この手に沈むもの

 

 

 

――――あぁ、これは夢だ…

 

冷たい水の感触が頬を撫でて去ってゆく。
触れているものが水だとわかっていながら、不思議と衣服が重くなることも、濡れることもない不思議な空間。
深い深い暗がり、視界に昇ってゆく泡沫の影に垣間見える水晶の檻。
その巨大な水槽の中、身体に不釣合いな鎖で雁字搦めに絡め取られている姿。

「ねぇ、どうして君はそこにいるの?」

そんなところにいていい人間じゃないでしょう?
君は僕が咬み殺すって言ったじゃない。
そっと近づいて、水牢の水晶に指で触れる。
想像通りひんやりとした冷たい感触がリアルすぎて、本当にこれが夢なのかと疑心の芽が面を上げそうだ。

「さっさと逢いに来なよ…待ちくたびれて仕方ない」

エコーのかかった自分の声が歪みに乗じて、奇妙な周波数を奏でる。
こののど元から出た声とは到底思えない、どこか他人めいた声に気味悪さを感じて身震いした。

 

きっとこれは別空間で、本当の自分は今もベッドの上で眠りについてるはず。

きっとこれは骸が勝手に僕の意識を繋げて作ったささやかな夢。

僕の願望じゃない。

君の願望。

だけどあながち外れじゃないから、たちが悪い。

これじゃぁ、僕から切り離す、なんてできそうにないね。

 

 

 

「…今、この檻を破壊して君を叩き起こせば、それは現実になると思う?」

馬鹿馬鹿しい。
話すことのない君を相手に、僕はいったい何を口走っているんだろう。
こつん、と額を押し付けて、深くため息を吐いた。
何をしてもむなしさだけが独りぼっちで歩いてる。
君が何の反応も返さないからだ。
僕がこんなに惨めな気持ちになるのも全部全部君のせい。
目覚める気配のない君を眺めて、僕にいったいどうしろっていうのさ。

「僕を現実へ帰して…」

いつまでもこんな想いに苛まれるなんて、翻弄されるなんて僕じゃない。

「君にその気がないっていうなら」

 

僕を苦しめる元凶が君で、取り除けるのも君で、だったら…

 

 

 

『いっそ僕がここで君を咬み殺してあげる』

 

 

 

真っ黒な景色に、一滴の滴が波紋を描いたみたい。
一気に君と僕を隔てていた硝子があっけなく崩壊してゆく。


――――あぁ、なんて残酷なの…?


今の今ままで何の反応もしてくれなかったくせに、自棄になって吐いた本気の嘘を実現してくれるなんて。
それとも君もそうなることを望んでるの?

嫌い、嫌い…君なんてホントに大嫌い…!

嘘しかまともに受けてくれないだなんて、どれだけ君は歪みきってるの?

 

重い音を纏いながら滑り落ちてゆく鈍色の鎖は、大蛇のように混沌の闇底へ沈んでゆく。
塞がれていた機材全てが溶けるように消失して、頭上を這っていた管の群れは散り散りに。
その中で、緩やかな解放を得た君は、ゆっくりと瞼を押し上げて、焦点の合わない眼で僕を見てた。
君の狂った眼を見たのはいつ振りだろう。
そう思うくらい、僕らの出会いは過去になってたようだ。

 

「骸…」
『望むとおりに、終わらせてください』
「それは君の?それとも僕の?」
『さぁ…?しかし、君と僕の望むものは同じだと思いますよ』

うっすらと動く唇からは音は漏れず、直接脳内に響く声色に眩暈がする。
この双眸も、この声も、この姿も、いったいいつから触れることも見ることもなかったのだろうか。
こんなにも甘く酔わせてくれるというのに、妙に物悲しい気分に陥ってる。

「これで、終われると思ってるの?」
『クフフ…愚問です』


――――終焉など存在しない、全ては廻り流転する…


『そうでしょう?』
「…廻る、ねぇ…」

 

そっと柔らかな首筋に手を添えて、もう片方の手で頬のラインをそっとなぞる。
くすぐったそうに小さく笑う君なんて、初めて見た気がするよ。
僕からしてみれば、今の君の表情の方が何倍も意味のあるものに思えて仕方ない。
輪廻なんてそんなの信じてないし、どうだっていいから特にそう思う。

 

 

 

「でも一瞬でも終わりだと思えるなら、それは幸せなことかもね」
『では、君が僕にその幸福をくれませんか?』
「僕の手で?」
『君の手で…幸せな一瞬の夢を僕に見せてください』
「ワォ、君ってホント変態」
『そんな僕がお好きでしょう?』

首筋に絡み付いてる僕の手に、そっと冷たくなった手を重ねて、試すような視線で君は笑う。
あぁむかつく。
何でこんなにイラつくのかな。
自意識過剰な君がどうしようもなく腹立たしくて、それと同時にどうしようもないほど君から眼が離せない。

 

「いいよ…だったら終わらせてあげる」

顔を寄せて、甘く囁いて、うっとりするほどの空気の中で、君の首筋を一気に力を込めて締め上げる。
ぎりぎりと締まる音に乗せて、高く笑い声を上げていた君が、惨めなくらい耳障りなうめき声を吐き出して鳴けば、僕は自然と微笑んでいて。

「骸、骸…ねぇ、骸…」

力を緩めることなく、猫なで声で君を呼べば、空を彷徨っていた君の視線が僕を捕らえる。
締め上げる手の甲に、君が残すのは痛々しくも愛しい爪痕。
血にまみれて、闇夜へ堕ちて、さぁ、また僕の元へ戻っておいで。

 

『「愛してる」』

 

歪な感情が重なり合って、歪みきった純粋な音が降り堕ちた。
刹那の幸福、刹那の告白、刹那の殺意、全ては一瞬にして生まれ出でて消え失せる。
残されたのは、手の甲に残る夢の欠片と僕の渇いた笑い声。

 

 

「またね、骸」

 

 

 

目覚める夜明け。
水槽に飼われていた群青の魚は、息を止めて、束の間の密やかな幸福の中、眠りについた。
この手で起こした波に攫われて、次はどこで眼を覚ますのか…。

 

 

ベッドの上、沈めた感触のリアルさだけが僕の手に残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2007/10/30 (Tue)  from diary

骸雲第2弾。
わぁお★愛しきバイオレンス!
骸雲なら、どんなDVでも『愛情表現』の一言で片付けられるミラクル。
すごいなぁ…(笑)


新月鏡