act.2 〜恋はしなず〜

 

 

 

事の発端は、たった一冊の本。
大学でやる気の欠片も見せない上司を叩き上げながら、仕事に勤しみ、資料作成をしていた頃のこと。
そこへ一本の電話が舞い込んできて、一日大学にいるはずの予定は一変した。
内容は端的で、ずっと探していた本が、電話をかけた主・宇佐見秋彦によって発見され、それをやる代わりに帰りに家に来い、というものだった。
小説家の幼馴染も、これまたネタの資料を集めるためにしばしば本屋へ赴くことある。
お互いに必要な本を貸し借りしたり、いいコンビネーションを発揮してくれるので助かっていた。

二つ返事で電話を切って振り返えると、にやにやとだらしない顔をした上司が眼に映ったので、とりあえず追い立てるように仕事を再開させてやる。
もちろん、先ほどの嫌味ったらしい笑顔への意趣返しを込めて、2割り増しの仕事量を。
そんな仕事量に、涙を湛えて『もう勘弁してくれ』と上司が音をあげ始めた頃、切りよく終わったのを見計らって大学を出た。
午後からの抱えた講義がなかったのが幸いだと、幼馴染の住む高級マンションへ足早に向かう。
インターホンから数秒の間を置いて開けられたドアは、重苦しさを感じさせないシックな作りで、きっといい素材なのだろう、と思わせるほどの質感を持っていた。

「ホント、憎らしいくらいイイ家に住んでるよな」
「だったらお前も買えばいいだろ」
「そんな金あるなら図書館買ってやるよ」

冗談めかした軽い会話に、小さな笑みが零れた。

 

変わらないやり取りが、こんなに心地よく思える日が来るとは思わなくて、妙に感傷的な気分になってしまって。
そう感じた分だけ、自分に変化を与えた存在が脳裏を掠めて、少しの冷たさを心に置き去りにする。
押し込めたはずの感情が、暴れだしそうで、気付かれないようにぎゅっと胸元のシャツを掴んで耐える。
どうにも、この幼馴染を前にすると、いらないことまで話してしまう癖が出るようだ。
自分が想う相手と同じく、何も言わなくても、些細な『揺れ』を感じ取ってくれるからだろう。
差し伸べられる手が優しすぎて、甘やかされることに抗えない自分に苦笑する。


――――いつからこんなに弱くなっただろう?


もっと、強い人間だったはずなのに。
ぐっと奥歯を噛み締めて、もやもやとする思考を振り払うように頭を振る。
『俺は大丈夫』と心の中で呪文を唱えて、何もなかったように。

 

「っ…あ、そうだ秋彦、俺を呼んだ用事って何だ?」
「あぁ、原稿の下見をして…ほしかったんだが、やっぱりいい」
「はぁ?」
「今のお前には頼めない」

『今回の小説は、きっと今のお前に悪い』と心配げな声が返ってきた。
どうやらまた動揺した心情を見抜かれたようだ。
そんなに顔に出ていただろうか?と小首を傾げながら、頬をつねる。
しかし、そんな和やかな動作も数秒で終わらせて、納得のいかない断られ方に憤慨した。

「俺をバカにするな、私情なんて挟まねぇよ!」
「そうじゃない、今回の小説は……お前の不安を増大しかねない内容だからだ」

心境の詳細を知りもしないくせに、知ったような口を利く幼馴染の声は、何処までも静かだった。
それがかえって言葉を詰まらせるなんて、きっと気付きもしないのだろう、と思う。
本気で心配してくれてるのだと、手に取るようにわかるし、それは嬉しいことだとわかっているが、そんな優しさすら自分を惨めにさせていく。
聡いくせに、気付いてほしい本音には気付かない人たち。
自分にはもったいないと思うくらいの包容力で、何でもないように受け入れてくれるから。
自分の撥ねつけるような許容範囲の狭さに、なんて情けない奴だと自嘲せざるをえない。

 

「弘樹」

躊躇うように呼ぶ声が、酷く涙を誘うから、たまらない。
今、心配してくれてるのは、目の前に立つのは幼馴染だとわかっているのに、無意識に想う姿を探してしまう自分が一番嫌になる。
重なる小さな寂しさは、気付けば処理しきれないほどの重圧で自分を潰しに掛かってくる。
けれど、『俺がしっかりしなければ』とプライドが堰き止めるから、洪水寸前で押し留まるような危うさで耐えるしかなくて。

「…弘樹」
「俺は、いつから…こんなに弱く、なったんだろう…」

呟く言葉は、もはやはっきりとした音にもなれずに溶けてしまって。
冷たい指先が目尻のラインを優しくなぞっていく。
瞬きすると同時に落ちるのは、きっと言葉に出来ない想いの欠片。
零れる想いを止める術なんて、お互い知りもしないから、狂った涙腺だけがいつまでも暴走を続けるばかりだ。
あぁ、困ったな、なんて他人めいたことすら考えてしまう。

 

「そういえば、いいワインがあったと思う」
「…秋彦?」
「俺がお前にしてやれることは、話を聴くことだけだからな」

聴いてやるよ、と眼を細めて微笑む幼馴染が、酷く頼もしく見えて悔しい。
軽く腕をとられて、半ば引きずるように玄関からリビングのソファーへとエスコートされる。
キッチンへ足を向ける前に、くしゃりと頭を撫でられて、また涙が零れてきた。
どうも、この大きな手に弱いらしい。
出来れば、焦がれる手の熱量で涙を攫っていってほしいのだが、その相手はいない。
いたところで、口に出来るわけがない。


――――…困らせるだけのわがままなんて、言わない方がいい


幼馴染の手の冷たさが、拍車をかけて胸を焦がすから、ついに決壊した想いに任せて、崩れるようにソファーへ顔を埋めてしまった。

 

 

そっと髪を撫でる手が、どうして冷たい?

どうして優しく呼ぶ名前が違う?

どうしてアイツは、こんなに遠いんだろう?

 

 

綺麗に磨かれたワイングラスの潔癖さが恨めしい。
真新しい顔をして、注がれるとわかっているワインボトルの隣にしっかり寄り添っているのだから。
自分は傍にいることすら叶わないのに。
いまだ途切れぬ雫をそのままに、机に並べられたワイングラスに無茶な嫉妬心すら抱いてしまう。

「ほら、好きなだけ飲んで、好きなだけ吐いてしまえ」

戻ってきた幼馴染がさっそく自分を甘やかしに掛かってくる。
酔った勢いの戯言なら誰も咎めないだろ?と逃げ口実さえ用意してくれて、なんて贅沢なことだろう。
そんな優しさが痛いくらいに嬉しくて申し訳ない気分になったが、甘い誘惑には勝てそうにないらしい。
嘆くだけ嘆いて、酒気に溺れて、なりふり構わず泣き叫ぶ。


今は、この優しさに甘やかされていたかった。
本当は、自分さえ踏み出すことが出来れば、もっと早く、楽になれるのだと。
解決方法などいくらでもあるのだと知っていながら。

 

 

 

 

 

* * * *

2008/06/28 (Sat)

サブタイトル
『恋に死ぬことも出来ない』

フル↓
潮みてば 水沫(みなわ)に浮かぶ 真砂にも 我はなりしか 恋はしなず
(私は水の沫に混じって浮かぶ砂粒のようになってしまった。恋に死ぬこともなくて)

ヒロさんとウサギさんオンリー★
ヒロさんは、攻'sに愛されまくればいいと思う。
野分を筆頭に、甘やかしまくればいいよ!!


新月鏡