「You are so sweet -a countdown-」
慣れてしまうのはよくない。 そうわかっているのに、一度覚えた感覚はなかなか拭い去れないもので。 何となく、もう逃げられる時期は終わるのだと感じていた。 そして、足を止めたその先にある結果すらも。
見世物よろしく、担がれたまま自分の研究室へ運ばれた僕は、何故か窮地に陥っている。 身体的にというより、精神的に。 それもそうだろう。 広い研究施設を担がれて移動していた羞恥と、突き刺さる好奇の視線からようやく解放されたと息をつけば、最後に目の前の男である。 僕と扉を遮るように仁王立ちで壁になっている長身を、恐る恐る見上げてみるも、返される視線が怖い。 なんで怒っているのかがわからない。 「おたくさ、昨日俺が言ってたこと覚えてる?」 「……たくさん話したから、どれのことかわからない」 「対人関係についてどうしたらいい?って質問に、俺は何て返したっけ」 「…………『自分で折り合いつけろ』」 「惜しい。具体例挙げたよな?今までどおり優等生してろって」 そういえば、そんなことも言われたような気がする。 「なのに、何でおたく正面から喧嘩吹っかけてんの?」 「それは……」 「それは?」 「…………」 あの三人が僕の逆鱗に触れたからだ、と言いそうになる口を慌てて閉じる。 どうしても譲れないことで、許せないことだった。 それを、言わなければよかったとは欠片も思わない。 だけど、誰かに話した瞬間、それは陳腐な言い訳に成り下がるような気がして怖かった。 僕を突き動かす、誇りにも似た輝きが失われる。 それは、あまりにも耐え難い。 ぎゅっと唇を噛んで押し黙っていると、僕を見下ろしていたアルヴィンが、小さくため息をついて仁王立ちの構えを解いた。 突然のことに、どうしたのかと見上げようとした瞬間、目じりから冷たいものが滑り落ちる。 「あ、……?」 落ちるそれを確認しようと腕を持ち上げるが、その手をアルヴィンに掴まれ引き寄せられる。 ぽすん、と温かな胸に飛び込んでしまえば、誘われるようにひとつふたつと雫が頬を伝う。 張り詰めていたものが涙に溶けていくようだ。 置き去りにされた心だけがぼんやり戸惑っていて、何度もまばたきをくり返していると、そっと指先が輪郭を滑る。 やんわりと促されて見上げれば、先ほど見た怖い視線は何処にもなくて、ただひたすらに愛しげな眼差しがあるばかり。 音なく零れる涙を辿るように、アルヴィンの唇がゆっくりと目じりをなぞって拭い去る。 労わりに満ちた彼の行動は、荒れ果てた僕の心を鎮めて、まどろみのような穏やかさを連れてくる。 この場所がどんなところで、どういった状況なのかもわかっているはずなのに、何故かこの腕から抜け出したいとは思わなかった。 むしろ、与えられる優しさにもっと溺れていたいと願う気持ちさえちらついて、僕は自分を疑い驚愕した。 よりにもよってこの状況で、僕はアルヴィンの優しさを求めてしまった。 一瞬とはいえ、『もっと』と望んだ事実。 まずい。 それを受け入れてしまえば、もう逃げられない。 それでいいのかと、臆病な『僕』が、結果を受け入れそうになる『僕』を引き止める。 自然と落ちてきた結果に違和感はない。 だが、それが正解かと問われれば、そうだとは言い切れない。 突如身に降りかかる焦がれる気持ちとくすぶる怯えの狭間に、ただ揺れる。 そんな僕の微妙な変化に気づかないアルヴィンは、涙の絶えた瞳を覗き込んで優しく笑いかけてきた。 その笑顔に、息が詰まりそうだ。 ぎゅっと胸を掻いて、逃げ続け見ないようにしてきた感情を押し込める。 アルヴィンがこうして慰めてくれることに慣れてしまった、僕の錯覚かもしれない。 そうだ、錯覚なら間違いだ。 早まるな。 間違うな。 今はまだ答えを出す時じゃない。 必死にそう言い聞かせて押し殺していれば、落ち着きを取り戻したと判断したアルヴィンが穏やかに口を開いた。 「……ま、気持ちはわかるけどな。おたくがミラ様のことになると熱くなるのは、今に始まったことじゃねーし」 「そんなこと……」 ない、と言いかけた唇を、阻止するように人差し指が触れる。 次いで、しぃっと沈黙の合図を促されれば、押し黙るしかできない。 「別に責めてるわけじゃない。ちょっと拗ねてみただけだ」 「拗ねる?」 「俺の計画は破綻するし、愛しの優等生は頼ってくれないし、そりゃ拗ねるぜ」 「……アルヴィン」 茶化すような言い分に胡乱な視線を投げれば、何故か優しく微笑まれてまた戸惑う。 そんなに簡単に好意を混ぜて与えないで。 心を大きく揺さぶられている今、僕にとって彼の口説き文句は毒以外の何物でもない。 ただでさえ、ミラとガイアスのことで感情が制御できなくなってるのに、これ以上乱されたら自分がどう行動するかわからない。 自分が怖いなんて言えば、彼は笑うだろうか。 くだらない疑問が頭の端をよぎったが、小さく頭を振って平静を装う。 「ねぇ、計画って何のこと?」 「……言わなきゃダメ?」 「教えてくれないの?」 「……言うと格好悪くなるから言いたくないんだけど」 「元からそんなに格好よくないから大丈夫」 「ジュード君、傷口に塩塗るの止めてくれない?」 皮肉った会話にアルヴィンが情けなく笑った。 曇った笑顔に申し訳なく思ったが、こうして突き放さなければきっと僕は早とちりしてしまう。 ごめんね、とも謝ることもできず俯いていると、ぽそぽそと歯切れの悪い口調でアルヴィンは言う。 「俺はただ……おたくが毎日頑張って研究している間に、対人関係を少し改善してやろうとだな……」 「え?どうやって?」 「まぁそれは後日わかるさ。どうせ俺が迎えに出されるだろうし」 人使い荒いぜ、と肩を落とすアルヴィンに、僕は意図がつかめず小首を傾げる。 詳細らしい詳細は聴けなかったが、彼が後日わかるというのであれば、僕はその日まで待っていればいいのだろう。 「でもそれを水面下でやってこそ、できる男!って感じするじゃねーか。なのにおたく孤軍奮闘してるし、どう見ても修羅場だったし……」 「見守っててくれてもよかったのに」 事もなげにそう返せば、これ見よがしの大きなため息をつかれた。 恨めしげな視線の意味がわからない。 「あんね、好きな奴が一生懸命戦ってんだよ?援護して守ってやりたくなるのが男ってもんでしょーが。頼むから俺に愛されてるって自覚してくれよ」 ずいっと顔を寄せられて、僕は反射的に逃げようとしたが、先にアルヴィンの腕がそれを阻止する。 有無を言わさぬ強さで抱き寄せられれば、背中を反ったとしても離れる距離は僅かだ。 近すぎる熱の篭った瞳に、鎮まっていた困惑が再び騒ぎ出す。 「い……一応、してる……つもり」 「足りない。ぜーんぜん足りない。やっぱ思い知らせる必要ありそうだよなー」 「な、ないない!しっかりわかってるから大丈夫!」 「遠慮しなくていいんだぜ?」 「してないよ!アルヴィン、お願い、やめてっ……!」 ぎゅっと目を瞑って必死に懇願すれば、見つめてくる視線に寂しさの影が差す。 しまった、と思った時にはもう遅く、名残惜しげに手放されて、切なさに痛いほど胸を締め付けられた。 「…………悪ぃ。ふざけがすぎたな」 「っ、違……ごめん、そうじゃないんだ!えっと、何て言えばいいのかな……」 「……ジュード」 「あ、あの、ね……怖いんだ」 「俺が?」 「僕が」 少し離れた距離を埋めるように、アルヴィンのコートを小さく握り締める。 僅かに驚きを見せたアルヴィンは、言葉に詰まって黙り込んだ僕を見下ろして数秒黙った後、恐る恐る窺うように口を開いた。 「……それって、『間違いたくない』ってアレ?」 「…………たぶん」 「酷いこと言っていい?」 「なに?」 「間違ってもいいし、勘違いしてもいい……そう言ったら怒る?」 「怒らない。けど、ダメ」 「だよな。忘れてくれ」 「忘れてあげない」 僕がきっぱりとそう言い切れば、落ち込みかかった表情が驚愕に塗り変わる。 ようやく見つめ返せた瞳は、相変わらず温かさを宿していて、僕は呼吸を忘れそうになる。 どうして僕は今まで平然としていられたのだろう。 こんなにも想われていて、どうして普段どおり振舞えていたんだろう。 乱される要素など、挙げればきりがないというのに。 「アルヴィンは、優しすぎるよ」 「お前にだけ、な」 「またそうやって……お願いだから慣れさせないで」 「無理だな。むしろ、そのまま俺なしじゃ生きられなくなればいいのに、なんて思ってるんだぜ?」 「怖いこと言わないで……このままじゃ、ホントに一人で立ってられなくなりそうで困るよ」 「そうなりゃ俺の作戦勝ちだな」 ――――早く慣れちまえよ 呪いにも似た甘く過激な愛の囁き。 僕はもう彼に毒されていて、あとは染まるのを待つばかりなのだろう。 『アルヴィンがいない』 そう、日常の些細な場面で再確認するたびに、僕はじわじわと侵されていくのだ。 優しく真綿で絞め殺すような愛し方は、確実に心を縫いとめる。 きっと、僕は気づくのが遅すぎたのだ。 何もかも手遅れだと自覚したから、怖かった。 くすぶるそれが『慣れ』として身体に馴染めば、自然と答えは形を成す。 あとはただ、なるようにしかならない。 あぁ、なんて 「ひどい」 「それは焦らされまくってる俺のセリフ」 とんだ小悪魔だ、と詰る唇が与えるのは、この上ない優しいくちづけ。 時を忘れるような甘ったるいキスの雨に溺れそうになる。 心に逃れえぬ楔を打ち込むなら、そちらの方がよほど悪魔だと思ったが、ささやかな反論は音にならなかった。
* * * * 2012/01/10 (Tue) 落ちたというより落下中。 いちゃいちゃしやがってこのやろう! *新月鏡* |