「波乱」

 

 

軽やかに吹いてくる風が頬を撫で、髪の間をさらさらと過ぎてゆく。
カイと小夜が彼の表情に驚いていたときのことだ。見たこともないほどの笑顔を目の当た りにして、二人は戸惑いを隠せずにいた。
そしてそんな雰囲気の中に、小夜を呼ぶ声が聴こえてくる。

「小夜、こんなところにいたのか。話がある」

軋む扉を開けて現れたのはデヴィッドだった。その場の穏やかな雰囲気に似合わない空気 を引き連れて、彼は小夜を呼びにきたのだ。デヴィッドが、話がある、と言ったときは必 ず翼手がらみだとカイも理解しているため、厳しい顔つきになる。そんなカイには眼もく れず、デヴィッドは小夜とハジにすぐさま部屋へ来るように言って去っていった。

「やっぱり、まだ終わったわけじゃないんだね」

寂しそうにつぶやく小夜を、ハジは眼を細めて見やる。カイは気にすんな、と軽く声をか けて部屋へ戻ることを促す。小夜もそれに頷き、幾分明るさを取り戻してカイに続こうと した。
だが小夜の身体は不思議な浮遊感に包まれる。

「あれ?」

気付けばハジが小夜を抱き上げていた。そんな彼の行動を眼にして、再びカイの表情が翳 る。理解できねぇ・・・。げんなりした表情で呑み込めない言葉をハジにぶつける。しか し、彼は当たり前のように言って返した。

「小夜は先ほど倒れた。身体に大きな負荷がかかっている」

淡々と述べる彼の主張にカイは、ここへ現れたときの小夜を思い出して納得した。別に抱 き上げなくてもいいとは思ったが、ハジに何を言ってもあまり通じなさそうだったのでそ のまま先を促す。
小夜はというと、なんとも言えない気恥ずかしさでいっぱいだった。確かにここ数週間、 身体にかなりの負担をかけたとは思っていたが、さすがに部屋へ戻るくらいのことはでき る。空いた手のやり場に困り、ハジが歩く度に軽く上下する浮遊感に慣れないでいると、 上から声が降る。

「小夜?」

見上げれば蒼。その色は穏やかで、心が落ち着いてくる。

「ん、なんでもない」

淡く微笑んで腕をまわし、首筋に顔をうずめる。甘やかされているなら、今はそれに便乗 しよう、そう小夜は思った。
ハジは小夜の行動に深追いの言葉はやらず、優しく抱えなおす。表情は変わらないが行動 に全てが表れる、そんな人なんだと小夜は再認識しながら、眼を閉じた。
カイはそんな二人のなんとも言えない雰囲気にかなり嫌そうな顔をして、かける言葉もな く所在無さげにしていた。これがデヴィッドたちのいる部屋まで続くと思うと、肩を落と さずにはいられなかった。

 

 

小夜とハジが呼ばれた部屋へと姿を消して、数十分経った。カイはその間、小夜がいなく なったと慌てているリクに会っていた。カイが二人と一緒だったと告げると、リクはほっ としたように胸をなでおろす。しかし、食事を取っていない小夜にまだ不安なようだ。常 日頃、あれだけの量の食事を平らげるのだ。一食抜いただけでも病気かと思うのに、それ が数週間続けば心配しないわけがない。

「話が終わったら、いっぱい作ってやれよ」

そう言うと、リクは顔を上げて元気よく頷いた。
そのあと、カイとリクが他愛もない話を続けていると、扉が開いて小夜が現れる。疲れの 残る顔色に、リクはどきりとした。やっぱり、小夜姉ちゃん無理してたんだ。そう思って 見つめていると、小夜の後から黒い影が現れる。
気遣うように小夜の身体を支え、出迎えるカイとリクの方まで導いてゆく。リクが椅子に 座ることを勧めると、小夜は衰弱しきった様子でゆっくりと腰を下ろした。

「何言われたんだ、お前」
「・・・ロシアへ行く、と。手がかりになりそうな人がいたんだって。私があの時、逃が さなければ終わってたかもしれない・・・」

思いつめたように小さな声で話す。

「気にすんなって。どうせ記憶取り戻すために行かなきゃなんなかったかも知れねえだろ ?俺たちがちゃんとお前の側にいるんだ、一人で背負うなよ」
「・・・うん」

優しい言葉に目頭が熱くなる。やっぱり『家族』は大切なものだと思った。一度切り替え てしまった価値観を思い返す。大事だと思うものは秤にはかけられない、頑なに順位をつ けていた以前の自分に新たな色を添えて、小夜は笑った。
暖かな雰囲気の中、ハジはふと思ったことを口にする。この空気を壊すかもしれない、と は思ったが、訊かなければならない気がした。

「・・・小夜、・・・あの者たちは貴女にどういう関係があるんです?」

その言葉に小夜の身体は硬直する。辺りの空気さえぴたりと流動をやめてしまったようだ。 小夜がゆっくりと傍らに立つ自分の従者を見る。その眼には驚愕の色が鮮明に輝いていた。

「・・・ハジ・・・」

小夜の声に訊いてはいけなかったと思わず後悔する。しかし、時は戻らない。

「まさか貴方、・・・記憶が・・・?」
「・・・」

黙り込む彼に小夜は詰め寄る。恐れていたことが起こっているのだ、知らないでは済まさ れない。

「ハジ、さっきの話でわからなかったことを言って」

返答はなく、視線を逸らして沈黙する。リクがそんな二人を心配そうな表情で交互に見や り、カイは小夜の問い詰めることに罪悪感を覚える。眠りを妨げたのはまぎれもなくカイ 自身であるからだ。

「ハジ!!」

声を荒げる小夜にハジは再び視線を戻した。今にも泣きそうな小夜の表情に思わず眉根を 寄せる。言いたくないが、彼は主の命には抗えない。

「・・・彼らの存在、ディーヴァ、シュヴァリエ、翼手、それら全てがわかりません」
「・・・っ!!」

小夜は息が止まってしまうかと思った。こらえていたはずの涙は零れ落ち、頬にやった手 をつたう。彼は戦いに関する記憶を全て失っていたのだ。崩壊する眠りの中、彼は小夜を 忘れまいと必死だったに違いない。彼女を護る、ただそれだけのために。

血の戦場を忘れた青年


目覚め始めた少女

 

 

『波乱』の名にふさわしく、何かが大きく変わり始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2006/01/28 (Sat)

ハッピーエンドは好きですよ。暖かい気持ちになるから。でも今回の話はそんなもので終 われるほど生易しくはない気がしてました。人間味が出てきたかわりに戦いを忘れたハジ、 戦闘に慣れ始めた小夜。実際これから記憶を失った二人は、手探り状態で戦闘に参加する ことになります。ハジの方はたぶん、身体が覚えてるんじゃないかとヤワなこと考えてる んですが。小夜も多少思い出してはいるものの、明らかにハジより重症ですからね。デヴ ィッドたちが大変です(笑)。ロシアの話が出てきましたが、この時点ではまだ「シベリア ン・エクスプレス」も見てません。気になります、早く見たい・・・とにかく早く。
続きは今のとこ書く気は皆無です。要請が多ければ書くかも知れんが、さすがにこれ以上 やるとえらい目に遭いそうで怖い。むしろ批判されそうで怖い。精神もろいんで思っても 口に出して言わないでって感じです。
次の小説からは「Diva」関連でなくなります。本編に沿って書けるようになりたい今日この頃。
新月鏡