act.5 〜誰ゆゑに 乱れそめにし〜

 

 

 

殺気だった声を宥めて、ようやく解放されたケータイのディスプレイを閉じる。
ふぅっと息を吐いて、自然とケータイに視線を落とせば、さっきまで会話していた人物が思い浮かんで滅入った。
どうにもあまり良い印象を持たれていないらしく、差し障りない態度や声色で話していても、何処か棘のある気配が漂ってくる。
わざとなのか、それとも無意識なのか。
どっちにせよ、いい迷惑にしかならないのだが、今日ばかりは仕方ない。
相手がどんなに良く想っていないとしても、今回の件に関しては、確実に幼馴染の肩を持つ気でいる。


――――俺なら絶対に耐えられない


幼馴染の話を聴いていて、真っ先にそう思ったほどだ。
確実に仕事は出来なくなるだろうし、何よりそこまで耐えるということが出来ない。
おそらく、たとえ周囲が反対したところで聴く耳持たず、耐え切れない現実を強引に捻じ伏せてしまうだろう。

だが、頑なな幼馴染は、自由気ままに、ある程度自分のペースで生きてゆくことを許されてる俺とはワケが違う。
人並みの付き合いがあれば、自分の行動に責任をしっかり取るし、周囲にも気を遣える。
もちろん、世間にもそれなりに馴染んで、自分の立場も理解してる。
教師だからというわけでもないだろうが、他人に妥協を許さない分、他の誰より自分自身に手厳しい。
その性格と立場が、押し込めるように置き去りにされた心を追い詰めている。

 

「…どっちもどっちだが、な…」

無意識にタバコを1本取り出し、慣れた手つきで火をつける。
ゆるりと立ち上る紫煙に、一呼吸置いて息を吐けば、幾分気持ちも楽になる気がした。
何となくすぐにリビングへ戻る気にならず、進まぬ足を一歩一歩時間を掛けて運んでゆきながら、しばし思案を試みる。


思えば、相手の言い分もわからなくもない。
『大丈夫だ』と返されて、それ以上の心配や追及なんて出来るはずもない。
たとえ、ただの強がりなのだとわかっていても、それ以上踏み込んではいけない、という暗黙の了解があるからだ。
気にかけはするものの、嫌がっているなら手が出せない。
これもまた、相手を想うゆえのジレンマなのだろうが。

 

 

 

「…美咲、すまないが……」

半分考え事に意識を持ってかれたままリビングへのドアを押し開けば、珍しい光景に出会って足が止まった。
あれだけ恐れていた幼馴染に、美咲が何の抵抗もなく抱きしめられていることに驚く。
もしかすると、恐れの余り硬直しているのではないか、とも思ったが、表情を伺い見れば、その路線も一瞬にして消失した。
安心したように身を寄せて眼を閉じている様子は、見ていてとても気持ちの和むものだったが、その一方で少し複雑な気分だった。
自分以外の男の腕の中で、何より大事な想い人が幸せそうにしている、という嫉妬の炎。
反面、抱きしめてる男が絶対安全圏な自分の幼馴染、という奇妙さ。
微妙な葛藤が心の中でせめぎ合っているのが感じられて、何とも気持ち悪い。

「…」
「んあ?おい、俺のお酌役を奪う気か?」

葛藤の末、やっぱり面白くないので、無言で奪還を試みると、阻止するように赤く腫らした眼で幼馴染が睨み上げてきた。
不覚にも、一瞬どきっとした自分に居た堪れない気分になる。
決して移り気なわけでもなく、可愛いと思うわけでもなく、その一瞬に視線を奪われたという衝撃が、感じなくてもいい罪悪感を呼んでいる気がする。


――――美咲には負ける、…負けるが…


完全に否定できない、幼馴染の持つ不思議な魅力。
その魔力に一瞬でも心囚われたという事実に、言葉にならないもどかしさで、再び愕然とさせられる。
こんなことが日常茶飯事だと、この幼馴染の恋人は、いつか心労の余り倒れるんじゃないだろうか。
顔を見たら一発殴る、と決意していた相手に、少し同情する。

 

「こいつは俺のだ、返せ」
「…だとよ」
「っ……ウサギさん、そういうことは言わなくていいよ!」

咥えていたタバコを灰皿に押し付けて、複雑な表情のままストレートな要求をすれば、幼馴染に抱きしめられていた美咲が、顔を真っ赤にして跳ね起きた。
きゃらきゃらと笑う幼馴染を前にして、消え入りそうなくらい小さくなっている。
真っ赤になっている様子が可愛らしくて、思わず耳に唇を寄せて息を吹きかけたら、ものすごい勢いで隠れるように幼馴染を盾にしてきた。
これはある意味最強の防壁だな、と思いながら、美咲のとっさの行動がおかしくて自然と笑みが零れる。
酔いに乗じて俺と笑い合う幼馴染の後ろで、縮こまったように可愛い照れ隠しを続ける愛しい人を想えば、微笑ましくて仕方ない。

「ほら、待ってんだから帰ってやれ」
「せ、先生までっ…!」

両手を広げて待っていれば、幼馴染は察したようにくるりと身体を反転させて、防壁を解いてくれる。
最強の防壁も、気を許した相手には、全くの無意味だということか。
久しぶりに見る優しげな笑顔を湛えて、恥ずかしさの余りうっすら涙目になっている美咲を、やんわりと押し出すように俺に返してきた。
すんなりと腕の中に戻ってきたぬくもりをそっと抱きしめれば、珍しく美咲の方からぎゅっとしがみついてくる。
今日は、いつもより驚くことが起こりすぎている気がしないでもない。
が、幸せなので深くは考えないでおく。

 

「ウ、サギさん…もぅ…」
「ん?」

しばらく大人しく抱きしめられていた美咲は、気恥ずかしさが限界に達したのか、再びするりと腕の中から逃げようとする。
そんなの許してやるものか、とすり抜ける腕を掴んで阻止すると、向かいのソファーに座らせた。
もちろん、その隣は俺が座る。
逃げないように右手でしっかり手を絡ませておくのも忘れない。
頬を朱に染めつつ、困惑する美咲に、安心させるように微笑んでみせて。

「お前の居場所は、俺の隣だろ?」

といたずらっぽく言えば、ぽん、と爆発するように顔が真っ赤になるから面白い。
しばらく慌てふためいていたものの、次第にしおしおと勢いがなくなっていって。
観念したのか大人しくなった美咲は、それでも少しの抵抗を表すように隙間をめいっぱい空けてソファに身を沈めた。
そんな姿に苦笑しつつ、しっかり俺の傍に落ち着いたのを見計らって一息つく。

 

 

「さて、話を戻すが…もうすぐ来客がある」
「…俺に帰れというあてつけか」
「それもある…が、本題は別だ」

ようやく戻ってきた話題に、今までの穏やかな笑みを消して、静かにそう告げる。
がらりと変わった雰囲気の違いに、即座に神妙な面持ちで反応して返す幼馴染はさすがと言うべきか。
酔っているくせに、こういうことだけには長けている。
だから、今回みたいなことが起こるということを、そろそろわかってほしいものだ。
特に、変なところでしっかりプライドのストッパーが掛かっている、という欠点に。

 

「弘樹、逃げてばっかりいないで向き合え」
「…!」
「俺に言ったこと、全部話してやれ」
「待て、まさかお前…」


「呼んだ」

その瞬間、勢いよく立ち上がったかと思うと、面と向かって話していた表情が凍りついた。
いや、絶望のあまり青ざめた、という方が正しいだろう。
その心の不安定さは、体の芯を揺るがすほどに動揺を呼んでいて、立っている方が不思議なくらいだ。
ひゅっと空回りした不規則な呼吸音が聴こえる。

そして。

 

「…っ」
「せ、先生?!」
「弘樹!」

一挙一動を見守っていれば、崩れるようにその場から踵を返す身体をとっさに引き止める。
掴んだ腕がガタガタと震えて、むちゃくちゃに暴れる手足を封じることすら、結構な労力を要するほどに全力で抗われる。
不規則な呼吸音と、『離せ』と喚く荒げた声すら綺麗に無視して、覆いかぶさるように背中から押さえつけた。
強引に顔を覗き込めば、思いつめた眼が視線を射抜き返して。
腫らした瞳は驚愕に震えて、わななく唇は何に恐怖しているというのか。
そこまで恐れる理由が見当たらず、予想以上の取り乱しように困惑する。

「弘樹」
「い、やだ…いやだ…や…っ」

 

堪えきれず零れた涙の行方を俺は知らない。

床にぽたぽたと跡を残す雫に、どんな想いが込められているのかも知らない。

けれど、無力な幼子のように震えて、怯えたように何度も小さく『いやだ』と繰り返す姿は、あまりにも頼りなくて。

 

すくめるように抱きしめて、あやすように耳元で囁く。

「弘樹、大丈夫だ…何があっても俺たちが絶対守ってやるから」

落ち着けるように、出来る限り優しい音で届くように、と願いながら。
紡ぐ言葉を噛み締めるようにゆっくりと囁いて、面を上げれば、心配げに傍に寄り添う美咲と視線が絡まる。
ぐっと口端を引き締めて、覚悟したように小さく頷く。
それだけで、俺と美咲の意思の確認は十分だった。
誰が来ようと、この中で誰より孤独なのは、今味方になって守るべきなのは、この幼馴染だ。

全てを拒絶し、心を閉ざして。
腕の中で、見えない恐怖から逃れるように小さく身体を丸める。
小刻みに震える身体は、もはや抗う意思すら放棄して身を固くするばかりで。
そのあまりの怯えように、自分は幼馴染にとって、あまりにも酷いことをしようとしているのだろうか、という錯覚すら起こしそうになる。

 

 

それでも向き合わなければならない

いつまでも逃げ続けるわけにはいかない


それは、きっと、誰よりコイツが痛いほどわかっているはず

 

 

意を決したように上体を引き上げ、くたっと倒れてしまいそうになる身体を支えて、そのまま床に座らせる。

「……怖い…」

か細い、それこそ荒れた呼吸音に紛れそうなくらい小さな声。
底知れぬ恐怖に耐えるのが苦しいのだろう、胸元を抉るように掴む指は、爪が白くなるほどで。

「弘樹」

せめて、まともに話ができるくらいまでには、意識を回復させてやりたかったが、その目論見は叶わなかった。
宥めようと名を呼んだ瞬間、重なるように響く異質な音。
緊迫した空気の中、決着をつけよ、と機械音が訪れを告げた。

 

 

 

 

 

* * * *

2008/07/23 (Wed)

サブタイトル
『誰のせいで私の心は乱れるのか』

フル↓
みちのくの 忍ぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに
(陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は乱れ始めたが、それは誰のせいだろうか。私ではない、それは貴方のせいなのだ)

ようやく次で野分が来ます。
荒れる荒れるwwwww
ヒロさんが何処まで可愛くてすごい人なのかを、思い知らせてやりたい(笑)


新月鏡