act.7 〜逢うことの 絶えてしなくば なかなかに〜

 

 

 

押し開かれたドアの先で、ウサギさんの背中を見つけて声を掛ければ、ゆっくりと振り返ってくれる。
でも、その腕に抱きしめられている先生の姿を見て、俺は何だか近づきがたい雰囲気を感じていた。
絵になるような2人、とはよく言ったものだ。
と、そこまで思って我に返る。
あれ?もしかして俺って、先生にちょっと嫉妬してるのか?
こんなときに!というかすっげ乙女っぽいぞ俺!と軽い自己嫌悪に苛まれる瞬間。
それと同時に、傍にあった人の息を呑む気配も感じられて、思わずむかむかする気持ちもふっ飛んで、視線をそっちへ振った。

「ヒロさん!」

制止の声を掛ける間もなく、黒い影が一目散にウサギさんの元へ走って行ってしまった。
切羽詰った呼び声に反応して、怯えたように身体を硬直させた先生の姿がちらりと映る。
そんな変化を即座に感じ取ったのか、背を向けるようにして庇うウサギさん。
何ともいえない拮抗状態が、緊迫した空気をより一層強めた。

「落ち着け、お互いに話し合うために呼んだんだ」
「あっ…すみません…気が、急いでしまって…」

先生と草間さんの間を分かつように手で制して、静かにウサギさんがたしなめると、草間さんは、途端に失態だ、といわんばかりの表情になった。
どことなく、焦っているような苛立ちと、ウサギさんに対して反発的な空気を感じる。
知り合いだと言っていたが、2人の間で何かあったのだろうか。

 

「ちょ、ちょっと待って、ウサギさん!この人、先生の恋人の代わりに迎えに来ただけだよ?話し合いなんて…」
「代わり?……あぁ…そうか……」

あまりにも息苦しい空気に、喘ぐように取り繕った言葉を投げれば、今度はウサギさんが少しげんなりした様子になってしまった。
あれ?俺って空気読めてない?
でも、間違ったことは言って…

「美咲、彼は弘樹の恋人だ」
「…は?」

突然、横殴りにされた気分だ。
誰と誰が恋人だって?
眼を白黒させていると、呆れたようにため息を吐いて、ウサギさんが説明してくれた。
草間さんと先生がもうずっと前から恋人同士だってことと、草間さんが研修医として病院で働いてるなどなど、謎の人である彼の表面的な素性も明らかにしてくれた。

『草間さんと先生が恋人』という青天の霹靂さながらの真実に、ぐらぐらと頭を煮やしつつ、先生が俺とウサギさんの関係に何の抵抗もなかったのにも納得がいった。
先ほどの草間さんとの奇妙な会話もつじつまが合う。
なるほど、道理で俺に言葉を濁したわけだ。
こんな大事なこと打ち明けられてないんじゃ、そりゃ何も言えないよね…って。

「ウサギさん、なんでそれを早く言ってくれなかったの?!」
「俺は言ったはずだ。ここに来る奴にあらかじめ釘を刺せ、と」
「い、言ったけど、それじゃぁ俺わかんないよ!」

おかげさまで、先刻の玄関先では、いらぬ奇妙な空気を味わってしまったではないか。
しかも今は、完全に空気の読めない人間としてのレッテルが貼られてしまった気がする。
出来ることなら今すぐひっぺがして、弁解したい。
そわそわと一人、居心地の悪い気持ちでいると、鋭く息を吐いたウサギさんが草間さんに向き直る。
何だか、怒っている風にも見えて、ピリピリした空気だ。

 

「本題だが…君をここに呼んだ理由はわかっているか?」
「……話し合い、ですか…俺には、貴方と話すことなんて何もありませんが」

涼やかに流れるウサギさんの声とは違って、幾分暗い静けさを伴った声だった。
俺と話していたときとは別人のような威嚇めいた声色に、思わず身がすくんでしまう。
俺には背中しか見えないけれど、正面から見たら、きっとその声に相応しい険しい顔をしているに違いない。
初めて会ったときの印象からかけ離れた雰囲気に、またこの人が一体どういった人なのかわからなくなってゆく。
先生には決して害は無いと思っていたが、それは思い違いなのだろうか?

 

 

「…秋、彦」

しんと、張り詰めた空間に、かすれた声がウサギさんを呼べば、その頼りない声に、全員の視線が弾かれたように声の主へ向かう。
だいぶ落ち着いてきたのか、先生は、もぞもぞとウサギさんを押しのけるようにして、ゆっくりと距離を取った。
俯きがちの顔は、それでも青白く見えて、俺の中の不安が膨らんでゆく。

「どうした?」
「…もういい…俺、帰る、から…取り乱して悪かった…」
「なっ…よくない!お前…」
「…いい…帰る…」
「弘樹!」
「いいっつってんだろ!」

力ない怒声に空気が震えた。
食い下がろうとするウサギさんの手を振り切って、それこそ斬り捨てる落雷のように言葉を殴り捨てる。
たぶん、今の先生に持てるだけの力で叫んだのだろう、荒く上下する肩が痛々しい。

「……野分」
「はい」

乱れた呼吸を繰り返して揺らぐ身体を、黒い長身が覆うように抱きとめる。
抱きすくめるように、閉じ込めるように背後から抱きしめられた先生は、一瞬びくりと身体を震わせて身を預ける。
が、何を思ったのか、今度は草間さんがはっとしたように先生を引き離した。

「…野分…?」
「…ヒロさん…なんて…」
「やっと気付いたか。その原因を話そうと言ってるんだ」
「原、因…?」

驚愕したように眼を見開く草間さんを他所に、先生は、俺と同じように困惑した表情になっていた。
独り言のように零された呟きは、ウサギさんに苛立ちを込めたため息を吐かせる。
俺にはわからないことが、この2人には手に取るようにわかるらしい。
置いてきぼりをくらって、戸惑っていれば、確信めいたウサギさんの声が草間さんを追い詰めるように投げられる。

「こいつ、すごく痩せてるだろ。俺もさっきは驚いた。そして…その原因が君だと言えば、話を聴く気になるか?」
「っ止めろ!」
「ウサギさん!」

飛び掛る勢いで胸倉を掴む先生に、ウサギさんが殴り飛ばされ、雪崩れ込むように床へ激突する。
驚いた俺は、慌てて揉み合う2人の間に割って入ろうと試みるが、この中で一番身長のない俺がどうにかできる相手じゃない。
しかも、先生に至っては、本気でウサギさんに怒ってる。
何で?どうして?俺には、ウサギさんが先生を守ろうと言葉を尽しているようにしか見えないのに。
何故先生がそれに反発するのかがわからない。

 

「俺が…原因?」
「違う!野分、お前は何も悪くない!俺が、勝手に…」
「…だったら、どうして電話に出てやらなかった?逃げ回る必要は無かっただろう?」
「秋彦!」

冷ややかとも取れる声色で、淡々と告げるウサギさんに、神経を逆撫でされた先生が激昂して怒鳴る。
ウサギさんに馬乗りになった状態のまま、押さえつけるように床へと叩きつけて。
打ち付けられた痛みに呻くウサギさんの声に、俺は泣きそうになった。
やばい、このままだと、先生はウサギさんの首を絞めかねない勢いだ。
止めないと、と思う前に、俺は弾かれるようにして先生にしがみついてすすり泣いていた。

「止めてください、先生!何でウサギさんを責めるの?何にも悪いこと言ってないのに…!」
「っ…いい、美咲…俺は平気だ」

そう俺に言うが早いか、ウサギさんは気の緩んだ一瞬をついて、先生を押しのけると、逆に押さえつけに掛かった。
呆気に取られている間に、肩を押さえつけ、無防備になった両手をひとまとめにして、上から体重をかけて身体の節を固定する。

「は、離せこの野郎!くっ…」

ウサギさんに組み敷かれた先生は、いきなり反転した視界に、憤怒と悔しげな色を浮かべて射抜くように睨み付ける。

「っ…ヒロさん!」
「近づくな」

声を荒げて抗議する先生に我に返った草間さんは、誘われるように足を一歩踏み出す。
しかし、それ以上は許されず、冷たい声が圧倒的な重圧を伴って制止をかけた。
徐々にウサギさんの声色が無機質になっていってる気がする。
静かな怒りを垣間見た俺は、ウサギさんへ伸ばすに伸ばせない腕をどうするか迷い、行く当ても無く手元に戻してしまう。
こんなときのウサギさんは、本当に怖いから、迂闊に触れることが出来ないのだ。
息を詰めて見守る中に舞い降りた沈黙が、息苦しい。
殺伐とした空気を色濃くして、ただ時計の針だけが、何事も無かったかのように時を刻んでいるばかりだ。

 

 

「…わかりました…ちゃんと最後までお聞きします。だから、ヒロさんを離してください」
「野分…っ!」

幾分穏やかになった声に、かすれた怒声が短く否と叫ぶ。
しかし、抵抗心むき出しだった先生は、注がれる視線に何を見たのか、声を詰まらせて硬直する。

「ヒロさん…最初から俺は、帰ったら訊くつもりだったんですよ?」
「っ…」

悲しそうな眼が、ぐっと唇を噛んで耐える先生をじっと見つめる。
ウサギさんへ言葉を投げかけていても、決して逸らさず、ただひたすらに。
その視線に苦しそうな表情をしたのは先生で、激化していた抵抗も急激に沈下してゆく。
ウサギさんの拘束が解かれても、まだその姿勢のまま一点を見つめ続けていて。
今は草間さんだけしか見えてないみたいだ。
そんな視線を一身に受けてる草間さんは、横たわる先生の傍に片膝をつくと、慌てるでもなく、そっと、柔らかく抱きしめるように先生を抱き起こした。
そして先生もまた、そうされて初めて諦めたように俯いた。
肩口に頭を預けるようにして、視界を黒で隔絶する姿は、酷く儚くて。


そのとき、俺は初めて草間さんが本当に先生の恋人なんだと思った。
どことなく感じる危うさを、全部包み込んでしまえる夜の色。
その色が、先生に安息の時を与えるように世界を拒絶するからだ。
おそらく、草間さんが関係する閉じた世界だけが、先生を脆くするのだろう。
そしてまた、そんな先生を救えるのも、支えるのも、草間さんだけなんだと漠然と思った。

 

 

 

「それで、宇佐見さん」
「あぁ…まず、君に訊きたいことがある。弘樹がこうして逃げ回る理由に、心当たりはないのか?」

促された先、手初めに、と重要な証言を得るための質問を一つ投げる。

「…ありません。今日、久しぶりに逢うくらいですから…」
「そうか」
「はい…だから、俺がヒロさんの気に障るような何かをしたのなら、教えてください!」

ぐっと視線を合わせてくる黒い瞳は、固い決意を秘めたように力強くて、気後れした俺が息を飲むほどだ。
返された回答に、ウサギさんは一体どう切り返すつもりだろうか。
そっと、細波立ったウサギさんの機嫌を伺うように傍に寄れば、小さく息を吐いて俺の手を捉えてきた。
握りこむように絡められた指先は、はっきりとした温度差を俺に教えてくれて。
押し殺した声みたいに凍りついた指先に、熱を分けてやりたくなって仕方ない。

 

 

「今回のことで、君の肩を持つ気はない……俺が弘樹なら、絶対に耐えられないからだ」
「ウサギさん…?」

ぎりっと力の込めて握りこまれて、小さな痛みがウサギさんの変化を物語る。
感受性の強い人だから、まるで自分で致命傷を受けたように、みるみるうちに表情が苦渋に染まってゆく。
俺にはどうすることも出来ないことが悔しくて。
願うように、しっかりと大きな手を握り返すしかできないなんて、どれだけ俺は無力だろう。

 

「美咲が大阪へ行った短い時間ですら…俺は仕事も手につかず、ただむなしい日々を過ごすばかりで…挙句、耐え切れなくなって攫いに行ったくらいだ」
「それって…」

思わぬ言葉に、俺はとっさにウサギさんを見上げた。
俺が大阪へ行ったあの時は、兄ちゃんが俺を引き取るって言ってて、本気でウサギさんとの別れを決意したときだ。
家族の暖かさだとか、兄ちゃんなりに想ってくれてて。
それが痛いほどわかる分、自分の気持ちにもはっきりとした色をくれた過去だった。
あったかい家族の中で、無性に会いたいと恋しくなったのは、他の誰でもない、ウサギさん。
抱きしめに来てくれたときには、本当に崩れ落ちそうなくらい嬉しかった。

迷惑を掛けたくない。

自分のわがままで、振り回しちゃいけない。

そう言い聞かせて諦めようとしていたから、その日にくれたウサギさんの言葉は、ずっと俺を優しく包んで守ってくれてる。
迷惑なんていくらでもかけろ、と囁いてくれた声すらも鮮明に思い出せるくらい、苦しくて嬉しい、大事な思い出。
あの1週間足らずで、俺とウサギさんは一人の寂しさを味わって、お互いどれだけ惹かれてるのかを思い知ったのだ。
だから、苦しそうに吐き出されたウサギさんの問いに、痛むような錯覚を覚えて。


――――『君と弘樹は、いつからまともに会ってない?』


思い出したくも無い、と吐き捨てるように問いかけられた疑問は、それ自体が答えのようだった。

先生がどうして、真実を明かそうとするウサギさんに反発したのかすら、俺にはわかってしまって。
そこまではっきりわかった瞬間、先生が俺にくれた言葉の数々が思い出されて、巻き起こるフラッシュバックに眼が眩む。

 

 

『大人になりゃ、嫌でも周りを気にして、迷惑かけないように気を配らなきゃなんねぇ』

 

――――諭すように告げられた声は、どんなだった?

 

『甘やかされるだけ甘やかされてろ』

 

――――あのときの視線に込められた想いは、どんな色だった?

 

『待ってんだから帰ってやれ』

 

 

――――そう言って微笑んでくれたのは、待つ側の痛みを知ってるからじゃないのか?

 

 

 

いつから?

どれくらい長く?


その痛みを、どれほど深い想いで押し殺してきたの?

 

 

ぐっともらい泣きしてしまいそうになるのを耐えていれば、質問に答えて返された真実に、俺は悲しいくらいの寂しさを味わって。

 

「その間、ずっと…先生は独りで待ってたの?」

 

 

その日、初めて俺の声が、リビングにエコーを残した。

 

 

 

 

 

* * * *

2008/08/06 (Wed)

サブタイトル
『私があなたと逢うことが全然なかったとしたら…』

フル↓
逢うことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
(私があなたと逢うことが全然なかったとしたら、かえって今のようにあなたのつれなさも、わが身のつらさも恨むことはないであろうに)

理由判明。
よくある理由、そんなことかっていうくらい些細なこと。
でも、傷ついた心にはどう映るだろう…?


新月鏡