「Distance -3-」
さやさやと歌う木々の声。 葉擦れの細波。 目蓋の上で揺れる木漏れ日の水面。 光と影を行き交って、眠りへ再び沈みそうになる意識を呼び起こす。 薄目を開けて、数回の瞬きで眠りから覚めれば、そこは眠る前と変わらぬ穏やかな村の風景が広がっていた。 ここが分史世界だといくら聞いていても、目に映るものはどれもこれも現実の実感を伴って俺に伝えるから、いまいちピンと来ない。 ぼんやりした頭のままで穏やかな風景を眺めた後、腕に寄りかかるぬくもりに視線を移す。 未だ眠りの中にいるエルの寝息は穏やかで、ぽかぽかと伝わる子供の体温が心地いい。 自然と口元が弛んで微笑む。 だが、エルを挟んだ向こう側、ひとつ変わってしまった景色に、俺は冷水を浴びたように固まった。 いるはずの人がいない。 丸くなって眠る愛猫のルル以外に誰もいない。 吹き抜ける風を阻むものなど何もなく、草木が歌い、その声が通り過ぎていくだけ。 「……兄さん」 受け入れきれない現実に、思わず口を突いた。 もちろん、無意識の呼び声に応えるものはいない。 嘘だ。 性質の悪い冗談だ。 目を閉じる前にいたはずの人の消失に動揺して、俺は慌てて身を起こし、エルを木の幹に預けて駆け出した。 むずがるエルの声がしたが、気にしてなどいられない。 何処にいるか検討すらつかない人物を探すのだ。 ほかの事に気を回していたら絶対に見つからない。 とにかく村中をくまなく探すしかない。 ぐっと奥歯を噛み締めつつ、取り出したGHSが打刻し続ける数字を見やる。 確認する限り、そんなに時間は経ってない。 今なら探しにいける。 引き止めにいける。 「どこ行ったんだよ……!」 小さく苛立つ呟きを吐き捨て、村人を避けながら必死に視界に兄の姿を求める。 眠りから覚めたばかりの身体は覚束なく、そう距離を走らないうちに、上がりきらない足が小石を引っかけてつんのめる。 転倒はしなかったが、思わぬ障害に気が動転して、頭の中が一気にパニック状態に陥った。 どうして俺を置いていなくなる。 体勢を立て直して走り出しても、そればかりが頭の中で繰り返される。 眠る前、兄は確かに言ったはずだ。 今は眠れ、と。 後で聞こう、と。 いなくならないでくれと願う俺に確約こそくれなかったが、『後で』の時間があるのだと言ってくれたのではなかったのか。 ねだらず、その言葉を信じて無理やり自分を納得させたのに、どうして兄は俺から離れていこうとする。 テロリストだエージェントだ分史世界だと、わけのわからない出来事の末、ようやく再会したというのに、どうして「後は任せろ」だなんて言葉で俺を突き放す。 どうしてそんなに俺を遠ざける。 何故、「関わる必要はない」の一点張りで真意を話してくれない。 そんなに俺が邪魔なのか。 そんなに、俺が、煩わしいのか。 悲哀と不甲斐なさとやりきれない無力さに、もう心の中はぐちゃぐちゃだ。 兄に、自分がただの邪魔な存在であると思われているのか思えば、心臓を鷲掴みにされたような痛みに苛まれる。 変わらない優しい兄の姿を見ただけに、その落差は酷く心を揺さぶった。 痛いと泣く本心を忘れ去ろうと、振り切るように速度を上げて探し回る。 しかし、昔の記憶すら引きずり出されれば、理性を上回る不安にどくどくと心音が速まって。 「ど、こ……」 荒い呼吸に混じるか細い声。 迷子が不安に零す小さな呼び声。 無茶をして駆け続けた結果、息も絶え絶えになってしまえば、足もぴたりと止まってしまって。 陽気な日差しとは裏腹に、どんどん曇っていく胸の内側。 頭を撫でる手を思い出せば、遠ざけようとする手を信じたくなくて。 穏やかな歌声を思い出せば、険しい声で放たれる拒絶が深く刺さる。 じくじくと痛む胸を必死で宥めながら、俺はふと、兄は自分の話を聞いてくれるだろうか、と思った。 ここに至るまでの全て、この胸に渦巻く想いを、兄は最後まで聞いてくれるのだろうか、と。 見失った姿に、今度はその不安が去来する。 自分の身の上を考えるなら、エージェントとして働く以外に選べるものはなかった。 いや、借金もエルも分史世界や骸殻能力、その全てを知ったことかと捨てて逃げてしまうこともできるが、俺にはそんなもの選べるはずがない。 それを、兄は理解してくれるだろうか。 八方塞の状態で引きずられるように選んできたそれが、兄と俺を急速に引き離すため、どうにもすんなり伝わらないような気がして身震いする。 どれだけ心配しても届かない。 怒っても、叫んでも、兄の真意がわからない。 それは、離れすぎた距離がそうさせているのではないか。 もしそうだとしたら、兄の真意を読み取れない俺と同じように、言葉尽くしてなお歪むズレが俺が叫ぶ本音に起こってもおかしくない。 いっそ泣いて喚いて想うこと全て吐き出して、自分本位な願いを口にすれば、少しはまともに伝わるだろうか。 そんな甘ったれたことすら考え始めたとき、ふと話し声が耳に届いた。 声に釣られて視線を振る。 見開く瞳に、見慣れた白く広い背中が映り込む。 「兄さん!」 腹の底から叫ぶ。 走り出す。 治まりきらない呼吸は喉の痛みを訴えるが、そんなものは無視だ。 伸ばした右手で振り向いた兄の左腕を掴んだ瞬間、兄の顔が一瞬しかめられた。 だが、それも無視する。 垣間見た兄の表情に、胸に針を刺すような痛みを感じたが、それも含めて全て見なかったことにする。 それどころじゃない。 忘れ去れる痛みなど、些細なものだ。 それより言わなければならないことがある。 それより伝えなければならないことがある。 だが、荒げた呼吸を懸命に整えようとしても、貼りつく喉が嚥下しようとした唾液を拒んで咳き込んだ。 咽て声にならない。 忙しない咳とぜぇぜぇと治まらない呼吸に背を曲げていると、その背に温かな手が触れる。 擦り込むように上から下へと撫でさする手。 反射的に顔を上げると、兄の真剣な顔が驚くほど至近距離にあって、再び呼吸が乱れる。 「落ち着け、ルドガー。ゆっくり息をしろ。吸って、吐いて、そう、ゆっくりでいい」 指示する兄に合わせて、苦痛からの解放を願う身体は従順に動く。 呼吸に集中しすぎるあまり、身体の重心コントロールが覚束なくなってくると、背中を撫で擦っていた手が俺の腕に触れ、僅かに下方へ力を込めてきた。 座れと言外に促されて、少しばかり兄に身体を預けてしゃがみこむ。 引き離されず、そのままやんわり抱き込むように再び背中を撫でられて、少しだけ肩の力が抜けた。 「何があった?」 幾分俺の呼吸が落ち着いてくると、兄は突き刺すような鋭い声音でそう言った。 だが、その問いにすぐさま答えて返せるほど呼吸はまだ落ち着きを取り戻しておらず、声を発するには不十分だった。 代わりに、触れたままの左袖をぎゅっと握り締める。 その動作に、兄は瞬きをひとつした後、あぁ、そうか、と零した。 それと同時に、ぴんと張り詰めていた硬い声に柔らかさが戻る。 「悪かった。お前が起きるまでには戻るつもりだったんだがな」 戻る意思はあった、という兄の言葉に、早とちりした自分を少しだけ恥じた。 兄を信じていないわけではない。 むしろ、信じているからこそ、それを揺るがす事象はよっぽどの事態で、普段感じない動揺と不安と猜疑心が一斉に大騒ぎするのだ。 加えて、俺はじっと待っていられる性質ではない。 小さな頃から、兄の帰りを大人しく家で待つ、なんてできなかった。 街をぐるりと見渡せる公園から、ゴマ粒大の行き交う人々の中に兄が現れるのをいつも探し回っていた。 遠くで兄らしき人を見つければ視線で追い、ビル陰に隠れてしまった後はブランコに乗って今か今かと心を躍らせる。 なんでもない風を装いながらブランコを漕いで、兄が声をかけてくれるのを待ち続けて。 でも、それすらも結局待ちきれなくなってしまう。 少し坂になったマンションへの通り道をじっと見つめて、焦れて、漕ぐことを忘れたブランコが止まってしまえば、この足は十字路へ向かって駆け出していて。 坂を上りきる前に現れた俺に、驚く兄の顔がおかしくて、嬉しくて、大好きで。 そういう日常があったのだから、どうにも待ってなどいられない。 俺の元へ帰ってくる確証も確約も何ひとつないなら、むしろ自分が兄の傍へ近寄った方がずいぶん安心できるような気さえする。 たとえ、兄からいらないと、邪魔だと、言われても、離れすぎた距離と憶測飛び交う不安に苛まれるくらいなら、いっそ隣で罵られた方がずいぶん楽だ。 徐々に落ち着いてくる呼吸に合わせて、冷静な思考がやや悲観的に開き直りを見せた頃、俺の様子を見守っていた兄が口を開いた。 「しかし、お前も馬鹿だな。そんなに慌てることもないだろうに」 苦笑交じりにそう言われて、俺は小さく頭を振り、握り締めた左腕の袖をそのまま少し引き寄せる。 なんてことを言い出すんだ、と思った。 兄には些細なことかもしれないが、俺には慌てふためく程のことだったのだ。 そうでなければ、こんなになるまで探し回ったりしない。 そうでなければ、俺の懸念を歯牙にもかけない兄の言葉に、こんなに傷ついたりしない。 目を離せばすぐにいなくなってしまう人を心配することの、何が些細なことか。 馬鹿にするのもいい加減にしてくれ。 ぐっと唇を引き締めて溢れそうになる叫びを押さえ込むと、背中を撫でていた手が離れて今度は頬に触れる。 「そんな顔するな。俺はどこにも行きはしない」 慰めるように。 宥めるように。 兄は声と仕草で俺の不安を払拭しにかかる。 いつもそうだ。 どうしてこういうことばかり敏いのか。 わかってほしい気持ちは汲み取ってくれないのに、どうして心の一番柔らかい部分ばかり抱きしめてくれるのか。 一番ほしかった言葉に、ダメだとわかっていながら、泣き縋ってしまいたい気分になる。 ずっとその一言を聞きたかった。 その一言さえあれば、俺はこの先兄に何があろうとも、決して不安を感じはしないだろう。 迷わず、信じていられる。 その確信を自分に刻むために、俺は「本当に?」と強請るように念を押した。 だが、それがまずかった。 すんなりと頷いた兄の口から発せられた言葉は、俺の期待を打ち砕くものでしかなかった。 「あぁ。この世界にいる間はお前たちと一緒に行動するつもりだ。というより、俺が離れることは許されてないらしいからな」 背後へそっと目配せする兄の視線の先、木の幹の向こう側に濃紺のジャケットの端が見える。 瞬間、穏やかだった空気が少しだけ緊張を帯びる。 兄が俺たちの元に留まり続けるのは何らかしらの目的があるからだと考えていたが、それは全く見当外れだったらしい。 おそらく、姿を現さない彼が兄をこの場に引き止める要因だったのだ。 それも、俺を思っての配慮などではない。 俺の甘すぎる認識を遥かに上回る意思と敵意、もっと現実味を帯びた危機感で、兄が行方をくらますことを徹底的に阻止している。 肌を僅かに刺激する緊張感がそれを示している。 忘れていた。 ここは、生きて帰れるかどうかわからない別世界なのだと。 俺の望む穏やかな日常がある世界ではないのだと。 だからこそ、兄も言ったのだ。 「この世界にいる間は」と。 ほしかった確約を手に入れたつもりだった。 ようやく帰りたかった場所へ帰って来たのだと思っていた。 なのに、どうして。 「兄さん」 どうして、こんなにも悲しい。 兄のくれた言葉は本当だと思うし、触れる指先が俺を心配してくれているのも何となくわかる。 わかっている。 なのに、決定的で圧倒的な距離が俺と兄を隔てている。 こんなにも傍にいるのに、絶対的に届かない。 どうすれば、兄の見ている景色を同じように見ることができるのだろう。 同じ景色を見ることができたら、少しは兄を理解できるだろうか。 そう思い至れば、俺は自分の立ち位置をもう一度よく考えようと思った。 思いがけず引きずり込まれたエージェントとしての立場。 兄がかつていた場所に、今、自分がいる意味。 この場所でなら、開き続ける距離を越えて、少しは近づけるのかもしれない。 感傷と思考に溺れて唐突に沈黙してしまった俺を、兄が小首をかしげて呼ぶ。 その胸に、俺はそっと頭を押し付けた。 似た立ち位置を得たからといって、兄の全てを理解できるとは思わない。 だけど、やはり俺は待ってなどいられない。 ジュードが示してくれたように、兄が全てを語るまで可能な限り傍にいるということも、選択としてはありだろう。 だけど、それだけではダメなのだ。 俺がそれに耐えられない。 待っていられない。 「ホント……俺って、昔から変わってないな」 「何だいきなり?」 「なんでもない。言ってみただけだ」 ぐいぐいと頭を押しつけてふざけてみて、口に出かかった本音をからかいで誤魔化す。 優しく髪を撫でて受け止めてくれる兄に、俺は自分を制するだけで手一杯だった。 いっそ、その胸に飛び込んでしまいたかった。
* * * * 2013/02/20 (Wed) 小さな頃ならできたこと。 自分の気持ち、「どうして」の問いかけ、感情に唆された純粋な行動。 その全てが、大人になればなるほど難しくなる。 そんなくだらないことに、振り回されるようになったのは、いつから? *新月鏡* |