「song for you -Julius-」

 

 

 

――――『兄さんは、その歌が好きだな』


屈託なく笑ったお前は、疑うことなくそう言った。
身に染み付いて癖になってしまったこの歌を、本当に好きだったのは俺ではない。
そんなことも、すっかり忘れてしまっていたルドガー。
悲しいときやつらいとき、必ずこの歌を望んで傍に寄って来た小さな弟。
抱き上げることも、頭を撫でることも容易にできなくなるほど成長したというのに、長年の習慣のせいか、ついついこの手は黒の交じる髪を撫でる。
その度に、すぐさま乗せた手を払いのけられ、ようやく「そうだった」と思いなおして苦笑が零れるのだ。
お前はもう子供じゃない。
俺は、お前が十分大人だと知っている。
十二分に、一人で歩けると知っている。
むしろ、ルドガーは俺よりずっとうまく生きていけるだろう。
何をしても途中から伸び悩む俺と違って、何でも器用にこなせる分、どんな場所でだって生きていける。
そう気づきたくなくて、俺はずっとルドガーを子供だと思い込んでいたのかもしれない。
この手を簡単に払いのけてしまう弟に、俺は必要ないのだと思いたくなかった。
それが本心だとすれば、俺はずいぶんルドガーの存在に支えられ、依存してきたようだ。
しかし、十分にひとり立ちできると思い直しても、拭いきれない懸念は残り続ける。
お前は優しすぎるから、どうにも気がかりでならない。
心優しい弟は、人の命を背負うには、あまりにも他人の感情に寄り添いすぎるのだ。
普通の暮らしをするだけなら、とても好ましいと思うのに、呪われた因果へ踏み出してしまうことを考えれば、その優しさに不安が募る。


だからこそ、最も傍にと望みながら、誰より遠い場所にいてほしかった。


猜疑心と信頼の狭間で、不安げに俯くルドガーを見ることになったとしても、決してこちら側へ来ることのないように。
そう決意して動いていたはずなのに、現実はそれを許さないらしい。
一族の宿命が、呪われた因果が、どれほど遠ざけようと足掻いても、ルドガーを捕らえて引き寄せる。
力ない俺では抗いきれないほど、目まぐるしい速さで過酷な未来へ突き進む。
それでも、まだ自覚する前に取り戻せればよかった。
自身を呪うほど絶望する前に。
まだ心痛めるだけで済むうちに。
だが、必死に荒げる俺の声は、何度くり返してもルドガーの意思に届かなかった。
他人の願いと思惑が絡んだせいで、引きずられるように決断を余儀なくされてしまったルドガーが、俺だけを選ぶはずがない。
真意を隠していればなおさらだ。
わかっていたことだが、言葉の届かないもどかしさに歯噛みする。
一人前みたいな顔をして、約束を守るんだと言い張る弟は、一番惨い真実を知らない。
自分がどれほど恐ろしい場所に立っているのかを知らない。
分史世界の少女に責められ、返す言葉もないほど落ち込んでいたルドガーを思い出せば、認識の甘さに危機感が募る。
お前は、惨酷さを身に沁みて実感しないまま、『他人事の』過酷な事実に苦しんでいるだけなのだと叱ってやればよかったのだろうか。
だが、何もかも手遅れだ。
時は過ぎ去り、道は別たれ、俺の命も刻限が迫る。
どうせなら、お前が何も知らないままで済めばよかった。
なのに、

 

どうしてこうも、上手くいかないんだろうな……

 

望んだのは、力とか、使命とか関係のない、ごく普通のありふれた日常のはずだった。

朝起きれば、できたての朝食が食卓に並んでいて。
少し眠そうな顔を見つけて「おはよう」と笑い、二人で食事をし、出かける仕度を整えて。
擦り寄るルルを撫でながら、時間管理の微妙になってないルドガーが慌しく出かけるのを苦笑して見送る。
帰ってくるお前に「おかえり」と言って、今日一日の出来事に耳を傾け、眠る前に「おやすみ」と言葉を交わし合う。
そんな、脅かされる心配のない、平穏な日々を望んでいた。

だけど……

 

 

 

「……そうか」

振り返る先に佇む『もう一人の弟』。
奥歯を噛み締め、何かを堪えるようにきつく目を瞑って視界を閉ざす。
泣く前の、いつもの仕草。
変わらないな。
数多くの分史世界を壊し続けてきたゆえに思う。
どんな姿形をしていても、魂を共有している分、根幹は全て同じ人間なのだと。
『今の俺』の弟は、不在のルドガーただ一人。
だが、それでも、背後に立つルドガーもまた、俺にとっては『弟』なのだ。
どんなに異なり歪んだ世界であろうとも、俺はルドガーの兄であり、ルドガーは俺の弟だった。
数多の分史世界には、俺たちが争い合う世界もあった。
それでも、必ずルドガーは俺の守るべき弟であり、争う理由は互いに譲れないもののためで、その理由さえなければ隣に立っているような関係だった。
決別を前にしてなお心穏やかでいられるのは、その事実を知っているからだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、そっと席を立つ。

「お前が教えてくれたことだ」

力ない手のひらに時計を手渡して、通り過ぎる。
使い物にならないほどにボロボロになってしまった銀の懐中時計。
俺自身であり、俺の誇り。
呪われた生の中で、心の底から守りたいと思えるものを得た証。
何を犠牲にしても……この命を差し出しても構わないと思えるものが、この手にあったという証。
そして、

「もう行け、ルドガー。守ってやりたい子がいるんだろう?」

ルドガーもまた、同じ道を辿る。
やはり兄弟ということか。
似てほしくないところばかり似てくれる。
歯がゆいような喜色を苦笑でごまかしながら、僅かに頭を振って名残を振り払う。
俺が知る限り最も優しい弟が、こうして俺を前にするほどに、守りたいと思った子がいるのだ。
生半可な意思ではない。
それほどまでに差し迫った状況がルドガーの前にはあるのだ。
ならば、その背を押すのが役目だろう。
そうと決めて促すが、どれだけ言葉を浴びせても、向けられた背中は動こうとしない。
傷だらけの時計を握り締めたまま、重い沈黙に沈むように凍りつくばかり。


――――まったく、大人だと思い改めた矢先にお前って奴は……


閉じこもるように動かない背中を見つめて、僅かに口端を引き上げる。
本当に、どうしようもない弟だ。
ふっと微笑に息を吐き出して、ゆっくりと目を閉じる。
無意識でも辿るメロディーは、もう何度目になるのか。
静寂に溶ける俺の歌に、不動の気配がびくりと揺らいで震える。
喉に引っかかったかすれた悲鳴。
音階に溶ける呻く声。

泣くなよ、ルドガー。
こんなことで泣いていたら、お前が立ち向かうべき困難はより一層お前を蝕み、容赦なく嘆きの淵へと叩き落としてくるだろう。
涙を堪え、唇を噛み締め、弱音を押し殺して、歩き続けろ。
大丈夫。
お前ならできるさ。

旋律を口ずさみながら強く想えば、応えるように気配が動く。
瞬間、目蓋越しに視界を焼く閃光がほとばしり、身体に押し込むような衝撃が突き抜けた。
じくりと広がる鈍い熱。
雷光のような苛烈さで激痛が爆ぜれば、意識全てを攫われ、落ちる。

 

その間際。

 

 

あぁ、声が聞こえる。

 

 

喉を裂くほどの嗚咽が、閉じかかる意識に爪を立てる。


馬鹿だな、泣くなと言ったのに……


だが、その悲鳴に、俺は今までにないほど、この上なく幸せな時間を感じていた。
他の誰でもない、お前が、俺がいなくなることを、こんなにも悲しんで嘆いてくれる。
泣き縋り、崩れる身体を引き止めるように抱きしめて。
張り裂けんばかりに叫ぶ悲鳴は、紗にかかった感覚にもよく響く。


――――ルドガー……


お前が心を壊しかねないほど悲しんでくれる。
それだけで、俺の人生は十分幸せだった。
全ての脅威から守りたかった、俺の、大切な弟。
一番遠ざけたかった脅威は、関わるだけ残酷な結末を導くとわかっていた『俺自身』だったのかもしれない。
しかし、どうしても手放せなかった。
目指す未来が別たれてなお、それでもお前を手放せなかった。
俺の最大の罪だった。
勝手極まりない望みだった。
それでも、差し出した手を握り返すお前がいたから、俺は今日まで生き抜くことができた。
感謝してもしきれないほど、得がたい幸福をお前に与えられてきた。
なのに、……すまない、ルドガー。
結局、この身を賭けてでも守りたいと思っていたお前の心に、計り知れない傷跡を残してしまった。


何もかも半端なままな俺だったが、最期にせめて、願い続けよう。


お前の好きだった歌に込めて。

 

 

どうか、心優しいお前が悲しみに沈まぬように、と……。

 

 

 

 

 

 

* * * *

2013/01/16 (Wed)

ルドガーさんのための歌。


*新月鏡*