act.8 〜逢はねば咫尺(しせき)も千里よなう〜

 

 

 

この、得体の知れない不安は何だろう。
抱きしめた人の儚さが、真っ赤になった目尻の涙の跡が、何よりもその不安を増大させる。
『お前は何も悪くない』と言ってくれた言葉の影に、一体何が隠されているというのか。
憤りの色を微かに纏う宇佐見さんから問いかけられたとき、俺の意識は吹き飛んでいた。
与えられた問いの意味を、零した答えの意味を、俺は何一つ理解できずにいたのだ。

 

「君と弘樹は、いつからまともに会ってない?」

静かに、押し込めた声が問いかける。
いつから?いつ…そう、いつだったか…。
最後に会って会話をしたのは、と巻き戻る記憶が遠すぎる。

「この時期は忙しくて、なかなか帰れなくて…ヒロさんも学会があって…」

それで?その事実から、何処まで記憶を遡ればいい?
いつ、どの記憶を見ても、ヒロさんと笑い合って話す記憶は出てこない。
最近は、人手の少なくなる夜に担当することが多く、一区切りになった頃を見計らって帰っても、ヒロさんは大学に仕事に出かけた後。
どうしても会いたくて、無理やり一時帰宅した時の記憶も、時計は無情にも深夜を指し示して。
そんな時間にまともに会えるはずもなく、極稀にヒロさんがソファーにもたれて眠っているのを見かけるくらいだ。
でも、その姿を見るだけでも、少しは気分が救われていたりして。
そっと抱き上げて、ベッドへ運んで、綺麗な寝顔をただ見守る。


――――できることなら話したい


そうヒロさんも思ってくれてることは知ってるから、話そうと思えばきっと相手をしてくれるだろう。
それはいつも、『帰ってきたら起こせ』と言ってくれる言葉から感じられる。
それでも、抱き上げても少しも反応しないところを見ると、それくらい疲れているのだとはっきりとわかるから、起こす気にはれなくて。
久しぶりに俺が帰宅できた日でも、ヒロさんは、俺と同じように無理やり眠りを妨げるようなことは絶対にしなかった。
ぐったりと眠りに囚われている俺の髪を、優しい指先で撫でていてくれただけ。
束の間の幸福を俺に与えるだけ与えて、仕事に出かけていってしまう。
次の休みこそは、と期待していた日だって、ヒロさんは学会のために外泊していたり、教授に付き合う約束があったり。

 

すれ違ってばかりの記憶を遡り続けて、やっとたどり着いた先。
『俺は大丈夫だから』と返してくれた、愛らしい表情が脳裏を掠める。

「…あれは…月の初め…?」
「えっ…?」

驚いたように声を上げたのは、宇佐見さんの同居人、たぶん恋人なのだろう高橋君だ。
大きな瞳は見開かれ、悲しげに揺れる。
それでも、俺にはどうしてそんな表情をするのかがわからなくて。
『月の初め』といえば、今日からえぇっと…4週間と数日…ほぼ1ヶ月。

…1ヶ月…?

 

「その間、ずっと…先生は独りで待ってたの?」

まさか、といったように、驚愕に震える小さな声が沈黙に波紋を描く。


…ずっと、『独り』…?


そう繰り返した瞬間、俺は泣きたくなるくらいの後悔に吐き気を覚えた。

 

どうして気付かなかった?

どうしてわからなかった?

 

会えないのはお互い同じで、同じだけ寂しいのだと思い上がっていた自分に憤りさえ感じる。
身体に異常をきたすほど、精神的に追い詰められているとわかって尚、俺はこの人の何を見ていたのだろう?

「ヒロ、さん…」
「っ…ちがっ……のわ、き…」

苦しげに見上げて、全て明らかになってしまったにも拘らず、いまだに俺を守ろうと、否定しようとしてくれる。
最初から、貴方は俺を傷つけまいとしてくれて。
その優しさがわかるから、余計に自分自身が許せない。


――――俺はまた、貴方を…貴方の心を置き去りにした…


会えないことが、寂しくないわけがない。
その気持ちはたぶん同じ。
けれど、職場という環境で忙殺されている俺とは違って、ヒロさんはずっと職場にいるわけじゃない。
プライベートの空間で、いつ帰ってくるかわからない俺を待ち続けることが、どれほどこの人の心を蝕んでいったことだろう。

「どうして…どうして言ってくれなかったんですか?」
「…それは…」
「一言…寂しいって一言だけでも言ってくれれば、俺は…!」
「そんなのっ、…言えるわけねぇだろ!」

場違いに責めるような口調になる俺に、遂にヒロさんは叫ぶように吐き捨てて、俺を押しのけた。
俯いた表情は、覆いかぶさるように視界を塞ぐ前髪で見えない。
ただ、震える肩が酷く心細くて、きらきらと光を宿して落ちていく涙の雫だけが、時を満たして。
ぎゅっと押し返していた手を握り締めて、ふらつく身体を支える姿に切なくなる。

 

「言えるわけ…ない…言ったところで何が変わる!困らせるって、ただの我儘だって…わかってて…わかってて…!」
「ヒロさん…」
「お前の足かせになるなんて…絶対に…―――っんン!」

激流のように押し寄せる感情に駆り立てられて、苦しげに言葉を紡ぐ唇を、無理やり自分の唇で遮る。
自分でもどうかしてると思えるほど、ただ想いに任せて抱きしめて、吐息さえ奪うように深く口づける。

どうしても、その先は言わせたくなくて。

泣かせたくなくて。

 

あぁ、この人の全てを攫ってしまいたい。


なんていじらしくて、なんてまっすぐな深い感情なんだろう。
苦しいくらいに想われるという幸福を、今、全身で感じていて。
俺が、ちゃんと気付いていれば、きっとこんな結果も生まなかっただろうという憤りと、これほどまでに想われているという嬉しさがせめぎあって、俺を翻弄する。

 

 

 

「泣かないで、ヒロさん…」
「う…、ぁ…」
「ごめんなさい…気付いてあげられなくて…ずっと、ずっと寂しい想いをさせて」

嗚咽を堪えながら止め処なくぼろぼろと涙を零す愛しい人に、許して下さい、なんて絶対に言えない。
追い詰めたのは自分で、泣かせたのも自分で、傷つけたのも自分なのだから。
ただ、ひたすらに謝って、抱きしめて、その涙を全部受け止める。
涙を流し続ける目元にキスをして、頬をなぞって、ゆっくりとまた唇に触れて、宥めるようなキスを贈る。
ヒロさんは、もう虚勢を張るだけの気力もなく、俺にされるがままに泣き続けるばかりで。
キスを何度も繰り返すことだけが、涙を止める術のよう。

「ヒロさん…ヒロさん…」

『ごめんなさい』も『好き』も『愛してる』も、他のどんな言葉も、キスを交えて囁くには相応しいとは思えなくて。
溢れる愛しさに任せて名前を呼び続ける。

泣かないで、傷つかないで、笑っていて。

ただ、その願いを込めて。

 

 

 

「野分…」

繰り返されるキスに紛れて、掠れた小さな声が俺を呼ぶ。
それこそキスに溶けてしまうような、甘い甘い、愛しい声。
掻き消えそうなほど儚く、まどろむように名前を呼ばれるだけで、俺は全てが許されるような錯覚に陥ってしまって。
ヒロさんの声が寂しげに揺れないように、しっかりと閉じ込めるように抱きしめて、長く触れていなかった感触を味わう。
ゆっくりなぞるように白い首筋に顔を埋めれば、擦り寄るように頬を寄せてくれる。

その場には宇佐見さんも高橋君もちゃんといるっていうことは、頭の片隅で理解してるから、決してその先を望むまいと、理性で必死に押しとどめて、優しいキスだけ繰り返す。
もどかしいようで、たぶん、何より幸せな行為だ。

 

「電話…出なくて、ごめん…」

そんな甘ったるい口づけの中、ぽつりとヒロさんがくれた謝罪の言葉に、ふわりと優しい気持ちが舞い戻る。
いつだってこの人は、俺の中の激情を宥めてくれる。
幾分落ち着いた表情に安堵すれば、自然と暖かな感情が溢れ出て。
そんな気持ちに柔らかく微笑んで、少しずつゆっくりと理由を催促すれば、『心の準備ができてなかったから』と、可愛い言い訳が転がり出てきた。

 

「嫌だったんだ…また、逢えないって聴かされるのが…」

 

お前の口から、それを聴くことが嫌だった


もし、それを聴いてしまったら?

 

何処にも行けないこの心は何処へ?


きっと耐えられずに壊れてゆく

 

『逢いたい』


でも、困らせたくない

 

言えば呆れられてしまうかもしれない


こんな奴って、飽きられてしまうかもしれない

 

離れていってしまう?

もういらない?

 

逢いたいのに


『逢いたくない』

 

 

 

「……怖がって、逃げ出して…結局、困らせただけで…情けねぇ…」
「ヒロさん…」

自嘲気味に次々と零れてくるのは、やり場のなかったヒロさんの孤独。
ぽつりぽつりと耳元に注がれる度に、俺は眩暈を起こしそうだった。
たどたどしくキスに応えながらの言い訳は、俺を完全降伏させる反則技だ。
嘆くほどに寂しいと思っているにも拘らず、俺の夢の邪魔にならないようにと、振舞ってくれていたなんて。

ヒロさんの気遣いは、きっと正しい。
俺は、ヒロさんに一言でも『寂しい』なんて言われたら、迷わず無理やりにでも傍にい続けるだろう。
そうするとわかっているから、バレないようにと水面下で行われる優しい気遣いに、泣きたくなるくらいの愛しさを感じる。
言い表せないほどの感情が押し寄せてくるから、押し込めるのに苦労して。

本当に、ヒロさんを好きになってよかった。
ヒロさんが俺を好きになってくれてよかった。

こんな気持ち、きっとヒロさんに出会わなければ感じることもなかっただろう。


――――…でもヒロさん…ひとつだけ間違ってます


それは、可愛い言い訳に宿る不安など、本来ヒロさんが感じるべきものではない、ということ。
忘れてしまったかもしれないが、そもそもその気のなかったヒロさんを落としたのは、この俺。
何が何でも手に入れたいと、逃げる背中を追って、追って、追い続けて。
この腕に捕らえたのは、紛れもない俺の意思。
俺が離れていく、なんてことはありえない。
俺が不安を感じても、ヒロさんが感じる必要など何もないのに。

それでも…

 

――――それでも貴方は、ありったけの想いを俺にくれるんですね

 

優しくて、愛しい人。
暗い絶望に囚われてなお、自分を求めてくれていた可愛い人。

 

 

 

「じゃぁ…もう無理だと思ったら、今度からは隠さずに俺に言ってください」
「でも…お前の迷惑に…」
「だったらコレは俺の我侭です。…ヒロさんが俺に、溜め込むなって言ってくれたみたいに、俺だってヒロさんの苦しんでる部分を一緒に背負いたい。貴方を守って、支えてあげたいんです」
「……ん…」

戯れのようなキスを続行したまま、まっすぐ見つめて、囁くように一音一音ゆっくりと声にする。
実はその言葉の裏に、ひっそりと宇佐見さんへの嫉妬心が隠れていたりするのだが、きっとヒロさんにはわからないだろう。
ぼんやりとした意識の中で、こくりと小さく頷いてくれるヒロさんは最高に可愛くて、反射的に力を込めて抱きしめてしまう。
少し痛かったかもしれない、ととっさに距離を取ろうとすれば、それを阻止するようにしなやかな腕が首に絡みついて。

「野分…好きだ…」

吐息に溶けるような甘ったるい声で、耳元にそっと囁かれる。
予想外の告白に、幻聴でも聴いたのかもしれない、と思ってしまった。
驚きのあまり、一拍遅れて我に返れば、涙に濡れた綺麗な瞳が俺を見つめてて。

「っ…はい、俺もヒロさんが好きです」

秘め事を囁くように返した俺の声も、傍から聴けば驚くぐらい甘い囁きだっただろうけど、ヒロさんの甘えるような声にはきっと敵わない。

 

擦り寄るように身体を預けてくれて、この上ないくらいに幸せすぎる『好き』も貰ってしまって。
なかなか拝めない素直な可愛さに、致死量の毒でも盛られたみたいに息苦しくなる。

きっと、ヒロさんは俺を幸せで殺す気だ。
無自覚な深い愛で、誰より確実に俺の寿命を殺ぎ続けるに違いない。
どうせなら一緒に、と願えば叶えてくれそうな気さえする。

どうしよう、もうこの瞬間に時間が止まってほしいと思うくらいに嬉しい。
別たれることもなく、ずっと一緒にこうして抱きしめあって。
閉鎖的な世界に、俺とヒロさんだけが取り残される幸福。
なんて幸せなことだろう。

 

絶対不可侵の空間を望むあまり、俺は、時間も場所も何もかも、頭の隅から吹き飛んでしまって。

「ヒロさん」

その名前だけが、俺の思考を埋め尽くす。
求められるがままに繰り返していた戯れのキスは、いつの間にか艶やかな色を混ぜたように深くなっていて。
焦がれ続けた愛しい人を腕に抱いて、尽きることのない溢れる想いに酔いしれる。
呼吸すらまともにできなくなりそうな甘い空気の中で、ただ幸せなぬくもりを感じていた。

 

 

 

 

 

* * * *

2008/08/21 (Thu)

サブタイトル
『逢えないと近くにいても千里の距離があるように思える』

フル↓
千里も遠からず 逢はねば咫尺(しせき)も千里よなう
(逢えるなら千里だって遠くない。逢えないと近くにいても千里の距離があるように思える)

近くて遠い、貴方を想う
ただ、それだけに、この恋が苦しい…


…この回を書いてる最中…完全に野分に憑依されてた気がします
ちょ、このヒロさん好きすぎる文章は病気だと思う!!


新月鏡