「song for you -Victor-」
この手に唯一残った希望。 自分を生かす最後の奇跡。 エル。 大切な、愛しい子。 つらい旅を乗り越えて、ようやく帰って来た私の娘。 泣きじゃくって、私の無事に「よかった」と縋りつく小さな身体が、ずいぶんと震えていたのを覚えている。 本当なら、どんな恐ろしい目にだって遭わせたくはなかった。 だが、私の力だけではどうにもならないこの世の理に、手段を選んでいる余裕などなかった。 分史世界の人間だからこそ、自分の目的のために破壊しなければならないものがある。 正史世界と分史世界の壁。 その壁を取り払うために、『クルスニクの鍵』である自分の娘を利用した。 人でなしと罵られても構わない。 無力な私には、他に方法がなかったのだ。 こうでもしなければ、私もエルも、一族の呪われた力と宿命に、無惨な死を晒すことになる。 特にエルにもたらされる死は、惨たらしい最期となるだろう。 私が守れる間はいい。 鍵を欲する連中が、『クルスニクの鍵』を私だと思い込んでいる間は。 だが、この身が朽ちれば、真の鍵の存在に気づいた者たちにエルは追われ、限界まで力を食い潰され、壊されてしまう。 我欲にまみれた人々の妄執に、可愛い娘がどれほど怯え、恐ろしい目に遭うだろう。 考えるだけでもおぞましい。 だからこそ、私は未来の脅威から娘を救うため、幸せに暮らせる『今』を犠牲にした。 私とエルが幸せに生きる世界を望むため。 なんとしても時空を渡り、道標を全て集め、カナンの地まで辿り着かなければならない。 それも、私とエル、どちらも時歪の因子化する前に。 ただ、鍵の力で正史世界に赴いたとしても、分史世界に属する自分が地に降り立てばすぐに消えてしまう。 正史世界の『ルドガー』がいる限り、正史世界から私の存在は拒絶され、消滅する。 これでは目的が果たせない。 だから、手間はかかるが向こうからやってくるように仕向けることにした。 こちらへやってきた正史世界のルドガーを殺し、私が成り代われば全てうまく行く。 そして、おあつらえ向きなことに、世界は私になけなしの慈悲を与えてくれたらしい。 皮肉なことに、カナンの道標のひとつ『最強の骸殻能力者』としての存在することを。 呪われた身の上だが、これで、願いは叶えられる。 そう、信じていた。 だが、 私を突き飛ばす小さな手のひら。 その手を攫っていくもう一人の自分。 腹立たしいほどに、しっかりとエルがその手に引き寄せるのは、父親である私ではなかった。 何故? 我が子の意思を理解できずに、呆然と見つめる。 密に寄り添い、庇うように立ち塞がる『正史世界のルドガー』。 私が望んでも手に入れられないものを全て持ちながら、さらにエルまで奪おうというのか。 私の、たった一つの希望すら! 朱に染まる思考は一気に憤怒を呼び起こす。 それからは、もはや記憶すら吹き飛ぶほど無我夢中で剣を振るった。 まったくの同じ型。 同じ癖。 同じ思考パターン。 従順なまでに的確に応戦してくる自分自身に、吐き気がするほど苛立って仕方ない。 その苛立ちの正体は、10年分の技量の差だけ追い込んでも、すぐさま機転を利かせて変化してゆくルドガーの戦術。 剣戟の合間に銃を撃ち込めば、その数秒後には同じ連撃と銃声が返される。 それを回避して見せれば、今度はこちらの攻撃がそっくりそのまま同じ動きで回避される。 ならば、と振り抜いたハンマーを放り投げて、腰の鞘から剣を滑らせるように引き抜く。 低姿勢でハンマーの軌道から回避したルドガーの喉元へ、確実に狙いをつけて切り上げる。 だが、これもぎりぎり上手くかわされ、同じようにこの首を狙ってくる。 それは、なんとも奇妙な感覚だった。 追い込むはずの一手が、呼吸ひとつ分の時間で、私自身を追い詰める一手に成り代わる。 恐るべきことに、ルドガーは、私の技を確実にそぎ落として奪っていくのだ。 私の動きを鋭く観察・分析し、それを瞬時に自身へ反映させて反撃とする。 そしていつしか、確かにあったはずの戦力差が、己の技術で拮抗するまでに進化すれば、さすがに自分自身に恐怖した。 時歪の因子化に伴う私自身の身体能力の劣化や、仲間の絶妙な援護があるにせよ、それでも私の10年の月日をこの短時間で縮められるはずがない。 なのに、重い身体に降りかかる技の数々は、相対した当初より鋭利で無駄がない。 こんなはずでは……。 戸惑いと僅かな恐怖に揺らいだ瞬間、押さえ込んでいた痛烈な痛みが身体を駆け上り硬直する。 その一瞬の隙を突いて、ルドガーが唸り声を上げて突っ込んでくる。 真っ向から襲いかかる一撃は、深くこの身を抉り、予想外にも私はあっさり地に沈んだ。 なんてことだ。 最後の最後で、技術もセンスもない一撃を見舞われるとは思わなかった。 苦痛に膝を折る私の前で、息も絶え絶えに立つもう一人の私。 まだまだ荒削りな自分自身。 この身さえ時歪の因子化に蝕まれていなければ、未熟な自分相手に敗北することもなかっただろうに。 愕然と事実に打ちひしがれていると、 「パパ……」 小さな声が弱々しく私を呼ぶ。 だが、声に誘われ見上げた先の光景に、私はさらに絶望した。 その白く細い首筋に走る、不吉な兆し。 この身を食い荒らす呪われた証。 「間に合わなかった……!」 身体の芯が溶けるように崩れ落ちる。 『今』を犠牲にして得た全てが、無駄になってしまった。 この先、どれだけ足掻き、抑制したとしても、審判を終える頃にはエルが壊れてしまうだろう。 それこそ、力の抑制すら考えなければ、審判の門へ辿り着けるかどうかも危うい。 愛娘に迫る命の危機に、私は悲鳴を上げる喉を震わせた。 娘を害する能力を振るい続けてきた、何も知らない自分自身へ。 その力の代償を。 その力の際限を。 そして、その末路を。 死の淵に追いやられた私ができる精一杯の抑止力を、自分に向かってあらん限りの声で叫ぶ。 甘すぎる正義感と道徳を振りかざして、実感の伴わない屍を踏み越えてきた過去の私。 中途半端な行動で、娘の命を喰らう者。 そんな未完成な自身を前に、なすべきことはひとつ。 地に転がっていた時計を拾い上げ、そのまま迷うことなく骸殻に身を包み、再びルドガーと刃を交える。 未だ指針の定まらぬ力は、いたずらにエルの命を殺ぎ、死に追いやるだけだ。 先の望みを絶たれた今、願い果たせぬ己にできることなど限られている。 ――――害になるだけの存在ならば、いっそここでその息の根を止めてやろう! 「お前はどう選択する!」 あらん限りの力を奮い起こして、地を蹴った。 弾丸のような速度で距離をつめ、たじろぐルドガーの心臓めがけて槍を突き出す。 急速に縮まる距離。 赤黒い槍が胸を貫く、その刹那。 「……っ」 引きつる悲鳴が鼓膜をなでる。 他人事めいた感覚に、見開いた瞳がまるで映画のワンシーンのようにコマ送りの光景を描いて。 軌道の逸れた自分の槍とすれ違って、真っ直ぐ突き進む鋭い先端。 ゆっくり、ゆっくり、焦れるほどの速度でこの胸に沈み込む。 滑り進む柄に内側を抉られる間すら、何も感じなかった。 だが、瞬きを思い出した瞬間、忘れ果てた速度による衝撃が舞い戻る。 次いで、怒涛の嵐を髣髴とさせるように、押し込まれた異物から苛烈な熱が迸った。 「っぐ、ぅ」 「、……ぁ、あ……ぁ……」 思わず零したうめき声に、正面から息を呑む戸惑いが混じる。 動揺するルドガーに呼応するように、その手にある槍がカタカタと震え出した。 小刻みに振動するせいで、じくじくと傷口を抉られ意識を焼くほど痛みが増す。 自分が代償にしてきたものを突然知らされた動揺と、本能的に私を殺す選択をしたことへの動揺に、自分の行動すら把握できないほど混乱している状態なのだろう。 まだ、命を奪うことに慣れていない、青臭い自分。 まだ、夢を見ていられた頃の、幼き精神。 世界に希望を抱けるだけの弱さを持っていた頃の私なら、たとえ本能が叫んだとしても、きっと躊躇っていただろうに。 それをお前は乗り越えるか。 たとえ、己のしでかしたことに恐怖と後悔を抱こうとも。 ならば。 「エルを……頼む」 私に成せなかった願いは、お前に託そう。 正史世界の私、ルドガー・ウィル・クルスニク。 「カナンの地を……開け……オリジンの……審判を……超え……」 どうか、一族の宿命と世界に屈した私に代わり、エルをこの因果から救ってくれ。 全てを言い切らぬ間に、バランスの崩れた身体が地に落ちる。 身を打つ衝撃ももはや意識に上らぬほど、四肢の感覚が薄れていく。 「あぁぁ……パパッ!やだよ、パパァッ!」 耳を劈く悲鳴。 拒絶し突き放したはずの小さな手が、必死に私を揺り動かす。 あぁ、エル……。 ぼやけた視界にはとても遠く、感覚を探るように娘へと手を伸ばす。 触れた指先に柔らかな温かさが伝われば、抑え切れぬ愛しさに薄く微笑みが零れた。 ぽたりと降り落ちる冷たい雫。 その涙を止めるため、裂傷を負った喉を震わせる。 呪われた一族に唯一与えられた救いを、お前に捧げよう。 絶望の淵で紡がれてきた、優しい慰めの歌を。 気管に血が混じり、途切れ途切れになりながらも、それでもただひたすらエルを見つめて歌い続ける。
どうか泣かないでおくれ、愛しい子。 これは悲しい別れなどではないのだから。 カナンの地の果て。 新たな世界で、また再び廻り会える。 私と、お前と……今度こそ、幸せになれる場所で、必ず。 エル……私の可愛い娘。 ……愛している、いつまでも、永遠に……
* * * * 2013/01/16 (Wed) 愛娘のための歌。 ヴィクトルは、死ぬ間際になろうとも信じていたような気がする。 幸せな世界が、『自分自身』によって、願われるということを。 *新月鏡* |