act.8.5 〜憂きにたへぬは 涙なりけり〜
アルコールに酔った勢いでぶち撒けた本心は、今まで懸命に悟られないようにしてきた秘め事。 正直、もう限界だった 耐えるということが、演じるということが 徐々に、それでも確実に『俺』という存在を狂わせる 教師として仕事をしている俺と、独り休日を持て余す俺 休日の日は、どう足掻いても独りなのだと思い知るから、家にいるのが嫌になる。 本を読んで気を紛らわそうとしても、珈琲を淹れにキッチンへ足を運べば、やけに沁みる静寂。 忘れようと努めていたものが、はっきりと眼の前に突きつけられて。 その孤独に呼び起こされた過去の記憶が、拍車をかけてくるからたまらない。 家にいるから気落ちするのだ、と決め付けて、財布と数冊の本を片手にすると、逃げるように家を出た。 陰鬱な気分を振り払うための、宛てもない外出。 不安がる心に対する、ささやかな抵抗だ。 公園、コーヒーショップ、本屋、少し遠出して湾岸沿いまで出たこともある。 気さくに誘ってくる連中を、適当にあしらって、名前も知らない人たちと他愛もない挨拶を交し合う。 薄っぺらい表情を作り変えて、ただ穏やかに過ぎて行く時間に、俺は徐々に実態を失っていくような錯覚に陥ってゆく。 『俺』は何処へ行ってしまったんだろう。 そう考えるのも億劫なほど、無気力に苛まれていた。 それに比べて、仕事に忙殺されている時はとても楽だった。 義務付けられた授業をこなして、決まった課題を出して、採点して、授業内容の進み具合を確認。 テストのことも考慮しつつ、自分の研究資料も集めたり。 いつも何かしなければと動き回っていた俺は、宮城教授に心配されるくらい没頭していた気がする。 何たって、余計なことを考えなくて済む。 今日は帰ってきているだろうかとか、もしかしたらとか、淡い期待が俺を殺す前に、どうか夢なら醒めてくれ。 眠りにつく直前のまどろみすら、耐え難いほどの寂しさが押し寄せてくるから苦しくて。 いつもいつも身体を酷使しては、泥のようにすぐさま眠りの世界へ落ちていく。 けれど、そんな抵抗すら、朝になれば無意味に変わってしまう。 肌に触れるシーツの冷たさが、今は何より独りの寂しさを突きつけるから、起きるたびに必死に言い訳をして自分を奮い立たせなくてはならなくて。 留学のときみたいに、いきなりいなくなったわけじゃない 何も不安がることなんてない 逢えないのは仕方ない、アイツも一生懸命頑張ってる 寂しい、そう思ってるのは俺だけじゃない それでも、俺がそう思ってることは絶対に気づかれちゃいけない 年上としてそんな情けない姿、見せられるはずがない しかも、バレた日には、変に過保護なアイツのことだから、絶対何かと気を遣ってくるに違いない 何度も口先で言い訳を繰り返して、洗面所へ向かい、鏡を見る。 その通路を通るついでに、そっと野分の部屋を覗いてしまうのは、もはや女々しい癖としか言いようがない。 何度否定しても、何度現実に裏切られても、儚い期待が俺を生かして殺してく。 冷たい水で豪快に顔を洗って、落胆する心を叱咤するように頬を叩けば、少しは気持ちが引き締まる気がした。 「俺は大丈夫」 情けない面を晒してる自分に向かって、暗示をかけるように呟く。 普段不摂生な俺への心配と、しばらく会えないことに渋っていた野分へ、俺が笑って言い聞かせたセリフ。 今は、最後に告げたその言葉が、唯一の支え。 傍から見ればくだらない、と笑われそうなくらい、自分本位なプライドの誓い。 まっすぐなお前が好きだから 振り向かないで、自分のことだけ考えてろ 俺ならこれくらい全然平気 ――――だから、お前はそのままでいて そうして自分に穿ったのは、密かな願いに見合うだけの戒め。 野分の夢の道のりは険しいから、誰より俺が味方になって応援してやりたい。 ましてや足かせになるなんてことは、絶対にあってはならないことだ。 そう、何度もくじけそうになる自分を支え起こす毎日。 それでも恋しいと想う日々は続いて。 ある日、移動した記憶のない寝室で寝ていたときには、耐え切れずに小さく泣いたのを覚えてる。 「野分…っ」 零れ落ちた呼び声は、しんと静まり返った空気に溶けて。 ――――優しさが、こんなに痛いと思う日が来るなんて… そうしてたまに残される懐かしい気配に、心は追い詰められ、演じ続ける自分と心の差異は日増しに増えるばかり。 軋むように弱った心が悲鳴を上げ始めたのは、野分と会わなくなって3週目。 気付けば俺は、食事をまともに摂らないようになっていた。
ちゃんと大学には行くし、仕事もする。 だけど家に戻れば何も食べる気にもなれず、そのまま眠りへ引き込まれるだけだった。 逃げ出せない現実から解放される眠りは、俺にとって最高の避難所となっていたらしい。 偽ることも、不安がることも、全部葬り去られた束の間の時間。 しかし、そのささやかな安息すら打ち砕いたのは、特別に設定されたケータイの着信メロディーだった。 最初は、久しぶりに聴いたメロディーに安堵して、抑え切れない期待で満たされていた。 慌ててケータイを手にとって、ディスプレイに『メール1件』の文字を見るだけで、少しは救われる気がした。 ふと思い出してカレンダーを見れば、赤い丸のついた日にち。 もうすぐ帰って来てくれる、逢えるのだと、その時はただ嬉しかった。 しかし、いざメッセージを見ようと思えば、俺は受信ボックスすら開くことができなかった。 凍りついたように、指先が意思を無視して硬直する。 何故?どうして?と混乱する思考の端で、ひっそりと息づく闇が俺に囁く。 ――――もし、また現実に手酷く裏切られてしまったら? あぁ、そうだ…淡い期待が無惨な亡骸を晒すのを、またこの目で見ろというのか。 今度そんな目に合えば確実に動けなくなる。 よく考えてもみろ、わざわざメールしてくる内容って何だ? 何事もなく無事帰って来れるなら、『もうすぐ帰ります』なんてバカバカしいメールは必要ないはずだろう? だったらコレは何のメール? 次々と沸き起こる不安材料の疑問は、後を絶たない。 不安と期待と、ない交ぜにされたまま思案を試みていた矢先、次は追い討ちをかけるように着信音が鳴り響いた。 「う、ぁ……やっ…」 決心のつかない状況で突然示された着信に、俺はパニックになってケータイを放り出した。 カシャン、と床へ落ちた音は、俺の心が折れた音のよう。 何度もかかってくる電話に出れなかったのは、深く根づいている孤独から生まれた恐怖のせい。 過去に培われてきた孤独が、今も尚、俺を暗闇へ招くから、どんどん思考が落ちてゆく。 声が聴きたい、話したい。 でも、もしまた『会えない』という事実の再確認だとしたら? あの声で告げられることが、何よりこの心に絶望を呼ぶ。 急かすように鳴り止まないコール音。 耳を塞いで、逃げるようにリビングから寝室へと足早に向かって扉を閉める。 うずくまって外界を閉ざしてしまえば、もう何処にも行けなくなっていた。 徐々に世界が閉じていく感覚は酷くドロドロとしていて、そのくせ安心感を与えてくれるから、コレでいいんだと錯覚して。 「もう…いやだ…」 待つことも、望むことも、何もかも投げ出せたらいいのに。 想わなければ、感情さえなければ、どれだけ楽に生きられるだろう。 嘆くしかない声ならば、嗄れてしまえばいい 見ることも叶わぬなら、潰れてしまえばいい 苦しいだけの身ならば、いっそ滅んでしまえばいい お前が俺の傍にいないから、振り切ったはずの闇がまた、こうして俺を捕らえて離さない。 耐えろ、突き放せ、と自分を奮い起こそうとしたところで、自分ひとりで退けることなどできるはずがない。 叶わない片思いに気付いたあの幼い時から、ずっとこの孤独だけが俺の傍にいたのだから。
――――あぁ、俺はまた…戻ってきてしまうのか…
「…弘樹」
落ちる音。 冷たい指先が目尻のラインを優しくなぞっていく。 はた、と気付いて顔を上げれば、雫となって零れ落ちていく想いの欠片。 囚われた闇の中で立ち尽くす俺を呼ぶ声。 決して闇に呑まれることのない『白』の輝き。 「弘樹、逃げてばっかりいないで向き合え」 強く、叱咤するような声色が、逃げ惑う俺を引き寄せる。 ぎゅっと閉じていた目蓋を押し開ければ、その先に映る、心配げな表情をした秋彦の姿。 迷子の俺に、行く先を示してくれる道標。 「大丈夫だ…何があっても俺たちが絶対守ってやるから」 低く心地よい声色が、閉ざしていた心にやんわりと降って来る。 次第に光を取り戻してゆく感覚は、酷く奇妙で不安定だったが、守るように抱きしめてくれる熱が支えていてくれたから、その光を嫌だと思うことはなくて。 ただ、震える身体が、俺の弱さと真実を物語る。 拭いきれない不安の闇が到来することに、どうしても怯える心は穏やかではいられない。 向き合うことがこんなにも怖いなんて、誰が想像しただろう。 簡単に自分を闇へ投げ出してしまえる俺に、アイツは呆れてしまわないだろうか。 少しも優しくできない俺を嫌いになってしまった? 俺とはもう逢いたくないと、そう告げに来るのだろうか。 ただ、野分に嫌われてしまったんじゃないか、ということだけが気がかりで。 願うことなら、何も言わずに抱きしめてほしい 突き放すなら、その一瞬先を忘れさせてほしい ただ一度でいい、それだけでいい それだけでいいから… 「ヒロさん!」 聴きたいと望んでいた声が、切羽詰ったように俺を呼ぶ。 怯えるように反応した俺をとっさに庇ってくれた秋彦の肩越しに、そっと盗み見る先。 険しい表情で佇むのは、紛れもなく焦がれた姿。 涙で滲んでしまった視界に、懸命にその姿を捉えれば、喉の奥でつかえた音が胸の内で嵐を起こす。 ――――『野分』、『野分』、『のわき』…のわ、き… 逢いたくて。 逢いたくて。 怖がる気持ちすら凌駕するほど、心はただ求めて。 野分と向き合ってしまったら、忘れ去っていた不安が蘇ってしまうとわかっていながら、それでもその腕で抱きしめてほしくて。 渦巻く孤独や寂しさを忘れさせてほしかった。 全部、攫っていってほしかった。 そうして諦めていた俺を待っていたのは、恐れていた現実とは真逆の包み込むような優しい口づけで。 なけなしのプライドも、現状も、全て崩壊してしまったら、もう隠すものなど何一つなくて。 堪えきれずに零れる涙を拭うことも忘れて、野分がくれる優しい慰めに身を委ねる。 謝罪も、格好悪さも、不安も、怖がる心も、全部受け止めて、愛してくれるのだとわかったから、それでいい。 そしてまた、優しさに安堵する一方で、俺は、今もまだ見守っていてくれているだろう幼馴染を想う。 馬鹿みたいに意地っ張りで、情けないくらい弱ってしまう俺だから、気付いて手を差し伸べてくれる幼馴染には感謝しても仕切れない。 秋彦からの呼びかけがなければ、きっと今もあの暗がりの部屋で独りうずくまっていただろう。 それから、たぶん、野分とも会えなかっただろうし、会ったところでまともに話せなかったと思う。 大好きな声で呼びかけられることも 大きな手のひらで抱きしめられることも 熱を持つ唇で、この上なく優しくキスされることも あの暗い世界にはきっとない 伸ばした腕に応えてくれる人がいること。 それはどれだけ俺を救い上げることだろう。 寂しさに殺がれ続けた日々すら、今この時の幸福のために、絶対必要な期間だったのかもしれない、とさえ思えてくるから不思議だ。 あんなに酷くて寂しくて、絶望じみた日々だったのに、今ではこんなに愛しく思える。 ――――あぁ、本当に…俺は、お前じゃなきゃダメなんだな… 野分が傍にいないと、こんなにも俺は弱くなる。 いつも手招きする闇から逃げられなくて、信じることすら困難で。 手放してやれなくてごめん こんな可愛げのない奴でごめん でも、それでも、俺にはお前が必要不可欠で… 包み込むような優しさに触れるだけで、張り詰めていた心が全部ほどけてゆく。 こんな気持ちを何と言うのだろう。 『好き』が止め処なく溢れるから、言葉が喉につかえて上手く出てこない。 「野分…」 無意識に紡ぐ唇は、何よりも大事な音を奏でて。 その音にありったけの想いが溶け込んで、あいつに届けばいい。 そうすれば、ほら… 「ヒロさん」 ふわりと微笑んで抱きしめてくれるから、押し寄せる温かい気持ちに涙が止まらない。 『好き』 『大好き』 ――――『愛してる』
「野分…好きだ…」 溢れる涙をそのままに、形を持たぬ想いを囁いて。 愛する人へ贈るのは、精一杯のキス。
* * * * 2008/09/13 (Sat) サブタイトル 『このつらさに堪えかねるのは涙』 フル↓ 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり (思う人に逢えないで、こんなに思い煩っていても、それでも命だけはどうにかあるのに、このつらさに堪えかねるのは涙で、後からあとから、こぼれ落ちることであるよ) 恋焦がれて、やっと逢えたら 精一杯の『好き』を囁いて… えー…ヒロさんも、野分を好きすぎます。 むしろ書いてる私がエゴ組好きすぎです。 病気だ。 新月鏡
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