「距離」―Close to your distance―

 

 

悪い夢だと思いたかった。

 

 

無理やり目を閉じていてもなかなか寝付けなくて、少し肌寒くなった空気にさらに目が冴える。
思考ははっきりとしていて、ベトナムでの出来事を鮮明に思い出せてしまう。
沖縄で過ごした平穏な日常とは全く違う日々。
家族を失い離れ離れになって、拉致され、気付けばわけのわからない化け物と自分の身内が戦っていて。

 

秘密にされたくなくて、支えたくて、『一人で抱え込まないで』と言った。
自分にできることが何なのか、それが知りたい。
考えれば悩むことは尽きることがない。


止まらない思考に頭を振り、軋むベッドの上からできるだけ音を立てずに降りる。
隣で寝ているカイは身じろぎをしただけで、起きる気配はない。
リクはそっと扉を開けて、甲板へと足を向けた。

 

部屋から出ると、ふと波の音とは違う音が混じって聴こえる。
リクはその音に誘われるように足を進める。

 

――――優しくて、どこか寂しい音

 

聴き入ってしまうメロディーに心はいつもそう感じる。
扉を開けて、より鮮明になる音と風に眼を閉じた。

 

暗い夜の中、その色と同化したようにハジはいた。
予想と変わらずチェロを弾く彼に、リクはそっと近づく。
近づけば視線を上げ、見返してくる蒼い眼にリクは笑って返し、先頭まで歩いていった。


船先に切り開かれる波音が響くメロディーに混じって霧散してゆく音を、リクは甲板の柵越しに聴く。
湿った風が身体にまとわりつくが、気分が落ち込んでいるせいかもしれなかった。

 

しばらく柵に身体を預けて聴き入っていると、ふっと音が消え失せる。
振り返れば先ほどまでそこに座っていたハジの姿が消えていた。
彼がいた付近には蓋の開いたままのチェロケースと椅子に立て掛けられたチェロと弓だけが取り残されている。
いつも手放す様子のない彼が、それらを置き去りにしていなくなることに不思議な感覚を覚える。

 

そしてその感覚が過ぎ去ると、今度は心細さが現れた。
闇の中、一人きりで、波音だけが変わらない。
全てから切り離された空間のようで、リクは泣き出しそうになった。

押し込んでいたものが溢れてくる。
その感覚が怖かった。

 

 

 

 

 

すっと何かが自分の肩にかかったので、リクはびくりと身体を硬直させ、勢いよく振り返る。
あまりに勢いがつき過ぎて、背後にあった何かに思いっきりぶつかる。肩を押し止められて激突は免れたが、反動で足がよろめく。
改めて見上げればハジがそこに立っていた。

 

事態の理解に頭がフル回転していると、彼の手がリクにかかる布を引き上げ、かけ直した。
その動作に、あの時自分にかかったものが小さな薄い毛布であることがわかる。
見ていた目線を再び彼に戻すと、波にさらわれそうな声で彼は言った。

「そんな薄着では風邪をひく」

まだ暖かいとは言っても夜になれば肌寒くなるこの時期、確かにリクの服装は薄いと言えるかもしれない。
そう考えてリクはかけられた毛布をズレ落ちないように掴む。

 

「ありがとう、えぇっと、ハジさん」
「・・・ハジ、でいい」

呼ばれ慣れていないのか、むずがゆそうな表情を微かに見せる彼にリクは思わず頬が緩む。
したいことをして満足したのか、ハジはそのまま先ほどの場所に戻り再びチェロを弾き始めた。
リクは先頭から彼のいるところへ移動し、彼の座る椅子のその傍らにある段差に座る。

 

彼の傍で曲を聴いていると、不思議なことに先ほどまでの不安や孤独が消え失せる。
音に包まれて、リクは椅子の足にもたれかかり、眼を閉じて再び聴き入った。


いつも小夜がそうしているように、いや、むしろ彼が弾き続けるから小夜が聴き入るのか、それはどうかわからないが、チェロを弾く彼の周りの空気は心を静めるようだとリクは思った。

絡まり暴れる思考をなだめてしまう。
静かにゆったりと流れる刻に心の平穏を与えられて、行き詰った自分に余裕ができる。

 

――――ハジってほんとに不思議な人・・・

 

何も言わず、弾き続けるチェリスト。

彼の奏でる音色が彼の言葉であり、全てである。

リクはふとそう思った。

 

一曲弾き終えたらしく、音色が闇へと吸い込まれる。


訪れる数秒の沈黙に、リクは思わずハジに問いかけた。

「小夜姉ちゃんの力になりたいって思うけど、僕は、何ができるのかな?」

うつむき、搾り出すような声で言うリクに、ハジは眼をやる。

「小夜姉ちゃんは僕らのために戦ってくれてる。それにムイのことだって・・・」

ぽつりぽつりと言葉をおくる。
カイと同じく、自分が何もできないと悔しく思っているのだと。

 

苦しんで、怖がっていたムイ。
護ってあげたかった。
今も檻の中苦しみ続ける彼女を助けたい、そう望んでいるのに具体的にどうすればいいのかわからない。

 

 

「・・・小夜はリクの存在にとても救われている」


不意に上から声が降る。

答えてくれるとは思っていなかったため、リクは驚いて顔を上げた。
暗闇の中、ドア付近につけられた照明は遠くて彼の表情ははっきりとは見えないが、自分を見つめる彼はいつもより穏やかな気がする。

 

「今のままでいい」

低く心地よい声色で彼は囁くようにそう言った。
言い終えてハジはチェロを抱えなおすと、再び曲を奏で始める。

 

リクは彼の言葉に心が暖かくなるのを感じた。

今のままでいいのだと、何もできないわけではないのだと彼は言う。

ふと普段あまり喋ることのない彼が、今夜はよく言葉を交わしてくれていることにリクは気付いた。
眼に見えない優しさに笑顔が戻る。
その後リクは暗い夜とチェロの奏でるメロディーに抱かれて、静かに眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

朝、大きな怒鳴り声が船内に響き渡る。
その声にリクは思わず跳ね起きた。

 

気付けば自分はベッドの中におり、昨晩の出来事を夢だったのかと思って肩を落とした。

思い出せば鮮明に蘇る闇夜の出来事。
いつもの日常からかけ離れた日々の中の優しい一夜だった。

 

それが全て自分の夢なら、とんでもないことになる。
自分の悩みを聞いてほしくて現れた夢なら、カイや小夜でもいいはずなのに、その相手がハジとなると別問題だ。
無意識にハジとの会話を求めていたのかと急に恥ずかしくなる。

そんな思考に頭を振り、目覚めのきっかけとなった怒鳴り声の原因を求めてドアを開ける。

 

通路に出ると食堂の方から聞こえる怒鳴り声がカイのものであるとわかった。
慌てて食堂に駆け込むと、ちょっとした惨事になっている。


デヴィッドが疲れた顔でその事態に頭を抱え、ジュリアが困った顔をして、ルイスが苦笑いを浮かべる。
三人の視線はその中心にいる小夜に収拾を求めているが、当の小夜自身弱り果てていた。

 

カイがハジに突っかかり、一方的に怒鳴りつけているとしかリクの眼には映らない。
しかしカイの怒鳴り上げる言葉をよくよく聞いてみると、真夜中にハジがリクを抱えて部屋に入って出てきたところを起き出していたカイが偶然にも目撃してしまい、何をしてたか問い詰めているらしい。


ハジは何も言わないからなぁ、と困ったように小夜が小さく言う。

 

自分が原因でこんな事態になっていると知って、リクは慌てて仲裁に入った。

「やめてよ、カイ兄ちゃん!」

カイはリクの存在に気付いて、ハジの胸倉をつかんでいた手を離す。
リクはカイに『眠れなくて、ハジにチェロを弾いてもらってたら寝てしまった』と夜の出来事を大方削って話した。

 

それで一応問題は解決したのだが、相変わらずカイはハジに対して敵対心がむき出しのままだった。
憤りが収まりきらなくて、扉を乱暴に開いて出て行く。
それを小夜が心配して追いかけていった。

 

そんな二人を見て、リクは思わずハジに眼をやる。

彼にあるのはやはり変わらない表情。

もし今、彼の奏でる音色を聴けば少しはわかるのかな、と心のどこかでリクは思った。

 

そしてふとあの夜の出来事が夢でないと思い出し、佇む彼の傍へ駆け寄る。

「ハジ、あの時傍にいてくれてありがとう」

周りには聴こえない小さな声で、背伸びをしながら囁く。
リクの言葉に彼の雰囲気が穏やかになる気配が返ってきて、リクは明るく笑った。

 

 

 

 

 

『今のままでいい』

 

 

心の中に残る声は、奏でる音色と同じように優しく響く

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2006/01/29 (Sun)

題名、スペルミスってても笑って許してあげて下さい。
ベトナムから沖縄への帰還途中in船。
リクがいきなりハジを呼び捨てにすることに驚いて、思わず『嘘ぉ?!』と言ってしまったのです。
うん、絶対「さん」つけると思ってたんだ。
だから、こんな話を作ったわけですよ。
リクがカイよりずっと親しいわけ。
何かきっかけがあんだろ?あの帰りの船の中で何があったんだよ?!と思わずにはいられません。
さらに28日に見た16話で、あまりにもハジとリクが親しげだったんで、『マジで何があったの?!14話の餌付けが効果的面?!んなまさか!!』と脳内大暴走。
階段駆け上がり、PCに向かってこれを仕上げるという結果に。
前々から考えてはいたんですが、今日いきなり仕上がってしまった。
うん、衝動ってすごいねっ★!!
新月鏡