act.2.5 〜思ひし心 我忘れめや〜
今更ながら、突きつけられた衝撃が久しぶりすぎて硬直してしまう。 当初の予定では、ようやく仕上がった原稿に簡単なチェックを入れてもらって、そのお返しにほしがってた本を渡して。 その後、お互い都合がよければ、少しの雑談と軽食をして、送り出すはずだったのだが。 妙に揺らいだような気配が幼馴染の表情を曇らせていて、一瞬跳ねるような焦燥感で心臓がざわついた。 うっかり手の中から原稿を落としそうになったくらいだ。 ――――なんて顔してるんだ… くっと噛むように引き締められた唇。 下がり気味の眉は頼りない印象を与えて。 伏せ目がちの目元から、うっすら見えるのは間違いなく涙だろう。 一生懸命耐えようとしている姿が、何とも痛々しい。 独りでどれだけその涙を耐えてきたのか、それに気付いてやれなかった自分に小さな悔しさが込み上げる。 「…弘樹」 差し出した指先で、そっと目元を拭い去る。 少しのぬくもりを抱いたまま指先に残った雫は、独りで抱え込もうとする幼馴染の強さ。 頼っていいのだと言ったところで、自分に厳しくあろうとする奴だから。 いっそ、全部任せるように頼り切ってくれれば、何が何でも守ってやるのに。 どうにも昔から、この意地っ張りで勝気な幼馴染の見せる涙に弱いらしい。 普段の態度や、志の高さを知っているから、時折見せる弱々しい姿に胸が痛んで仕方ない。 独りでも生きていける、そんな孤高の力強さが眩しくて。 そんなアイツの崩れ落ちる姿なんて見たくない。 しかし、心に思うこととは裏腹に、自分にその涙を止める術はない。 幼い頃なら、きっと俺でもその涙を止めることができただろうが、今は。 「俺は、いつから…こんなに弱く、なったんだろう…」 自嘲気味に、涙に震えた声が力なく音を吐く。 頼りないシルエットに、抱き寄せたい衝動を抑えて、思わずここにはいない人物に憤りを覚えてしまう。 どうせ、この幼馴染が勝手に勘違いして、独りぐるぐる悩んでるだけなのだと、頭でわかっていても、心が『許せない』と静かに怒りの捌け口を探して暴れまわる。 ――――『俺は、何があってもお前の味方だからな!』 そう力強く誓ってくれた、唯一無二の絶対的な味方。 あの日のことは、忘れたことがない。 不器用な優しさで、いつだって俺を支えてくれていた大事な人。 親愛、恋愛、慕情、愛情、そんな言葉じゃ表せない領域にいる幼馴染。 そんな幼馴染を、ここまで心身ともに衰弱させることができる奴なんて、この世でたった一人しか思い浮かばない。 なんて憎らしい幸せ者だろうか。 今度顔を合わせたら、一発殴ってやってもいいかもしれない。
そうして沸々と頭の端で算段をしながら、弱り果てている大切な人へ向かって、甘い逃げ道を指し示す。 一時的にも楽にさせてやりたい。 吐き出してしまえ、溺れてしまえ、と囁いて望めば、相手もそれに流されてくれる。 お互い本当に甘いな、と内心思いながら小さく微笑んでいると、堰を切ったように涙が洪水を起こして。 あぁ本当に、『おまじない』で止めてやれたら、どれだけいいだろう。 ――――お前の涙は、心臓に悪い 何とかして止めてやりたくなるから、酷く困ってしまって。 嗚咽交じりにぽろぽろと零される嘆きすら、ただの惚気と不安の固まりだというのに愛しく感じられて。 俺も大概重症だな、なんて苦笑しながら、必死に言葉を紡ぐ幼馴染を見守る。 落ち着くまでは、当分甘やかしてやろう、とだけ心に決めて、空いたワイングラスに自白剤代わりのワインを注いだ。
美咲が帰ってくるまでの数時間。 それまでにはきっと、寂しさに荒れた心も少しは落ち着いて、楽にしてやれることだろう。
* * * * 2008/06/28 (Sat) サブタイトル 『貴方を思い始めたときの自分の心を、私が忘れることがあるだろうか』 フル↓ 紅の 初花染めの 色深く 思ひし心 我忘れめや (紅花の初花で衣を染めたときのように、深く貴方を思いはじめた時の自分の心を、私が忘れることがあるだろうか) ホントは恋愛の歌なんだけど、あえて使用。 ウサギさんの場合、ヒロさんからもらった『何があっても味方』って言葉が思い始めたきっかけ。 恋愛とか親愛とか、そんなんじゃない感情で愛してくれてると思う。 新月鏡
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