act.5 〜しづ心なく 花の散るらむ〜

 

 

 

呼び鈴が、コレほどまでに怖く感じたのは、初めてかもしれない。


一般的な機械音が来客の存在を告げた瞬間、見るからに硬直した先生の表情が脳裏に焼きついて。
あんなしっかりした人を追い詰めることの出来る恋人なんて、全く想像がつかない。
俺にできることといえば、事を穏便に進められるように、先生がある程度落ち着けるまで時間を稼ぐことくらいだろうか。
しかし、玄関先で何を話せばいいだろう。
というか、そんな怖い人相手と話せるのかどうかすら、俺には危うい気がしてきた。
そんなことを悶々と考えながら、先生をウサギさんに任せて足早に玄関の方へ向かう。
焦るように再び呼び鈴が鳴って、さすがにこれはさっさと開けた方がいいだろう、と玄関のドアを開ければ、真っ先に飛び込んできた黒い壁。

「あれ?」
「あ…こんにちは…」

視線がかち合わず、きょとんとしていれば、頭上から少し息の上がった柔らかい声が降ってきた。
驚いて見上げれば、さらに驚く身長差に一瞬フリーズする。
で、でかっ!何センチあんだこの人。
見上げてもまだ足りなくて、首が痛くなりそうだ。
おそらく軽く190cmあるだろう人は、まだ外が明るいというのに、夜を全部集めたような色を纏っていた。
決して近づきがたい色じゃなくて、安心するような、掛けられた声に良く似合う穏やかさだった。
そして、ふと、意識が霞むような既視感に襲われて呆然とする。

 

「…あの、…?」
「え、あ…すみません、いきなり失礼なんですが、何処かで会いませんでしたか?」

一方的な沈黙に、少し困ったように真っ黒な瞳が見つめてくる。
そんな眼をじっと見返して、初めて顔を合わす客人を前に、疑問に思ったそのままが、無意識に口から零れ出ていた。
こんなでかい人、そうそう会える人じゃないから、何処かで絶対会ってる気がする。
変な確信を胸に、お互い小首を傾げて記憶を掘り起こす。

「えと…患者さん、じゃないですよね……じゃぁ花屋かな?」
「あ!そうだ、店員さん!」
「……あぁ!思い出しました。薔薇の花束のお客さんですよね?」

一気に巻き戻る記憶に弾かれて指差せば、相手も思い出したのか、にっこり笑って答えてくれた。
いつのことだったか、ウサギさんの授賞式を知って、慌てて何か、何か!と探していた俺は、無難に花束を選んだのだった。
ただ、所持金の少なさと選んだ花から、豪華な花束なんて期待してなかったのに、眼の前の長身の店員さんは、今と同じようににっこり微笑んで、小さな花束を立派な仕上がりにしてくれたのだ。
『プレゼントの包装、一生懸命悩んでらしたのを覚えてます』、とまで言われて顔が一気に熱くなる。
確かに、あの時は花束にしよう!と即決した割りに、時間をかけてリボンやらカードやらの装飾品を悩んでいた。
そんなに長い時間だったのか、と気恥ずかしさで視線が泳いでしまう。

 

「プレゼントは、喜んで頂けましたか?」
「あ、はい!あの時はありがとうございました!」
「それはよかったです」

お互いににっこり微笑み合って、玄関先で話に花が咲く。
薄く開けていたドアすら、今ではほぼ全開状態で、無意識に迎え入れる気満々の様子だ。
まぁ、そのときの俺は、そんな自覚すら全くなかったのだが。

「宇佐見さんが出てくると思ってたんで、ちょっと驚きました。まさかこんな形でお会いするとは…」
「俺もです!まさかあのときの店員さんが、ウサギさんと知り合いだったなんて…」
「不思議な縁ですね。あ、そうだ、名前がまだでした。草間野分、といいます」
「あ、わ…俺は、高橋美咲っていいます。ここで家事全般する代わりに居候させてもらってるんです」

まぁ、普通、『宇佐見』と表札に書いてある家から、別人が出てくるとは思わないだろう。
取り繕うように慌てて理由も付け足して、軽い挨拶を交し合う。
草間野分、と名乗った男の人は、どうやらすでにウサギさんとは面識があるらしい。
先生を迎えに来たことといい、ウサギさんと知り合いだということといい、この人は一体どんな人なのか、挨拶だけじゃまだ掴めない。

「家事全般なんて…しっかりされてるんですね」
「そ、そんなことないです!好きだし、楽しいですから」

差し障りない、玄関先でのやり取りは順調で、ほわん、と和やかな雰囲気に、目的を忘れていた俺は、思わず笑顔で返答してしまう。

 

ここにいる相手は誰なのか。

何が目的で訪れたのか。

それはウサギさんから教えられて、最初からわかっていたはずなのに、抱いていた疑念を綺麗さっぱり払拭できるほど、訪れた客人は好印象しか与えない。
微笑んだその表情も、雰囲気も、穏やかで優しいから、当たり前に訊ねられた言葉にはっとするハメになった。

 

「ところで、こちらにヒロさ、上條さんがいらっしゃるって聴いて迎えに来たんですが…」
「あ、そ、そう、なん、ですか…先生をお迎えに…!」

思わず詰まって、上ずった声が出てしまった。
すっかり警戒の解けてしまった俺は、相手からの質問で、初めて自覚するに至ったのだ。
当初の目的である、時間を稼ぐこと、はしっかり全うしただろうが、さすがにここまですっきり記憶の彼方に葬り去っていたと思うと、後ろめたい。
しかも、いきなり本題を持ってこられてしまった。
これからどうやって時間を稼げばいいのだろうか。

「えと、先生は…」
「……高橋君は、M大生の方ですか?」
「ひぇ?!は、はいぃっ!」

しどろもどろで言葉に詰まっていると、草間さんはきょとんとした様子で小首を傾げた。
奇声のような返事を聴いて、『ヒロさんが生徒の前で酔うなんて…』、とぽつりと零して、何処か神妙な顔で少し考えた風だった。
先生がお酒を飲んでいることは、どうやらウサギさんがすでに伝えたことだったようだ。
俺としては、そこで即座に『M大生』だとバレたということに、プチパニックに陥ってしまっていて、そこまで頭が回らなかった。
別に草間さんにバレたって、何の害にもなるはずないのに。
どっちかっていうと、すでにバレてる先生の方が厄介だ。
いや、肯定して受け入れてくれたし、相談に乗る、って言ってくれてるので、信じてるけど、あまりの急展開に少しだけたじろいでしまう。

 

 

 

「えと、じゃぁ、あの…ご、ご案内します…」
「お邪魔します」

話題のネタも何を振っていいのかわからなくなってしまった俺は、どうにも出来ずに家に上げることにした。
さすがにこれ以上玄関で粘るのも変な話だろう。
先生を連れて来ようにも、あんな様子じゃ無理そうだし。
半歩足を下げて通路を少し開けると、その流れのまま奥へ手のひらを向ける。
広い玄関に躊躇いもなく足を踏み入れた草間さんの表情は、先ほど話していたときとは違って、何処か硬い印象を受けた。
考え込むように伏せ目がちになった黒い瞳からは、何も読み取ることは出来ない。

「…草間さんは、先生とどういったご関係なんですか?」
「え…?」

差し障りない会話、差し障りない会話、と心で唱えて、見つけた話題を振れば、草間さんはきょとん、としたように少し眼を見開いた。
何か間違った質問をしただろうか。

「あぁ、すみません…宇佐見さんは、高橋君には何も言わなかったんですね」
「へ?」
「いえ、忘れてください。…俺にとってあの人は、色んなことを教えてくれる大切な人なんです…」

『まぁ、教師ですからね』と、そう言葉を落とす草間さんの表情は、複雑な色で構成されていた。
優しい視線の中に、薄っすら冷たく揺れる感情は、何だろう?
寂しそうに伏せられた光を遮る睫毛は、誰にも心を読むことを許さないように影を落とすばかりだ。
掴みきれない雰囲気に、俺はただ困惑する。
ウサギさんが俺に打ち明かしてないこと、というのも気になるし、この長身の男性が何だかとても謎めいた人に見えてきた。
先生との関係も、あやふやな答えしかくれないところを見ると、ウサギさんが俺に言ってないことが関係してるのかもしれない。

「憧れて、るんですか?」
「すごい人ですから」

一生懸命表情を読んで、導き出した結果を言えば、草間さんは俺の言葉ににっこり微笑んで返してくれた。
あながち間違いではない、ということだろうか。
そんな言葉のやり取りに、きっと、何を質問したところで、鮮明な答えはくれないだろうな、と漠然と思った。
俺が、まだ、先生とこの人の関係をはっきりと知らされていないからだ、ということも。

 

気遣いあっての言動に、俺は意を決して振り返った。

「あ、あの!」
「はい、何でしょう?」

何も知らなくても、言わなきゃならないことがある。
視線を上げた草間さんは、やんわりと気配を穏やかなものに変えて、俺の言葉の先を待っていてくれる。
そんなささやかな気遣いに、俺は眼の前に立つ人が、先生に何かするとは思えなくて困惑してしまう。
はっきり言ってしまうべき警告があるのに、それすら言い出せなくなりそうだ。

本当のところ、逆のイメージしか湧いてこないので、警戒のしようがなかった。
最初は、ウサギさんが来訪してきた人に警戒心を抱いていたようで、俺もそれに倣って身構えて迎えにいった。
めちゃくちゃきつい女の人とか来るんじゃないかって、内心ヒヤヒヤしていたせいもある。
でも、ドアを開けてみれば、とても穏やかな男性が立っていて拍子抜けだったのだ。
もしかしたら、この人は、先生の恋人の代わりに迎えに来たのかも知れない。
だったら、そんな明らかすぎる警戒は失礼にあたるだろう。

 

困惑の中そう考えて、俺は先生への配慮を込めて小さく注意だけ促そうと、立ち尽くす静けさを押しのけるように口を開いた。

「先生は今…ものすごく荒れてて…」
「荒れてる…?」
「だから、その…あまり、追い詰めないであげてください」

リビングへのドアノブへ手をかけて、それだけは告げておく。
小首を傾げて不思議がる草間さんが、しっかり頷いてくれるまで、開ける気は全くなかったが、すんなりと頷かれてまた調子を崩される。

ウサギさんが言ってたこと。

先生が取り乱したこと。

そして、俺のささやかな忠告の意味。

どれもこれも、『草間野分』という人物の印象にそぐわないことばかりのような気がする。
長身の影から視線を逸らして、俺は腑に落ちない疑惑を抱えたまま、ゆっくりとドアノブを回した。
全ては、このドアの向こうで展開されることで、ドアを開けないことには始まらない。

「ウサギさん、お客さん連れてきたよ」

そう声をかけて、静かにリビングのドアを開く。
眼に映る矛盾めいた現実、その全ての意味を知る覚悟を込めて。

 

 

 

 

 

* * * *

2008/07/28 (Mon)

サブタイトル
『どうしてこう落着いた心もなく、花が散るのであろうか』

フル↓
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
(日の光がこんなにものんびりしている春の日であるのに、どうしてこう落着いた心もなく、花が散るのであろうか)

このサブタイトルに関しては、『光のどけき春の日』が野分で、『しづ心なく 花の散るらむ』がヒロさん
言うなれば、『野分はこんなに穏やかな人なのに、どうしてヒロさんはあんなに怖がって取り乱すのでしょう?』みたいな


新月鏡