「Distance -2-」

 

 

 

いつから、兄との距離を縮めることを意識するようになったのだろう。
最初はただの気遣いから。
兄の邪魔にならない距離を探して、そして近寄っていいのかどうかを様子見して。
次第に開く距離に、違和感はなかった。
独りぼっちで離れるわけではなかったし、それが兄弟間の距離なのだと思っていた。
そうして一定の距離感を保持し続けると、今度は踏み出すことが気恥ずかしくなった。
幼い頃なら、すぐに飛び込んでいけたのに、いつの間にか手招かれるまで動けなくなった。
でも、それでも構わなかった。
相変わらず手の届く範囲に兄はいて、手を伸ばせばすぐに気づいて引き寄せてくれる。
それだけで十分で、何の不安もなかった。
こんなことにならなければ、この距離だって意識することなどなかったのだ。
そう、ほんの少しの距離を詰めることすら困難なほど、追い詰められることもなかったに違いない。

「ルドガー、変な顔してどうしたの?」

きょとん、と見上げてくるエルの大きな瞳が、数メートル離れて立ち尽くす俺を見つめる。
だが、かちこちに固まった俺の身体はすぐに応えてやれなかった。
酷く緊張して、喉から言葉にならないうめき声が漏れるばかり。
そんな俺の様子に可愛らしく小首を傾げたエルは、数秒腕組をして考え込んだ後、隣に座る兄の裾をそっと引っ張った。
ひそひそと「エル、何か悪いことしたかな?」なんて駄々漏れの内緒話まで始めてしまって、柔らかく苦笑する兄の表情に、ぐっと喉が詰まる。
子供の真っ直ぐな眼差しと行動は、正直今の俺にはとても羨ましい。
しかし、俺にはとっておきの秘策があるのを思い出し、小さな羨望を追い払う。
お人好しな仲間からもらった建前を口の中で復唱し、異を決して面を上げた瞬間、

「ルドガー」

タイミングを見計らったかのように兄が俺を呼んだ。
いつもの優しい声に誘われて見やれば、眉を少し下げた青の双眸がこちらを見つめていて。
剣呑とした空気はひとつも見当たらず、ただ穏やかな気配が俺を包む。

「おいで」

空気に溶けるような柔らかい声音。
兄の眼差しに囚われたまま、俺はゆっくりと歩を進めた。
ふらふらと優しい瞳に誘われて木陰に入り、膝を折ろうと兄の前に立った瞬間、ぱちりと魔法が解けるように夢から覚める。
招かれて来たはいいが、俺は一体どこにどう座る気だったのか。
中途半端に膝を曲げたまま数秒固まった後、そろりと視線を振って、エルを挟む形なる場所へ移動する。
膝を抱きしめるようにすとんと座り込めば、その奇怪な行動に、エルが不思議そうな顔で見つめてくる。
確かに意味不明な行動に見えたことだろう。
しかし、ここは触れてくれるな、とエルの視線から逃げるように俺は顔を背けた。
自宅では、ソファに座っている兄に呼ばれた時、だいたいその隣ではなく前に座り込むことが多いのだ。
こんなところで身体に馴染みすぎた癖がうっかり出そうになるとは。
日ごろの習慣とは恐ろしい。
そんなことを悶々と考えていると、不意に兄の気配が動いた。
そろりと腰を上げかける動作に、思わず目を瞠る。

なんで

どうして

一瞬で冷める身体が凍りつく。
だが、俺が何か口を開く前に、愛らしい声が追い縋る。

「メガネのおじさん、どっか行っちゃうの?」

ぽつりと、零された問いかけに、兄の動きが錆びた機械のようにぎしりと止まる。
純粋な子供の悪意なき問いかけは、俺と兄さんの間にある微妙な空気などものともしないらしい。
俺を呼んでおきながら去ろうとするのは何故か、と言外に翡翠の瞳が物語る。
自分からは決して口にできない言葉をエルが代弁してくれたことで、急激に失われた熱がゆっくりと戻ってきて。
ゆるゆると緊張が解けていく俺とは対照的に、兄の眉はこれでもかと八の字に垂れ下がり、エルのあしらいに相当困っているらしいことが窺える。

「俺は……」
「ナァ〜」
「え?」

幾分落ちたトーンで囁く兄の弁解を聞く前に、愛猫の鳴き声が割って入る。
そのあまりに甘えた猫なで声に釣られて見れば、俺の後を追ってきたのだろうルルが兄の足元にいた。
とことこと近づいてきたかと思うと、伸ばされた兄の片足を枕にごろりと横に寝そべって、ぐるぐると喉を鳴らす。
構え、と言わんばかりに尻尾がくねり、再び甘えた声で鳴いた。

「お、おい、ルル……」

頭部だけとはいえ、結構な重量を誇るルルに枕にされてしまえば、そう容易く動けるはずもない。
特にルルを溺愛しすぎる兄としては、甘えた行動は嬉しくもあり、これを無碍に払いのけるなどできないだろう。
そんな俺の予測は正しく働き、兄は小さく唸り声を上げつつも、数秒の葛藤の末、結局僅かに上げた腰を同じ場所に下ろした。

「ルル、おじさんに構ってほしいって!」
「……ぶふっ」
「ルドガー」
「ふ、ごめん、おかしくて……ははっ」

兄の咎める声すらおかしくて、さらに笑い声が転がり続ける。
兄弟である俺や子供の純粋さですら引き止められなかった兄を、ルルがおねだりひとつで引き止めてしまったのだから、こんなにおかしなことはあるまい。
笑いのツボに嵌ってしまった俺は、治まらない笑い声を押さえ込むのに必死になるが、どうにもうまくいかない。
だけど、


――――あぁ、なんだろう、久しぶりに気持ちがいい


ギスギスした緊張感なんて嘘みたいに吹っ飛んで、清々しいほど心地よさに満たされる。
風通しのいい雰囲気。
その感覚がずいぶん懐かしく感じられて、少しだけ寂しい気持ちも掠めたが、今はこれで十分だった。
やっと帰りたかった居場所に戻ってきたような気がして、目頭が熱を帯びるような感覚と共に、胸のうちが温かく灯る。
仕方ないと諦めた兄が、隠しきれない嬉々とした表情でルルを構い始めれば、さらに笑みが深くなって。
あぁ、変わらない。
やっぱり兄さんは、何も変わってない。
奇妙なことが怒涛の嵐のように押し寄せて、俺の日常をぶち壊しても、変わらないものだってあるのだ。
わからないことは山積みで、納得いかないことは絶えなくて、先の見えない未来に不安にもなるけど、俺の帰る場所はここなのだろう。
穏やかな雰囲気に包まれた、くすぐったくなるような優しい時間。
それを感じさせてくれる人の隣が、俺の帰る場所。
兄とエルが二人がかりでルルを撫で回して構っている姿を眺めながら、俺はじんわりとこみ上げる安心感にただ笑っていて。
あまりにも優しい光景に、眩しいものを見つめるような切なさが溢れて、そっと目を伏せる。
ただ、この時間がずっと続けばいいと、強く思った。

 

 

 

それからたっぷり十数分経った頃。
はしゃぐ声もそこそこ治まったかと思ったら、不意に左腕に温かな重みが預けられる。

「エル?」
「んー……」

兄の足越しに二人してルルを構っていたはずなのだが、見ればとろとろと目蓋が落ちかかっている。
どうやらお腹いっぱい飲んだスープに加えて、はしゃぎすぎて疲れたらしい。
分史世界へ飛んできてからの絶え間ない出来事も思い出せば、今までずいぶん気を張って頑張っていたのだろう。

「眠いなら、寝ても構わないぞ」
「……ねむくない……」
「まだ時間はあるだろうし、今のうちに寝てろよ」
「むぅ……ねむくないって、いって、る、のに……」
「はいはい、おやすみ」

そっと腕を回して抱き寄せ、小さな背を宥めるように叩けば、こくりこくりと舟をこぎ始める。
エルはこれにとても弱い。
リズムを崩さずあやしていれば、押し寄せる睡魔に抗うことなく、エルは眠りへと落ちていった。
少し慣れてしまった扱いに小さく苦笑する。
慣れてしまうほどの時間が経ち、それが自然になるほど、エルと出会う前の日常が遠のいているのか。
そう思えば、冷たいものが腹の底を撫でる。
微笑ましい寝顔を見つめながら、それでも拭い去れないやりきれなさに表情が曇った。
落ちかかる心情を持て余していれば、合わせて視界が下がっていって。
俯き切ってしまった視界の端を影が掠めた途端、複雑に空回っていた思考がぴたりと止まる。
ためらいなく伸ばされた大きな手。
無骨な兄の指先が、くしゃりと俺の髪をかき混ぜる。
はっとして見上げれば、優しさを滲ませた微笑で兄がこちらを見つめていて。

「お前も少し休め」
「……にい、さん……」
「眠れないなら、目を閉じているだけでもいい」
「でも……」

目を閉じたら、兄さんはどこかに行ってしまわないか?
そんな子供っぽい懸念を口にしかかって、慌てて飲み込む。
小さく頭を振って、視線を落としたまま愚痴を零すように呟く。

「訊きたいこととか、話したいこととか、まだ何も」
「それは後で聞こう。今は、休みなさい」

親のように下される命令に俯いたままそっと盗み見れば、困った顔をした兄がいて、抗う気持ちがしぼんでいく。
さらに、優しく頭を撫でる手のひらは子ども扱いのそれで、いつもならすぐに振り払うのに、どうしてかこの時ばかりはされるがままだった。
自覚するより強く、俺は兄さんが恋しかったのかもしれない。
エルが父親を恋しがるように、俺もまた兄を追い求めていたのだろう。
子ども扱いの羞恥を凌駕するほど素直に受け入れているのだから、こればかりは認めざるを得ない。
たった一人の家族なのだ。
突然独りで放り出されて、不安にならないわけがない。
ぐっと溢れそうになる泣き言を唇を噛んで堪えていると、そんな俺の行動を兄は意固地になっていると取ったのか、とうとう慈愛に満ちた手のひらすら遠のいていって。
失ったぬくもりに、俺は慌ててその手を追って視線を上げる。

ダメだ

やっぱり無理だ

どうか、口約束でもいい。
何かひとつ、安心できる確約がほしい。


切羽詰った悲鳴のような願望に、薄く唇を開きかけたが、それは声にならなかった。
そっと始まる耳慣れた旋律。
吐き出しかけた言葉をかき消すように、ゆったりと流れるメロディー。
兄が好んで歌う歌。
機嫌のいい時や眠る前によく歌ってくれた兄さんの歌。
あぁ、卑怯だ。
歌うことに意識を向けてしまった兄を連れ戻すことなど、俺にはできないのに。
聞き入るしかないその歌に、俺は途方にくれ、逃げるようにゆるゆると目を閉じる。
なんて、ひどい人だ。
子供遊びの口約束すらくれないまま、兄は手馴れたように俺を眠りへと放り込む。
木漏れ日の葉擦れの音に合わせて紡がれる穏やかな歌は、胸のうちに渦巻く感情すら溶かしていって。
心地のいいまどろみに、僅かな悲しい気持ちも攫われてゆけば、甘い旋律に包まれるばかりで。

「ルドガー」

優しく囁く兄の声を最後に、俺の意識は歌に溶けた。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2013/02/11 (Mon)

ユリルドエルって可愛いよね、っていうのを書きたかったんだよ!
それがどうして、ちょっと寂しい感じ!


*新月鏡*