おたくと源霊匣の知名度上げるチャンスじゃねーの」

の一言で終了した。
ポジティブに取れば確かにとてつもなく大きなチャンスだろう。
若輩者が考案した奇抜な研究に、多くの人が目を向けてくれることなんて、通常の流れではありえない話だ。
良くも悪くも、確かにいい宣伝効果だろう。
だが、問題はそれに僕が耐えかねているという点だ。
元から人の視線には、あまり耐性のある人間じゃない。
一応、話すきっかけのある人達には、源霊匣や研究内容について紹介させてもらっているけど、沈黙と距離のあるの視線は、ある種恐怖を与えてくるから困るのである。
ミラやガイアスなら、きっとそんな視線に見向きもしないんだろうけど、残念ながら僕にはそうできるだけの強靭な精神は備わっていない。
大体あの2人がそんな視線に気づいたなら、ずかずかとその人の前まで行って、「何か用か?」と直球で訊くに違いない。
回りくどい手段を嫌う人達だから。
想像容易い2人を思い描けば、自然と微笑が浮かんで、感じていた圧迫感が緩和される。

気持ちが少し軽くなったところで、止まっていた作業を思い出し、慌てて再開する。
今、僕はバランさんから受け取ったデータチップを参考に、初期データの上書きと修正をかけている。
事件があった日、アルヴィンが僕に渡してきたものだ。
あの日、彼が実験室にやってきたのは、このチップをバランさんから必ず手渡すようにきつく言われていたからだった。
源霊匣について味方のいない場所なだけに、信用に足る人間同士のやりとりでなければ重要書類も行き来できない現状だ。
確かにアルヴィンならいいパイプラインになるだろう。
本当は、帰宅当日に渡す予定だったのだが、僕のお悩み相談を優先して渡しそびれてしまい、翌朝目覚めたときには僕のいない状態だった。
それで、迎えを兼ねてわざわざ来てくれたらしい。
さすがに一般人なので受付で多少もめたようだが、アルヴィンは、持ち前の話術でうやむやにしたと誇らしげに話していた。
まったく恐ろしい男である。
しかし、本当の意味でアルヴィンの恐ろしさを思い知るのは、それからさらに3日経った昨日の定例報告会でだった。

その日、オルダ宮では、イル・ファンを訪れたガイアスに研究の報告をする定例報告会が行われていた。
順調に進む報告会で自分の順番が回ってきたとき、

「ジュード、少し待て」

と、何故かガイアスに制されてしまった。
何事かと首を傾げていると、そのタイミングでアルヴィンが入室してきて、教壇の前に並んだ席へ引き連れてきた人物を座らせたのである。
その人物は、事件当日大喧嘩を吹っかけた相手、ビリー、アラン、デヴィッドの三人で、僕はぽかんと口を開けて驚いてしまった。

「お前の報告の前に、この者たちの研究内容と言い分を聴こう。述べよ」

重苦しいほどの声音で凄まれれば、さすがに気心知れてる僕だって萎縮する。
初体験の三人組には相当な重圧だったらしく、三人の中で一番神経質なアランが今にも倒れそうな顔で震えていて少し不憫に思った。
そんな僕の感情などつゆ知らず、ガイアスに促されるまま上ずった声でビリーは報告と見解を述べ始める。
ビリーたちの研究内容を聴けば聴くほど着眼点や発想が素晴らしく、やっぱり見る視点が違うなと勉強にもなった。
だが、『源霊匣の研究』への見解に差し掛かった途端、やはり取り去ることの難しい壁があるのだと思い知る。
彼らの言い分は、アルヴィンに脅されたとはいえ、事件当初から変わらない。
順序だてて否定してくる彼らの言い分は、納得してしまう部分もあって、徐々に視線が下がってしまう。
ビリーの演説が終わり、僕の気持ちが完全に萎んでしまった頃、静かに耳を傾けていたガイアスがこちらを見た。

「では、ジュード。世界の現状、源霊匣の説明を織り交ぜ、研究の報告を」
「え…………あ、はい!」

ガイアスから受けた注文に、僕はようやくアルヴィンとガイアスの意図を察した。
彼らは、リーゼ・マクシアのブレインとも言える学者ばかり集まる公の場で、今一度事の重大さを示す気なのだ。
そして、僕の研究を何故王自ら後押しするのか、その重要性もまとめて突きつける算段なのだろう。
そこまで考えて、壁に寄りかかって見守るアルヴィンをちらっと盗み見れば、不敵な微笑が返された。
きっと、事を荒立てたときから、このお膳立ては整っていたに違いない。
あの日、アルヴィンはビリーたちに「素敵な招待状が届く」と予告していたのだから。
たった4日の短い期間に、ここまでセッティングしてしまえる機動力に感嘆のため息が漏れる。
これも、彼が培ってきた能力ゆえなのだと思えば、ありがたくもあり怖くもあった。
敵に回さなくてよかった、と心底思う。

 

そんな昨日の定例報告会が済めば、あの場にいた学者連中は、声を大にして僕の研究を批難することはなくなった。
もちろん、あの三人組も例外ではない。
ただ、僕の説明に納得してというより、両サイドから浴びせられる威圧によって押し黙ったようなものだったが。
去り際、僕を見て青ざめ脱兎のごとく逃げたので、相当心に傷を負ったに違いない。
アルヴィンもガイアスも凄むと怖いのは僕も体験済みなので、同情を禁じえない。
ここにミラも参加してくれば、きっとあの三人は白目をむいて倒れるだろう。
そんな想像に思わず笑ってしまって、重苦しかった気分もどこかへ飛んでいってしまった。

本当に、僕は申し訳ないほど大事にされている。


しみじみと思い耽っていれば、外から小さな羽ばたきが聞こえてきた。
慌てて窓を開けてやれば、白い影はすばやく飛び込んできて、研究室を大きく旋回した後、掲げた僕の指先にちょこんと止まった。
仲間との連絡役として働いてくれているシルフモドキだ。

「いつもありがとう」

忙しなく傾ぐ頭を撫でて、ねぎらいの言葉をかけるのは癖のようなもの。
届けられた手紙を取り出し、ひと鳴きするシルフモドキを窓際の机にある止まり木に移してやる。
ご褒美のエサを手のひらに乗せて近づければ、忙しないくちばしがつんつんとつついてくる。
一仕事終えたシルフモドキは、エサを全て平らげると、再び羽ばたいて僕の肩へ移って来た。
最初は手紙を受け取ったらすぐにどこかへ飛んで行ってしまったというのに、ずいぶん慣れた様子に笑みが零れる。
肩に鳥を伴ったまま、手にした手紙をいそいそと広げてみると、そこにはローエンの達筆な文字が連なっていた。
内容としては、最近の様子の報告とこちらの様子を窺う文章だったが、僕は見逃せない内容に釘付けになった。

「……う、そ……」

ぽつりと零した言葉は、呆れと嬉しさに淡く溶ける。
手紙には、アルヴィンが僕のことについて相談してきたので、密に連絡してあげてください、という旨が書かれていた。
驚くべきは、それが3旬も前から行われていたという事実。
事件勃発の2旬も前から、彼は既に動いていたらしい。
あまりのことに言葉を失う。
ガイアスとアルヴィンが示し合わせていたので、おかしいとは思っていたが、まさか僕が弱音を吐く前から予定が組まれていたとは思わなかった。
きっと、あの事件さえなければ、アルヴィンは僕の知らないうちに首謀者を割り出し、直接ガイアスに謁見させる気だったに違いない。
計画が破綻した、水面下で行う予定だったと彼は言っていた。
僕が事を荒げたために、急遽イル・ファンの定例報告会で決行する計画にシフトしたのだろう。
そして、それも僕のためなのだと気づけば、かっと目の前が熱くなった。
人の視線と悪意に慣れない僕のために、彼らはあの場で上層部の学者を黙らせたのだ。

「あぁ、もう……!」

僕は、どうしてこんなに想われているんだろう。
気づいてしまえば、心が騒いで仕方ない。
いても立ってもいられなくて、肩に止まったシルフモドキの存在も忘れて頭を抱えてしゃがみこむ。
信じられない、なんて過保護なんだ!
しかも、こちらがその事実を確認しようとしても、2人は『僕のため』などと絶対に言わないだろう。
ガイアスは、源霊匣の研究のためだとか、世界の危機を示すためだとか、そんな都合のいい建前をたくさんくれて。
アルヴィンに至っては、ガイアスに連れて来いって言われただけだと言い切るに違いない。
なんて優しくて酷い人たちだ。
僕は『ありがとう』すら言わせてもらえない。
溢れる感情に思わず涙ぐんでしまって、自分が相当追い詰められていたことに気づく。
口元を押さえて嗚咽を飲み込むが、堪えきれない。
だって、わかってしまった。

 

心が死ねば、身体だって死ぬ

お前は一人で全部処理できる奴じゃない

頼るべき時には頼れよ

 

叱るように告げられた言葉の真意は、どれも僕を想っての言葉だった。
そして、それらは全てアルヴィンの最終警告だった。
もうずっと前から、彼は僕が危うい精神状態だと知っていたのだろう。
それでも何も言ってこなかったのは、彼が僕を信じていてくれたから。
僕が自分の力で超えなければならない問題なら、見守ればいい。
そうでないなら、気づかれないように手助けすればいい。
アルヴィンは、そう考えて僕を見ていてくれたのだろう。

「……優しすぎるよ」

想われすぎて、溺れてしまう。
彼は、僕にとって何が一番いいことなのかを知っている。
そして、それを容易く僕に与える。


――――『そのまま俺なしじゃ生きられなくなればいいのに』


昨日望まれた底なしの欲望が再び囁く。

もう無理だ。

逃げられない。

酷いくらいにアルヴィンの思惑通りに事は進んでいる。
僕は彼から与えられる全てを心地よく感じていて、それを望みこそすれ拒むことなどできない。

「……アルヴィン……」

不器用で優しい彼を、守りたかった。
でも、正常な感覚を失った僕では、きっともう守れない。
どれが間違いなのかもわからなくなってしまった僕では、彼を傷つけない方法などもう見出せない。

 

あぁ、どうか……間違いではありませんように。


優しいあの人が、傷つきませんように。

 

 

「お願い、誰か……」

 

――――僕からアルヴィンを守って

 

冷たい床に泣き崩れたまま、僕は強く願い続けるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2012/01/14 (Sat)

優しさって、こういうものだと思うのです。

試行期間編完結。
ようやく落ちてくれました。
かなり中途半端な気がしますが、落とされるまでの話なので、ここで終わり。
次、心情整理編へ続く。


*新月鏡*