「Distance -1-」

 

 

 

「メガネのおじさんは、ルドガーのお兄さんなんだよね?」
「あぁ、そうだよ」
「じゃぁ、いっつも美味しいスープ飲めるんだね。エルとおんなじ!」
「君と?」
「エルのパパも、すっごく料理が上手なんだよ」
「そうか、それは羨ましいな」
「でっしょー!ルドガーもそこそこだけど、やっぱりパパが一番かなー!」

 

明るく弾ける少女の声と、それをやんわり包むような男の声。
少し離れたところから届いた優しい会話に、俺は引き寄せられるように視線を向けた。
木の根元で片膝を立てて座る兄の隣で、エルがちょこんと座っている。
話に花が咲いているのか、こちらに背を向けた少女の身体がはしゃぐトーンに合わせて揺れる。
分史世界という非日常にありながら、そんな現実を霞ませるような穏やかな一面に、自然と頬が弛んだ。

「交じってこないの?」

ぼんやりと微笑ましい二人を眺めていると、ふいに背後からそんな声が飛んできた。
首を少し傾けて振り向けば、さくりと草を踏み鳴らして靴音が近づく。
隣に並び立ったジュードが見上げて笑いかけてくれるので、つられてこちらも唇が弧を描いた。

「なんだか不思議な感じがするんだ」
「エルとユリウスさんが一緒にいるのが?」
「あぁ。兄さんが時計を奪おうとしてるのは知ってるはずなのに、何の警戒心もなくエルが近寄るのは珍しいなって。俺のときは『エルの時計とった!ドロボー!』って散々喚かれて酷かったのに」

ばしばしと殴りかかられ、耳が痛くなるほど癇癪起こされた記憶に、少々肩が落ちた。
俺が借金を背負う経緯を目撃していることで、すぐにエルは大まかな警戒を解いてくれたが、それがなければ本来距離を縮めるのにもっと時間がかかったはずだ。
特に、骸殻能力が絡んでいたことも加味すれば、俺とエルの関係はものすごく稀なものだ。
お互い骸殻について何も知らなかっただけに、俺は自分自身に手一杯だったし、エルはエルで俺のことを「変になった!」と怖れていた。
それが今の距離感で落ち着いていられるのは、出会ってからずっと、ジュードが俺たちの間を取り持ってくれてフォローしてくれていたからだ。
ジュードのフォローなしに、能力についてうやむやなままエルとの距離を縮めることなどできなかっただろう。
それを考えれば、今の距離感は複雑怪奇に交わる奇跡の賜物である。
しかし、それが兄に関してはどうだ。
ほんの数鐘前まで時計の奪い合いをしていたはずなのに、エルは無防備にも時計を持ったままあっさりとその距離を許している。
もともと兄さんは温和な空気を纏っていてとても近寄りやすい人だけど、こうもエルの対応が違ってくるとちょっとした劣等感が湧き起こってしかたない。
俺ってそんなに信用ならない顔をしているんだろうか。
しょげて下がる一方な俺の肩を、ぽんぽんと宥めるように軽く叩かれる。

「そんなに気落ちしないで」
「うぅ……」

年下のジュードに慰められて、さらに肩が下がってしまう。
自分の情けなさに心がしぼんでしまいそうだ。
そんな俺を見てジュードが苦笑する。

「エルがユリウスさんに近寄るのは、たぶんルドガーがいるからだと思うんだけど」
「……俺?」
「うん」

そろりと見やれば、柔らかな気配でジュードは言う。

「エルは、ルドガーがユリウスさんの傍によくいるから、ユリウスさんを知りたくなったんだと思うよ」

好きな人の傍にいる人って気になるものだしね、と笑いながら、ジュードは木陰で微笑ましい会話を繰り広げている二人を見つめる。
その視線は、どことなく眩しいものを見るような、遠くを眺めるような憧憬を孕んでいた。
何故そんな目をするのか。
その理由を訊ねたかったが、何となく触れてはいけないような気がして、俺はそっと視線を逸らして同じようにエルと兄さんのいる木陰を見つめた。

「そういうものかな」
「そういうものだよ」

じわり愛しむような声音を、さわさわと草音を鳴らしながら風が攫う。
前髪を煽る風に少し目を瞑った後、ちらりとジュードを盗み見れば、相変わらずジュードの視線は兄とはしゃぐエルに向けられていた。
こういう時のジュードは、俺より大人びて見えるから不思議だ。
以前に旅をしてずいぶん変わった、と本人が言っていたが、その経験がジュードをこんなに達観させているのだろうか。

「どうしたの?」
「うぁ!?」

不意にジュードの視線がこっちに向けられてたじろぐ。
どうやらまじまじと見すぎていたようだ。

「いや、えっと……あ、あぁそうだジュード、俺、そんなに兄さんの傍にいるかな?」
「え……?」

慌てふためいてとっさに出た捻りのないごまかしに項垂れたくなった。
だが、

「うん、僕が見てる限りだと、ずっといると思うけど」

と返されたその一言に、カッと身体に熱が駆け上る。
あまりの気恥ずかしさに、この場から消え去りたくなった。
あからさまに兄の隣にべったりいる気はなかったが、気遣いに特化されたジュードがそう答え、エルさえ気づくのだから傍から見れば相当べったりだったのだろう。
気づかぬ自分の行動に、じわじわと羞恥が思考を飲み込む。

「そ、そんなに?」
「たまに距離をとったりしてるけど、ルドガー、だいたいユリウスさんの近くにいるよね」

違った?と小首を傾げつつ的確に追撃してくるジュードの指摘に、俺は本格的に逃げたい気分に陥った。
わなわなと震える指先すら熱を帯びている気がする。
誰か俺を今すぐ埋めてくれ。

「で、でも、今まで行方不明で心配してた人が見つかったんだから、自然なことだよ!」
「自然……?」
「そうだよ、自然だよ!だから、そんなに顔真っ赤にしなくて大丈夫だよ!」
「うぅ、わ、忘れてくれ!」

両手で顔を覆い隠してがばりとしゃがみこむ。
しかし、くすりと笑うジュードの声から察するに、たぶん耳まで赤くなっててバレバレなんだろう。
うぅぅ、恥ずかしすぎる。
ぎゅっと丸まってしまった俺の背中に、ジュードの手がそっと触れる。
宥める指先は優しくて、からかってなどいないとわかるのに、どうにも顔を上げられない。
頑なに沈黙し続けていると、ジュードは声色をやや低くして囁いた。

「ルドガー、本当はもっと色んなことをユリウスさんと話したいんでしょう?」

真剣みを帯びた声に、ぎくりと身体が僅かに強張る。
ジュードは本当によく人を見ている。
だが、

「……俺が訊いて、兄さんが話してくれるとも思えないけどな」

膝に顔を埋めたまま、自分で言った言葉に胸が痛んだ。
話したい。
真実が知りたい。
兄さんの本心が知りたい。
兄が行方をくらましてからずっと、何度考えても思うことは同じだった。
だけど、いざ本人を目の前にすれば、何から訊けばいいかわからない。
加えて、先の時計絡みのいさかいで、どんな顔で接すればいいのかもわからなくなってきているのだ。
兄が、何か恐ろしいことに関わっているのは間違いない。
骸殻能力だ、分史世界だ、道標だと、わけのわからない非日常に、深く関わっていると知ったからこそ、俺は拍車をかけて心配もすれば怒りもする。
だけど、俺がどれだけ言い募っても、頑なに俺を拒む兄さんが話してくれるとも思えない。
兄は一度決めたことを容易く反故にする人間ではないと、わかっていればなおさら。
何より、理由もわからず突き放されることが俺には酷くつらい。
あれ以上の拒絶をもう一度兄さんから受けるかもしれない。
その危惧に、俺はどこかで怯えているのだ。
心配した分だけ兄の行動が腹立たしいし、怒りを呼ぶ分だけ無力な自分に失望する。
大事な人だからこそ、自分にできることで支えたいと願うのに、俺では、兄さんの支えになれないのか、と。
手助けをすることもできないのか、と。
理由を話す価値すらないほど、俺は兄さんに必要ないのか、と。
そこまで行き当たれば、徐々に憤りも掻き消えて、悲しい気分になってくる。
以前は何でも話してくれたのに、何故今になって届かない。
僅かに眉根を寄せて這い登る悲哀を噛み殺す。
完全に地面に縫い付けられてしまった視線を揺らしていると、隣に立つブーツが一歩踏み出した。
さく、さくと草を踏み鳴らし、しゃがみこむ俺の前で立ち止まる。

「そうだね。訊いても、何も教えてくれないかもしれないね」

頭上から降るジュードの声に、奥歯を噛むこともやめて項垂れる。
冷静な立ち位置で見れる第三者ですら、同じ結果を導き出してしまうなら、兄の口を割らせるのは至難の業なのかもしれない。
やはり、兄を問いただすことは諦めるしかないのか。
やりきれなさを誤魔化すように、膝に頬を押しつけて目を瞑る。
閉じこもる俺の動作に、ジュードの気配がゆらりと揺れた。

「でも、『何も教えない』ってことも、ルドガーが声の届かないところにいたら言えないよ」
「え?」

醒めるように目を開けて見上げれば、眩しいくらいの日差しの中でジュードが俺を見つめていた。
真摯な眼差しは真っ直ぐ射抜くように注がれて、逸らすことを許さぬよう。
与えられた言葉の真意を探るように首を傾げて見つめ返すと、ジュードは歌うように言葉を継いだ。

「教えられない理由だって、話すタイミングとか時期とか色んなことが原因だってこともあると思う。でも、そもそも声が届く場所にいなきゃ始まらない。いざユリウスさんが話そうとしたときにルドガーがいなかったら、結局話せないままだよ」
「……ジュード」
「ねぇ、ルドガー。ちょっと恥ずかしいのはわかるけど……僕はね、傍にいられる間は傍にいるべきだと思うんだ。大切な人なら、なおさら離れちゃダメだよ」

切々と俺に語りかけるジュードは、ありったけの想いを吐露するように言葉を注ぐ。
それはまるで、自分の心を切り取って分けるような必死さを含んで。
持てる全ての言葉で、手を離しかけた俺にしがみつけと叱咤する。

「君は、できる限りユリウスさんの傍にいるべきだよ」

心に溶け込むような声音で紡がれる意思は、確固たる芯を抱いて揺るぎない。
だが、向けられた柔らかな笑みがどこか悲しそうに見えて、俺は呆然とジュードに魅入られる。
表情と言葉の食い違う印象に戸惑いながら、これがジュードを大人びて見せる原因なのかもしれない、と漠然と思った。
年齢に不釣合いな価値観を抱かせる、そんな鮮烈な出会いをジュードは既に経験しているのだ。
そしてその経験から、俺を必死で後押ししてくれているのだろう。
なんて、想いの深いお人よしだ。
少しだけ目を伏せて、もう一度ジュードを見上げて笑う。

「……ジュードは、そんな風に考えてたんだな。ちょっと驚いた」
「僕は最初から言ってたつもりなんだけど……」
「言ってたか?」
「言ってたよ……『交じってこないの?』って」

そういえば、そんなことも言われたな。
あの時のあのセリフはそういう意味合いだったのか。
今更ながらにジュードの問いを噛み締めてみる。
だが、どうにもすぐさまあの二人の間に割って入る気にはなれない。
意外に話が弾んでいるだけに、とても気が引けるのだ。
俺が兄さんと話せば、どうしても綱渡りをするような緊張感を呼び起こしそうでならない。
そんな懸念に踏ん切りのつかない俺を見やったジュードは、小さく息を吐き出した後、組んだ両手を上に掲げて大きくひとつ伸びをした。

「さてと……じゃぁ、僕はミュゼの行方について情報収集してくるよ。ルドガーは連戦続きなんだし身体休めなきゃね。あ、あとエルの保護者なんだから目を離さないでね」
「……このタイミングでそれを言うか」
「建前が必要かなーって」

いらなかったらいいんだけど、とトドメににこりと微笑まれれば、ぐうの音も出ない。
お人よしの世話焼きめ、と憎まれ口を叩きたいところだが、どうにも差し出された建前が魅力的すぎる。
ぐらぐらと身体を揺らして数秒、膝を叩いてゆっくりと腰を上げた。
ふぅっと一息ついたところで、ジュードに、ぱん、と背中を叩かれる。

「……いってきます」
「いってらっしゃい」

励ますような送り言葉に背を押され、俺は一歩足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2013/01/30 (Wed)

Chapter7の一度目のニ・アケリアにて。
ぐだぐだしてるルドガーさんをジュード君が励ませばいいな、とか思って。
そして地味に続く。


*新月鏡*