act.1 〜こもりのみ 恋ふれば苦し〜

 

 

 

ただいま、と勢いよく扉を開く。
今日嬉しかったこと、楽しかったこと、色々たくさん話したくて、軽く弾んでしまうくらいの気持ちで帰宅。
しかし、次の瞬間には、俺は現実を疑いたくなるような光景に眩暈を覚えた。
これでもかと散らかった机の上には、これ見よがしに聳え立つワインボトルの空の壁。
寝転がってるワイングラスは、そっと紅い涙の跡を湛えたままで。
周囲はどんちゃん騒ぎの後みたいに、皿の裾野が広がるばかり。

そして。

 

「おかえり、美咲」

フリーズしている俺に、低く落ち着いた声が向けられる。
ゆったりとソファーに腰掛けながらマグカップを傾けているのは、小説家の宇佐見秋彦大先生様。
やんわりと酒の匂いを押しのけて届く、珈琲独特の香りに肩の力が抜ける。
玄関先までいい珈琲の豆の香りが漂ってきてたので、きっとその豆は高級品なのだろう。
ひょっこり現れた俺に向かって、来い、と身振りで短く指示を飛ばし、幾分明るさを取り戻した微笑を向けてくれていた。
が、俺は一歩も動けない。
当たり前だ、どうして俺がそんな恐ろしい場所へ自ら飛び込んでいかねばならんのか。
ふるふると頭を振れば、固くなった声が鋭さを加えて命令を下し、困惑している俺にさらに追い討ちをかける。
どうしよう兄ちゃん、今すぐ逃げ出したい。

「あ、そうだ俺、夕飯の支度しなきゃ…」
「美咲」

怖すぎる声は、最初の朗らかさを失って、大先生の不機嫌ゲージへ針が一気に振れる。
もうこれ以上の抵抗は、我が身の自滅を招くばかりだ。

 

しぶしぶ進まぬ足を無理やり運んで、立ち尽くすソファーの端。

「てんてー、訊いてもよろしいですかね」
「何かな、赤点学生」
「〜〜〜…っ!」

すまし顔で先手を打たれた俺は、脱力の余り、愕然と床にへたり込んでしまった。
もう逃げようがない。
小説家先生が俺のテスト内容を知ってる時点で…、いや、リビングのドアを開けた時点でわかっていたはず。
開けた視界に映る、異変。
しかし人間、見たくないものは無意識に認めなくない、と現実逃避が働いてしまうのは仕方ない。

「どうして、ここに国文の先生によく似た方が健やかにおやすみに?」
「そんなに認めたくないか」

そりゃそうだ。
学校から帰ってきて、リビングのドアを開けたら、もはや学校の伝説と化してる国文教師が爆睡しているなんて、誰が予想するだろう。
酒に溺れてしまったのだろう、酒気の抜け切らぬ火照った顔には、威厳の欠片も見当たらない。
いつもの眉間のしわも今はお休み中なのか、少し垂れ気味の目元が別人のような印象を与えてくれる。
何処か頼りなく幼い印象さえ与えかねないのは、大の大人がでかいクマのぬいぐるみに、縋るように抱きついているからだろう。

あの教師が。

容赦と慈悲の欠片もない、鬼のような教師が。

学部長すら、その授業のスパルタぶりを恐れるというあの鬼が。

微笑ましいを通り超して、恐怖さえ身に覚える。

 

「鬼にクマ…」
「鬼に金棒だ」

即座に返されたウサギさんのツッコミにすら、反応できなかった。
無理だ、今すぐ世界が滅ぶって聴かされるより、はるかに理解の範疇を超えている。
そんな俺に見飽きたのか、ウサギさんは『まぁ座れ』と言葉とともに腕を素早くとる。
かちこちに固まった身体を無理やりソファーへ引っ張り込まれて、俺は飛び込むように自分の特等席へと落ち着いてしまった。

「うわぁっ!」
「静かにな…弘樹が起きたら何かと面倒だ」
「ってか、先生とウサギさんって何の関係?」

ひそひそと声を潜めた小さな会話。
慣れたウサギさんの気配が感じられて、ほっと息を吐く。
ようやく帰ってきた理性と平常心は、そんな安堵も束の間に、改めて疑問を呼び起こした。
普段、自分の領域に他人を踏み入れさせることを嫌う人だから、まず家に仕事関係者以外の誰かがいることを不思議に思う。
そして決定的に『何か』を感じたさっきの一言が、うっかり俺に疑問を言わせる。
『弘樹』と呼んだ声に潜む、沁み込むような優しい音。

「何だ、妬いてるのか?」
「ち、違う!!うぬぼれんな馬鹿ウサギ!」
「はいはい、心配しなくても、俺にはお前だけだよ」
「うわっ、ちょ!先生の前で…!」
「大丈夫、誰も見てない」

気恥ずかしくなるようなセリフとともに、美咲、と名前を囁かれて熱が暴走する。
一気に稼動し始めた心臓が危険信号さえ出して、近すぎる距離にたじろげば、逃げ腰を引き寄せられた。
頬からあごにかけてのラインをなぞる指先が、酷くじれったい。
喘ぐ唇にふっと吐息が掠めれば、身体が期待するようにわなないて。
やばい、と思ってその先の予測に目をきつく瞑る。

「……」
「…ん?…あれ?ウサギ、さん…?」
「……」

ぴたりと止まってしまった優しい指先。
なかなか来ない未来予想図に耐え切れず、薄っすらと目蓋を押し上げれば、端整な横顔がものすごく嫌そうな表情で目の前にあった。
眉間のしわがものすごいことになっていて、背負うオーラにドス色さえ混じっている気がする。
まるで寝起きのときみたいに、触らぬ神にタタリなし、と言った雰囲気だ。
あまりに唐突な変化に心配になって、そっとその視線の先へ目線を振る。
しかし、その先には、水を被ったように、全身の熱が一気に冷めていくほどの後悔しかなかった。

 

「…」
「…」
「…」

視線の先には、ウサギさんと同じように眉間にしわを寄せて、クマのぬいぐるみ『鈴木さん』に埋もれている人。
さっきと違うことといえば、その目が気だるげに、しっかり俺たちを捉えているということだろうか。
ウサギさんの寝起きとどっこいどっこいだな、とか間の抜けたことを頭の端で無意識に思いながら、最悪の雰囲気の中、重なる沈黙だけが時を刻んでいた。
考えても見れば、ものすごく奇妙な構図なのだ。
抱き合うような形でソファーに身を沈める男2人。
その向かいのソファーには、巨大なクマのぬいぐるみ(鈴木さん)をゆったりと抱きしめて横たわっている男。
そんな奇妙な構図の中に落ちた重い沈黙が、何とも痛々しい。
傍から見れば、ある意味修羅場だろう。

 

そんな異様な空気を打ち破ったのは、他でもない、その沈黙を呼び起こした人物だった。

「てめぇ…イチャつくなら他所でやれ」
「ここは俺の家だ。好き勝手やって何が悪い」

不機嫌全開な声が飛んできた瞬間、呼び起こされた記憶の中の声と照合が一致してしまい、再び俺は絶望を感じざるをえなくなった。
この期に及んでまだ認めないのか、と言われそうだが、世間的にもよろしくないウサギさんとの関係を、何が嬉しくてこの鬼教師に知られなければならないのか。
夢なら覚めてくれ、と願わずにはいられない。
せめて、現状のいかがわしい体勢から逃れようと身体を捻れば、それはウサギさんの手によって阻まれた。
俺よりでかいからって、こうも簡単にあしらわれる力の差には結構ショックを受けたりする。
そうして逃げることも叶わないまま、ウサギさんと先生の怖い会話に耳を傾ける。
もう諦めるしかないのか。

 

「何だよ、バカ彦のくせに…俺が傷心してるってわかってて……中てつけかよ」

ぽそっと、寂しそうな音が転がり落ちる。
俺は、その声の主を見やって、思わず我が目を疑った。
改めてまじまじと見れば、思わぬ発見に混乱すら引き起こしそうだ。
よりにもよって、あの鬼だといわれ続ける伝説の教師が、可愛く見えるぞ、どうした自分。
何かに耐えるように、鈴木さんをぎゅっと抱き締めるとか、大の大人がすることじゃないし、似合うはずもないのに。
拗ねるように鈴木さんの影に隠れる様子なんて、授業中の姿からは想像できない。
鬼神の影など微塵も見えず、ただ赤くした目元の麗しい綺麗な人に見えてドギマギする。

「…ウサギさん、この人ホントに鬼の上條?」
「何が言いたい、高橋」
「これでもまだ疑うか、美咲?」

思わず零した質問は、ご本人様のドスの利いたご指名で証明されてしまった。
抉るような恐ろしい眼光で睨まれるが、俺は悪くない。
学校でのことを知ってる人がこんな姿見たら、誰だって本当に『鬼の上條』の異名を持つ人間なのかと疑うはずだ。
最初からその睨んだような眼を見ていれば、現実逃避なんてしなくて済んだのに。

「…諦めます」
「いい判断だな」

ウサギさんが俺を離そうとしないこんな状況じゃ、もうとっくに先生には俺とのことを話してしまっているんだろう。
無駄な足掻きをする前にあっさり諦めた方が、心の労力が減ることだろう。
とても恥ずかしいが、どうしようもない。
そんな俺の心情など知ってか知らずか、大きな手にわしゃわしゃと頭を撫でられて、向けられた涼やかな笑みにくらくらする。
いつだって俺は、ウサギさんのさりげない仕草に弱い。
優しくて冷たい手に労わるように触れられたら、むずがゆいくらいの好きでいっぱいになってしまって。

 

「おいコラそこ、イチャつくなっつっただろ」

苛ついたような声とともに、ウサギさんに見事クッションがクリーンヒット。
すかさず冷たい一瞥を投げて寄越され、現実へ引き戻された。
目線が本気で怖いです、先生。

「ったく……いい加減、お前も素直になったどうだ?今日、帰ってくるんだろ?」
「うるせー、黙れ」
「自分で『大丈夫だ』って言って送り出したんだ、自業自得だな」
「……でも…」
「あ、あの…今更なんですが、先生とウサギさんの関係って何ですか?」

話が見えず、幾分深刻そうな雰囲気でウサギさんと向き合い始めた先生に、素朴な疑問を投げかけてみた。
話に水を差すようで大変恐れ多いのだが、このままだとうっかり存在を忘れられかねない。
胡乱な視線に耐えられるように身を固くしていれば、予想外の視線が俺を見つめてきた。
ぽかんとしたような呆気に取られた表情に、一気に押し寄せる安心感は何だろう?
親しみさえ湧き起こりそうだ。

「秋彦、まだ高橋に言ってなかったのか?とっくに知ってるとばっか…」
「お前の愚痴にうんざりしてて忘れてた。美咲、俺の幼馴染だ」
「てめっ!俺の切実な相談を愚痴呼ばわりたぁいい度胸じゃねぇか!」

一斉に沸き起こるように、あっという間に賑やかになり始めるリビングで、俺だけが目を白黒させていた。
だって信じられるだろうか?
胸倉を掴みかねない勢いの鬼の上條と、この飄々とした小説家大先生が、幼馴染?
どういった経緯でこの関係が築き上げられたのか、さっぱりわからない。
『鬼の上條』との意外に近い関係を認めたくない無意識が働いたのか、『家が近かったから』という簡単な理由すら思いつけずにパニックになる。
ダメだ、今度こそオーバーワークで頭が沸騰しそうだ。

「ん?おい、高橋!」
「美咲!」

妙にシンクロした2種類の声が耳に届く。
だが、フェードアウトした俺の意識では、現状理解は無理そうだった。

 

 

 

 

 

* * * *

2008/06/28 (Sat)

サブタイトル
『隠れての恋は苦しいでしょう』

フル↓
こもりのみ 恋ふれば苦し 山の端ゆ 出で来る月の 顕さば如何に
(隠れての恋は苦しいでしょう。月が山の端から出てくるように、(二人の関係を)表に出してみたらどうかしら)

エゴ組とロマ組を絡ませたい!という願望から、ついに道を踏み外し始めた


新月鏡