「無条件な優しさの理由」

 

 

 

 

「触れるな」

冷たく吐き捨てるように睨み上げる大きな翡翠の瞳。
何故そんなに冷たくあしらわれるのか、カルマンには理解できなかった。
ただ、自分より一回り小さいモーゼスの肩の上にぽんと手を置いただけである。
モーゼスのあまりの剣幕に驚き自然と手が離れると、睨みつけていたはずの眼に微かな違和感を覚えた。


「・・・何だ?」

眉をひそめて戸惑った声のまま訊ねる。

 

たいしたことはしていないし、癇に障るようなことなどしていないはずだ。
頭や肩に手を置くのは初めてのことではなく、いつもと変わらない簡単なスキンシップだった。
すれ違いざまにカルマンがよくやる癖みたいなもの。
それは仲間であるものなら誰もが知っていたし、受け入れていた。
それを今日に限って拒絶されたのだ、はっきり言って何が原因なのかわからない。

 

「・・・そんな風に触れるな」

表情を見られまいとするように俯き、息を吐くように小さく繰り返す。

「そんなに嫌だったのか?・・・だったらはっきりとそう言え」

幾分機嫌を損ねたように踵を返し、さっさとその場を離れようと足を速めれば、戸惑ったような声と共にローブの裾を引かれて制止がかかった。
その制止にゆるりと振り向けば、モーゼスの伏せがちの睫毛が何かに耐えるように震える。
唇を噛むように口を閉ざし、火の灯ったような眼孔だけがこちらを見やる。

 

「違う・・・そんな風に触れられたくない、と言ったんだ」

少々困ったような色を添えて、訴えるようにゆっくりと繰り返す。
まるでこの言葉の意味を噛み締め、理解しろと言うように。
だが言われているカルマンには、そんなことにすぐ気付くような繊細な精神や洞察力など持ち合わせているはずなく、モーゼスの意図を掴みきれないことに困惑し苛立つだけだった。

「何が言いたい?はっきりと言えと言っているだろう?」

声を荒げて、掴まれたままのローブから手を振り払う。
はためく音と共に睨み返せば、モーゼスは怯んだように硬直してしまい喘ぐように息を漏らすだけだった。
そんな様子におかしいと思いつつも苛立ちの方が勝り、カルマンは再び振り切るように歩き出した。

もう追いすがってくるような気配はない、そう思うと何故か冷たい感覚が腹の底を撫でていく。
後味の悪い感覚だけが残り、苦々しい。

 

「・・・僕は・・・代わりじゃない」

数メートル離れたところで、突然押し殺したような声が耳に届いた。
苦しげに吐き出されたそれに思わず振り返れば、拳を握り締めて震えるか細い立ち姿。
戻す視線の先の瞳には、マカライトの宝石のように渦巻く感情が見えさえする。


「僕は・・・イレーヌの代わりなんかじゃない!」

今度は叫ぶように眼をぎゅっと瞑って吐き捨てる。
悲鳴に近いその叫びにカルマンは呆気に取られた。
モーゼスがこんな状態になることにも驚いたが、吐き捨てられた言葉が何よりもカルマンを驚かせていた。

 

今何と言った?
イレーヌの代わり?
誰が代わりだって?

 

「お前・・・何を言ってる?」

困惑に掴まった思考をフル回転させれば溢れ出す疑問の数。
音にしたのは一言だが、溢れた疑問は目まぐるしい勢いで駆け巡り、目の前が真っ白になりそうだった。
混乱に翻弄されながら必死で意識を留めて見つめれば、揺れる眼差しが返って来る。
胸元をぎゅっと握り締めて、たじろぐ気持ちを奮い起こすように一呼吸してから、モーゼスは鋭く見据えて振り仰ぐ。

「お前は、僕をイレーヌの代わりにしてるだろう?」
「・・・馬鹿を言うな。誰が代わりなんかにしてる?!」

気が動転しているカルマンに、わざと冷静さを装って再度口にした問いは、モーゼス自身の心さえ大きな音を立てて軋ませた。
自分でも予想以上に衝撃的で受け入れがたいことだったようだ。
もちろん対峙し問われたカルマンが、それに対して一気に声色を跳ね上げて問い返してくるのはわかっていた。
だからなおのこと、かき乱される心と反して、声に出す言葉は冷たくなっていく。

「自覚がないのか?・・・イレーヌがいなくなってから、お前はずっと優しく接してくるじゃないか・・・まるで・・・」


――――まるで彼女に接していたときのように穏やかな気配で・・・


 

言った次の瞬間、モーゼスは前方から与えられる加速と、背後の壁に押し付けられる衝撃に小さく呻いた。
胸倉を掴まれ、息が掛かるほど間近に寄せられたカルマンの表情は怒りそのもので、ぎりっと音を立てて喰いしばった犬歯は鋭く、今にも喰らいつかれそうだった。
なのに彼の怒りに責め立てられているにもかかわらず、その感覚を悪くはないと思ってしまう自分がいる。
そんな自分に苦笑しながら、『痛いよ』と困ったように息を吐けば、さらに眼光を強めて壁へと押し付けられる。

カルマンがそうするであろうことも知っていたのに、何故煽るような言い方をするんだろう?
自分でも理解できない疑問が浮かぶ。

 

「俺は一度だってお前をイレーヌの代わりだと思ったことはない!」
「・・・嘘だ」
「っ!!」

冷め切った眼でカルマンの訴えを否定すれば、彼の中の行き場のない怒りが出所を探して彼の思考を崩壊させてゆく。
向けられる感情は純粋な怒り。


――――彼らしい・・・


心の中で苦笑して、この後自分は殴りつけられるんだろうと覚悟を決めて目を瞑る。
だが、いつまで経ってもその痛みはやってこない。


その空白の間に焦れて眼を押し開けば、代わりにやってきたのは息苦しさの解放だった。

「・・・え?」

なくなった支えにへたり込んだ床の上、どうして?と困惑しながら見上げれば、収まらない感情を持て余しながら鋭く見下ろす視線とぶつかる。


 

「そんなにイレーヌみたいに扱ってほしいなら、そうしてやる」

投げつけるようにそう言うと、カルマンは今度こそ振り返ることなく、苛立った歩調のまま扉の向こうへと姿を消してしまった。
残されたモーゼスは彼の思わぬ言葉にぞくりと背筋の凍るような感覚を覚えた。

 

 

 

今までずっとカルマンに触れられるのは嫌いじゃなかった。
むしろ心地よくさえ思っていた。
言葉で伝えることを何より苦手とする彼が、時折見せる優しい手が心地よかった。

だが、彼にとって特別な存在であったイレーヌの死によって、それは酷く不安にさせるものに変わっていったのだ。
カルマンとイレーヌの間にある『兄妹』という絶対的な絆が、その間にある不可侵の感情が、とても羨ましかったのは本当。
とても尊いものだと思う反面、その割って入れない間に苛立つことさえあった。


そしてあの日、彼女を喪って、彼は以前よりずっと優しくなったように感じられた。

誰より仲間を想い、誰より傷つくカルマン。

喪いたくないという感情や、仲間に対する想いからの表れだと思えればよかったのに。
だがモーゼスはそう素直に思えず、その変化が彼女を喪って空いた空白を埋めるものだとしたら、その穴埋めのために自分が宛がわれているなら、と考えてしまう。
そう考えると胸が苦しくて、触れられることすら嫌になった。

 

だから『代わりとして触れてほしくない』と言ったのだ。
まさか、彼があんなふうに返してくるとは思わなかった。


――――イレーヌみたいに扱ってほしいなら、そうしてやる


去り際捨て置かれた音が耳に残って離れない。

彼女のように扱ってほしくないと言ったのに、そうしてやると返してくるなんて・・・

何かの糸が絡まり合い、思わぬ方向へ捻れていく気がして、モーゼスは冷えた部屋の中に一人、漠然とした不安に身震いした。

 

 

 

 

 

その日からモーゼスを取り巻く環境が少しずつ狂い始めた。

陽を避けて過ごす廃墟の中では見慣れた姿がなく、翳った場所にたった一人膝を抱えて座り込んでいることが多くなった。
無意識に求めた姿を探そうと外に出れば、案外近い場所で眼を瞑っていたりする。
声をかければ『何の用だ』と問われ、意味もなく来たのだというと『そうか』と短く一言寄こすだけで会話になることはなく、こちらから話し出せばそれに答えてくれるが、やはりそれだけだった。
その場に留まったとしても何ら変化はなく、ただ陽だけが落ちてゆき、夜になれば移動、を繰り返すばかり。
いつもならもっとくだらないことで話すこともあったというのに、今ではその片鱗すら存在しないように思えた。

 

夜に偶然遭遇した翼手との戦闘の最中でさえ、カルマンの変化は如実に現れていて、モーゼスは混乱させられることになった。
攻撃を仕掛けようと大きく鎌を振り上げれば、その一歩先に鈍色の線が横に奔って一刀両断してしまう。
そしてすぐさま次の獲物へと矛先を変え、姿を消すのだ。
だが、自分が剣を交える一瞬先には必ず姿を現し、確実に仕留めてゆく。

何よりおかしいと感じたのは、モーゼスに対して敵が攻撃を仕掛けてきたときだった。
受け止められるとわかっているはずなのに、敵との間に滑り込み、受け流してはトドメを刺し、ちらっと一瞥振り向くと瞬間安堵したように眼を細め、再び戦場を駆けるのだ。
そしてモーゼスが何もしないまま戦闘が終焉を迎えれば、皆いつものように各々に気遣い合う。


変わらない景色、変わらない仲間の姿・・・そして、変わってしまった何か。

 

ふと気付いたようにルルゥが呆然と佇むモーゼスに近寄り、顔を覗き込むように見上げた。

「モーゼス、怪我したの?何処か痛む?」

不安げに歪められた大きな瞳に見つめられて、はっと我に返ると『大丈夫だ』と言って慌てて微笑む。
そんなモーゼスに訝しがりながら渋々引き下がるルルゥに苦笑しながら視線を上げれば、遠くから注がれる一際気遣わしげな眼差しが視線と絡んだ。
しかし眼が合えばすぐに逸らされ、彼は何事もなかったように愛用の武器を仕舞い込み、深くフードを被ると『行くぞ』と鋭く声をかけ、青白い残像の軌跡を残して姿を消した。

「あ、ちょっと待ってよ!」

甲高い声が辺りに響き、同じくフードを被ってルルゥがその後を追いかける。

 

カルマンの後に続いてゆく仲間を他所に、モーゼスは強く訴えてくる胸の痛みに立ち尽くしていた。

「カルマン・・・どうして・・・」

気遣ってくれていたことは確かで、護ってくれていたことも確かなはずなのに、酷く悲しい気持ちでいっぱいだった。

 

 

 

 

 

「モーゼス、ホントにどうしたの?最近ずっとおかしいよ!」

まだ暗い世界の中で、やっとのことで探し出した廃屋に落ち着けば、小柄な体が飛びつくようにして駆け寄ってきてそう言った。
ぎゅっとローブを握り締めるルルゥに困ったよう微笑み返し、ちらっと辺りを見回してもやはりカルマンの姿はなくて、治めたはずの胸の痛みが蘇る。
思わず表れてしまった寂しげな笑みを見て、ルルゥは確信したのだろう、必死になってモーゼスを問い詰め聞き出そうと躍起になった。

「何があったの?カルマンと喧嘩したの?!」

不意に出てきた名前にびくりと身体が震えた。
見開かれた眼に問い続けるルルゥの姿はなく、焦点の合わない瞳孔だけが揺れる。

「何でもないよ、ルルゥ。本当に・・・何でも、ないんだ」

半ば自分に言い聞かせるように噛み締めて言うが、動揺する姿に説得力はなく、普段のモーゼスからは考えられない状態に、ルルゥの心配は増すばかりだった。


「モーゼス、いったい何があったの?カルマンに何か言われたの?」

気遣わしげに問われる度にぎしっと音を立てて心が軋み、震える身体はもはや意識とは切り離されて自分のものではないように感じていた。
頼るべき意識と思考はもうすでに機能を失い、ただ広がる真っ白な景色とふわふわとした浮遊感が平衡感覚を麻痺させる。
閉鎖されていく心に比例して、だんだんと身体を失っていくようだった。

 

 

「ルルゥ、俺はカルマンの方がおかしい気がするが・・・」

遠くから見ていたグドリフが、見ていられないという風に声をかけてきた。
グドリフはいつも後ろからみんなを見守ってて、いざ何かあればこうやって助言をしたり、助け舟を出してくれる。
それに救われることは多々あるが、これほど安堵したことはないかもしれないとモーゼスは思った。
自分が思っている以上に問いただされることがつらかったようだ。

 

「あたいにはいつもと変わらないように見えたけど・・・」
「あいつはここ最近、モーゼスといるときだけおかしいんだ」


――――あぁ・・・本当にグドリフはよく見ているんだな・・・


まるで他人事のように真っ白なまま思う。
自分から見ていて同じことを思っていた。
ルルゥやグドリフに対するカルマンの態度はいつもと変わらないが、相手がモーゼスに変わると、驚くほど一転するのだ。
そんな事実にモーゼスはルルゥに気取られないよう失笑する。

苦しくて、頭がおかしくなりそうだった。

 

「そうだな・・・何ていうか・・・」

まだ続いていた会話にぎくりと眼を見張る。
グドリフの言わんとしているその先に思い当たる言葉を見つけて、真っ黒な果てのない何かを目の前にするような恐怖が襲ってくる。
聴きたくないのだと分かったときにはもう遅い。

 

「まるで、イレーヌといるときを思い出すんだ」

耳を塞ぐ間もなく身体を貫くようにその言葉は降り落ちた。

 

 

 

一番聴きたくないその名前

一番認めたくない事実が突きつけられる

一番憧れたその立場にいるはずなのに

 

――――僕はどうしてこの痛みから逃れられない?


大きな暗闇が襲い掛かるように広がって、すべての感覚を一瞬にして奪い去る。

 

気づいたときにはひんやりとした冷たい床が身体の体温と交じり合うように接触していた。
そっと目線を上げれば泣きそうなくらい顔を歪めて心配しているルルゥが映る。
天と地がひっくり返ったように全部歪んで見えていて、何故こうなっているのかを知るためにそっと眼を閉じて空白の時間を巻き戻し始める。
自分が倒れたのだと気づくまでに数秒を要し、気づいたそのとき、すっと何かが頬を伝った。
こそばゆい感覚を伴って緩やかに頬を撫でて降下するそれに、モーゼスは困惑した。

 

浅い知識しかない中で、知っているだけのそれ。
『涙』と呼ばれ、目の涙腺から分泌される液体のことであり、目の栄養補給から、紫外線からの防御壁としても効力を発揮し、感情が昂るときに多量に分泌され、そのときに限り外へ流出するものだと認識している。

本当に言葉の意味しか知らない。
実際に見たことはなかったから。
頬を伝っているということは感情が昂っているからということになるが、モーゼスには自分の想いに気づける兆しすら掴めない。
冷静に見ている自分がいるのにその心理が読み取れないなんて、と形のよい唇を歪ませて笑う。

 

 

 

「どうした?」

しんと静まり返った部屋の中に、ふっと圧倒的な存在感のある音が震える。
聴き間違えるはずがない声色。

耳に届く声、それだけで目頭が熱くなって、締め付けられるほどの胸の痛みが返ってくる。
苦しげに、それでも逃すまいとかき抱くように胸元を掴んで身体を丸くすれば、気づいたルルゥとグドリフが再び視線を戻してくる。
大丈夫かとかけられる声より、近づいてくる衣擦れの音の方が何倍も耳に響いて息を止めてしまうことがおかしかった。

 

「カルマンのせいだからね!」

ルルゥがきっと見据えてそう言った。
言われたカルマンは驚いたように眼を見開いていたが、すっと細めると『そうか』と短く返しただけだった。

「モーゼスが倒れたのも、全部、全部、カルマンが悪いんだから!!」

普段と違った態度がルルゥの癪に障ったのか、叫ぶようにカルマンを責め立てる。
違うのに、悪いのはあいつじゃないのに、そう思うのに声が出ず、ただ苦しいだけでもどかしかった。
尚も近づく足音に、ルルゥはモーゼスを庇うように立ちはだかり遮ろうとするが、カルマンはお構いなしに歩みを進める。

 

ようやくモーゼスの視界にローブの端が映ったときには、緩やかに伸ばされた手が落ちる涙を拭い去っていた。
割って入ったままのルルゥはその動作に驚いて硬直し、拭い取った指に残る滴を舐めとるカルマンを凝視した。
じっと見つめられたままのカルマンは、小さく自嘲気味に笑うと、何も言わずにそっと踵を返して立ち去ろうとしたが、ぐっと後ろに引かれて立ち止まる。
戻す視線の先には揺らぐ瞳が、苦しげに歪められているが必死に見上げていて、その手はしっかりとローブの裾を掴んで離さない。

「・・・カルマン・・・」

吐き出した言葉は音にならないほど掠れていて、聞き取ってもらえたかも定かではないが、モーゼスは引き止めずにはいられなかった。
悲しいくらい優しい手で拭われた涙の跡が、熱を持って訴える。


――――どこにも行かないでほしい・・・


のどの奥まで出掛かった懇願に近い心の叫び。

 

それが伝わったのか、それとも先ほどの呼びかけが届いていたのか、視界に映るローブの裾が緩やかに近づいて、徐々に目の前いっぱいに広がってゆく。
膝を折る動作につられて落ちた視線を上げれば、久方ぶりに眼にしたと錯覚するほど焦がれた翡翠色の瞳が映る。
視線が触れて絡まれば、再三襲う胸の痛みが今までよりもっと激しくなり、行き場のなくなった捉えきれない感情が暴れまわる。
胸に詰まる苦しさで息が荒くなり、必死に見つめる瞳には絶えず滴が溢れ出し、ひとつふたつと零れ落ちていく。

「・・・ルルゥ、グドリフ、ダーズ・・・悪いがこいつと二人だけにしてくれ・・・」

カルマンはモーゼスから視線を逸らすことなく、抑揚のない声で見守る三人にそう告げた。
立ち去ることを求められたルルゥは反発しそうだったが、グドリフとダーズの説得で、振り返り振り返りしながら廃墟から姿を消した。

 

 

しんと静かに静寂が舞い降りて、空っぽになった辺りの温度が少し下がる。
三人の姿が消えるのを確認した後、カルマンは見つめ返してくるモーゼスの頬を手の甲でそっと撫でた。
次から次へと零れる滴を拭い去りながら、落ち着けるように、とでもいうように単調に繰り返す。

上から下へ、下から上へ、緩やかに優しく繰り返されるそれに、ぐっと視界を歪ませると、耐え切れなくなったように身体は無意識に動き出す。
腕を伸ばし、前へ身体を押し出せば、モーゼスは抱きつく形で、目の前にある腕に飛び込んでいた。
背に回した手でぎゅっとローブを握り込んで、隙間を作ることすら嫌がるように頬を胸に押し付ける。
突然の行動に、辺りには一瞬の戸惑いが訪れたが、それが去ってしまえば、優しく撫でてくれた先程の手に柔らかく包み込まれる。
それだけで涙は堰を切ったように溢れ出し、抑え切れない嗚咽が唇から漏れてゆく。

優しく抱きしめられたまま、モーゼスは初めて自分の気持ちを理解し、手放しに泣くことができた気がした。

 

涙を流す理由も
胸が苦しい理由も

ただこの優しさに触れているというだけで、重いと思っていた全てが、ずっと軽いものになってしまう。


暖かくて広い腕の中。
これがずっと求めていたものなのだと思った。

 

 

 

 

 

「・・・すまない、カルマン・・・僕は、とてもひどいことを言った・・・」

苦しさがだいぶ収まった頃、モーゼスは擦り寄るように頭を預けるとそう言った。
言ってどうなるといったことはないが、言わずにはいられなかった。

謝罪と疑問と、その先にある彼の答えを知りたくて。
まだ見上げることのできない眼差しは、きっと優しく穏やかなのだろうと思いながら、言葉を選ぶように落としてゆく。

「でも、僕は不安でたまらなかった・・・お前が僕に、とても優しいことが」

それを受け止められるほど優しい気持ちでいられたらよかったのに、僕はそれを信じれなかった
だから


 

「・・・教えてほしい・・・どうしてお前は・・・」

問おうとした声は、ぎゅっと力を込めて抱きしめられればすぐさま途切れた。
それ以上の追求をさせまいとしたのかは知らないが、息の詰まりそうなくらいの圧迫感は心地よくて、より密着した相手の胸から聞こえる心音がその問いをどうでもよくしてしまうのは事実だった。
その鼓動に、心地よさに酔いしれていれば、カルマンは問うことをやめたモーゼスの髪を緩やかに梳いて、愛しげに口付ける。
次第に降下しながらゆっくりと口付けられ、唇で目尻に尾を引く涙を拭われ、まっすぐに絡む鮮やかなエメラルドの眼差しに包まれれば、幸福に似た暖かさで心が満ちた。
朱を差した目尻に、頬に優しいキスを受けて、すっかり夢にまどろんでしまっているモーゼスの瞳が、カルマンをうっとりと見つめ返せば、それに応えるように柔らかな微笑みが返ってくる。

 

「あいつに・・・イレーヌにこんなこと、しようとは思わない」
「・・・カルマン・・・?」
「触れたいとか、抱きしめたいとか・・・そんなこと思わなかった」

いつもとは異なった、包み込むような声色と真摯に語られる想いに、くすぶっていた疑問も不安もいとも容易くほどけてゆくのを感じた。

 

渦巻くものはこんなにもあっさり消え去ってゆくのに、どれほど苦しみ、嘆いていたのだろう。
本当に、簡単なことだったのに。
たった一言、それだけでこんなにも穏やかになるというのに。


――――僕はただ、お前を信じていればよかったんだね・・・


 

彼女と僕の違い
それは見守る想いと触れる想い

彼女の世界を壊さぬように外側から見守り
戦うことに涙する彼女の代わりに先陣を切って武器を振るう
それは彼女に対しての見守る想い

僕の世界にいろんな想いを抱いて手を伸ばし
信頼という言葉のように互いに命を預けあって戦う
それは僕に対しての触れる想い

彼女の世界を見守る彼と、僕の世界に触れる彼
ただ、それだけの違いだった

 



――――俺は一度だってお前をイレーヌの代わりだと思ったことはない!!


あのときの彼の言葉に偽りはなかったのだ。
今になって思う。
もともと嘘をつけない真っ正直な性格の彼が、どうして自分に偽ることなどできただろう。
無条件に優しくできる理由に、悲しい色などありはしない。
そこにあるのは特別な暖かい想いだけ。

 

「・・・本当に、すまな・・・」
「言うな!!謝ってもらうようなことなんか、何一つない!!」

無意識に出た謝罪の言葉を、強く遮る声に眼を見開いた。
ぐっと肩に力を込められれば、目の前にある眼差しの言わんとしていることを感じて、ふっと笑みが零れた。


――――そうだな、今はこの言葉の方がふさわしいのかもしれない・・・


「カルマン」
「・・・なんだ?」


お前を求めて
そっと手を伸ばした先
ゆっくりと顔を寄せて

重なり合う影は穏やかに闇に溶けて


触れるだけの優しい口付け
その後の極上の笑顔

そして・・・

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2006/09/24 (Sun)


長かった。
このイレーヌの代用疑惑ネタ、何パターン考えたか・・・。
今回のパターンと、エロ有のモゼカルまたはカルモゼetc…。
とりあえずぬるく終わらせてみた。
うん、エロとか無理無茶難題はできるはずないからね★

こんな微妙な関係が大好きです。
微妙な距離に一喜一憂する奴らが好きなんです。
これからもこんな距離感の話を書き続ける所存。
たまに冒険するかも知れませんがね(笑)
新月鏡