「You are so sweet -agony-」
引っ越してきてまだ1年も経っていないが、やはり家の方が落ち着けるものらしい。 拭いきれない不透明な感情を抱えたまま、それでもこうして作業がはかどるのは、ここが自分の世界だからかもしれない。 誰にも害されることのない、ひたすらに優しい空間。 研究棟は仕事に必要なものが溢れている代わりに、仕事に必要ない『個人』は抹殺される。 あそこに必要なのは知識とひらめき、技術、話術。 それのみでいいはずなのに、あの場所はやたら地位と権力が脅威を振るう。 本来なら自分から一番遠いもののはずだったのだが、何をどう間違ったのか自分の後ろ盾は最強にして最大の権力者だ。 ミラとガイアス。 どちらもこの世界の根幹を揺るがすほど偉大な人。 それはとても誇らしくて、その背中を憧れて追いかけている自分も自覚してる。 だけど、そこに権力争いなどの闘争があるのであれば、極力回避したいと常に思ってもいるのだ。 もとより争いなど好きではない。 静かに心行くまで本を読み、知りたいことを知り、学べるものを学びたかっただけ。 そして、旅を経て源霊匣と出会い、自分のやりたいことを見つけた。 それだけだったのに、何故か現実は思うようにいかない。 何をするにも窮屈で、旅をしていた頃の方が不便なことが数多くあれどずいぶん自由だったような気さえする。 研究自体に不満はないのだ。 ただ、少しだけ……。 「うわー疲れたー!」 「あ……」 がちゃん、と大きな音を立てて玄関の扉が閉まると、とたん慌しい足音がリビングへ真っ直ぐ向かってくる。 書き込んでいたノートへ落としていた視線を上げれば、そこには少しくたびれたコートを羽織った長身があった。 そういえば、今日は帰って来るんだった。 「おかえり、アルヴィン」 「ん、ただいまジュード」 立って出迎えれば、そのまま引き寄せられて抱きしめられる。 もう帰宅した時の習慣みたいなもので、アルヴィンはこうすることで「帰ってこれた」と安心するらしい。 応えるように軽く背中を叩いて甘受していると、たっぷり数十秒かけて満足したアルヴィンがようやく解放してくれた。 ほっこりしたような安堵に満ちた笑顔を見れば、自然とこちらも微笑んでしまって、先ほどのもやもやとした気配が遠のく。 「ご飯は食べたの?」 「あぁ、向こうで軽食は喰った」 「じゃぁ後で僕と夜食だね」 「今日は何?」 「つまみやすくサンドウィッチかな」 「んじゃフルーツサンドとかやってくれよ。甘いの食べたい」 「生クリーム買ってないから、また今度」 「えー」 「ないものは無理だからね。それより先にシャワー浴びておいでよ」 もう一度「えー」と唇を尖らせる背中を押しやって、お風呂場へ追いたてる。 どうやらアルヴィンとしては僕と団欒したいらしい。 だけど、先にシャワー浴びた方が疲れも取れるし、気持ちがいいんじゃないかと僕は思う。 洗濯物も一回で済むし。 というわけで、アルヴィンを問答無用で風呂場へ押し込むと、僕はリビングのテーブルに広げていたものを片付けにかかった。 ノートにまとめられるものは全てまとめ終わったし、あとは列挙した問題点へのアプローチをどうするかを考えるだけだ。 候補もすでにあって、明日の実験には差し支えない。 今日はもう終わりにしていいだろう。 別にアルヴィンが帰宅したから気を遣って、というわけではない。 彼は、僕がやらなければならないものを抱えているとき、決してその邪魔をしてこない。 むしろ、集中しすぎて休憩すら疎かになる僕のために、それはもう細々と尽くしてくれさえする。 鐘二つ分の時間が経てば必ず机から引き離され、軽食の用意も万全。 そして15分ほど休憩させた後、また何も言わずに僕を机に戻すのだ。 加えて、アルヴィンがいるとき、空いたカップに気づかずに空飲みすることがなくなった。 それが一番、彼の存在の大きさに気づかされる瞬間だった。 空飲みするたびに、あぁそういえばアルヴィンはいないんだ、と何度も思う。 慣れとは恐ろしいもので、カップが満たされ続けるときは、とても充足した時間のように感じるのだ。 あまりにも贅沢なその時間。 この空間とこの時間を知ってしまったからこそ、研究棟での全てを窮屈に感じてしまうのかもしれない。 アルヴィンがいることで、僕の時間は満たされすぎている。 彼が心から望むものは、何一つ返せていないというのに。 「酷い奴だね、僕って」 与えられる全てを受け取って、欲しがられる一切を与えない。 なんて歪で不成立な駆け引きだろう。 だが、よく考えれば考えるほど、僕はアルヴィンの求める感情で、彼に応えて返せるのかわからなくなる。 間違いたくない。 どちらにも不幸な結末しか導かない間違いなどしたくない。 ならいっそこのまま、何事もないように過ごせばいいと甘い考えすら出たが、それは彼に対する裏切り以外の何ものでもない。 アルヴィンが僕を信じて待ってくれているなら、僕はそれに応えなければならない。 それは彼が僕に寄せる信頼への義務であり、彼の気持ちへの誠意だ。 答えは、出さなければならない。 そう思えば思うほど、嫌な焦りがこの身を駆ける。 人は、どうやって『ただ一人』を決めるのだろう。 きっと、僕がミラへ傾倒しすぎてしまったせいで、こんなにも悩んでしまうのだ。 彼女への敬愛があまりにも鮮烈で、その他を疎かにしすぎていたんだ。 「ミラ……」 無意識に縋るようにペンダントへ指先が伸びる。 僕の在り方と、なすべきことと、アルヴィンへの答え。 たった3つの課題を前に、僕はこんなにも弱ってしまうんだ。 ミラならどうしただろう。 迷わないと、自分らしく生きると決めたのに、僕はまだ迷子のまま彷徨っている。 僕の気持ちが僕自身だと教えてもらったけど、上手く言葉にならない気持ちはどうやって掴み取ればいいだろう。 そうやって悶々と考え込んでいると、微かに扉の開く音がして、はっと我に返る。 「え?」 「どうした?」 「早くない?」 「そうでもないぜ?ほら」 すいっとアルヴィンが壁にかかっている時計を指差して示す。 つられて見れば、確かに20分ほど経っていて驚いた。 「あれ?」 じゃぁなんで僕は乱雑とした資料に囲まれたまま、いまだにノートを持ってるんだろうか。 アルヴィンが風呂場へ入ってからすぐ片しにかかったというのに。 「まさかずっと……」 アルヴィンのことで悩み考え込んでいたというのか、あの長すぎる20分間を。 あまりのことに言葉を失い、代わりにじわじわと熱がくすぶる。 は、恥ずかしすぎる! 「おーい、ジュードくーん?」 「ありえない……!」 「え、なに、いきなりどうした!?大丈夫か!?」 とっさにノートで顔を隠して俯けば、いたたまれなさに逃げ出したくなった。 ありえない。 ありえない。 時間も忘れて思い耽るなんて。 恋物語に出てくる悩める主人公みたいなことになるなんて。 僕は、確かにアルヴィンのこと好きだけど、恋とか愛とかそんなものじゃないからこんなに悩んでいるはずで。 なのに、時間を忘れる? ありえない。 呆然と意識が飛びつつも必死に赤らむ顔を隠そうとするのだが、アルヴィンはこちらの気持ちを知らないせいで、やたら心配げな顔で覗き込んでくるから余計に困る。 「見ないで」と零しても、「体調悪いのか?」なんて重ねられて、離れてくれそうにもない。 仕舞いには最後の砦たるノートまで引き剥がされそうになったので、 「おい、ジュー」 「うわぁぁぁ見ないでって言ってるでしょぉぉぉ!」 ばしん、と思いっきりノートがアルヴィンの顔面に炸裂した。 素敵にクリーンヒットしたノートが勢い余って宙に飛んだのが、やけに印象的だった。
* * * * 2011/12/21 (Wed) 仕事に恋に悩めるジュード君。 アルヴィンが可哀想なのは、仕様です。 格好いいアルヴィンはもうちょっと先の話。 *新月鏡* |