◆絶対零度

 

 

「なぁ〜上條〜」
「うっとおしいです、離れてください」

今日も今日とて繰り広げられる無駄な攻防。
部下の可愛い顔に深く刻み込まれた眉間のしわは、不機嫌メーター。
相変わらず絶好調に不機嫌か、と思われたが、そうでもないようだ。
いつもより本数が少ない、気がする。
それに、どこか浮き足立ったような気配がする。
おーおー、鬼の中の恋する乙女は健在ですか。
微笑ましいような、羨ましいような気分になって、悪戯も兼ねて思いっきり抱きしめてみると、ぎゃっと可愛くない悲鳴が上がった。
彼氏の前ではきっと、不器用なりに甘えまくったりしてるだろうに、俺にはこの反応。

 

「もうちょっと可愛げのある悲鳴にしてくれたってよくない?おじさん悲しい〜」
「…教授、言いつけますよ?」

うはー、怖い。
鬼神降臨してるんじゃないかと思うくらい、一気に不機嫌メーターが跳ね上がる。
言いつけるとか、冗談だとわかってても、そんな恐ろしい脅しは止めてほしい。
それでも全力で抵抗せず、いまだ腕の中にいてくれるということは、俺が上司で、絶対手を出さないって思ってるからだろうか。

「上條、お前ってホント可愛いなぁ〜」
「っちょ…本気で止めてください!」

ぎゅーっと力を込めると、さっきまで大人しかった猫が暴れるみたいに、上條は手当たり次第の抵抗を試みる。
ここまでが境界線みたいだな、と確認しながらぱっと手を離してやると、抵抗していた反動で、背後にあった本の山に上條が激突する。

「あっ」
「上條!」

とっさに手を差し出したのを最後に、俺の意識は雪崩に呑まれて、他人事みたいに降って来る痛みと轟音を感じていて。

「っ…いってぇ〜…」
「きょ、教授…」

ばさばさと痛む背中から零れていく本を視界に収めながら、揺れた声に引き寄せられて視線を下げる。
不機嫌から一転。
彷徨っていた手が体重を支えている俺の腕に添えられ、心底心配げな顔が俺を見上げていて。


――――うわっ…


綺麗な琥珀色の光が差した、深みのある樺茶色の瞳。
下がり気味の眦が幼い印象を与えるが、それでも意志の強い眼光に視線を奪われる。
時の停止したような一瞬を打ち消すように響いた、軽いノック音と引き扉が溝を滑る音で、俺の眼が醒める。

「失礼します、ヒロさん資料ってこれで…」
「あ、」


フリーズする部下と俺。
そして扉の向こうには真っ黒な閻魔大王。


恐ろしすぎる凍りついた時間が居た堪れない。
忍といい、草間君といい、なんてタイミングの良さなんだ!
今なら自分の運命を呪ってもいいね!

「ちがっ…野分、これは雪崩が起きて、それで…」
「そ、そうそう!いきなりこうダダーッと」
「だから、その…」

『ヒロさん』

慌てる俺と上條の声を押しのけるように、草間君が口を開いた。
圧倒的な意思を持って、朗らかで柔らかい声色が、パニック状態に陥っている上條を手招く。
流れるように差し出された手は、ただ一人を待っていて。
わけもわからず誘われるように上條が手を取れば、あっという間にその腕の中へ。
宥めるように抱きしめられた上條は、もう完全に乙女モードで自分を抱きしめる黒い長身を見上げるばかりだ。
ちょ、俺に気付いて。
お前の上司が一体どんな状況にいるのかを!

「宮城教授…いつもヒロさんがお世話になってます」
「あ、あぁ…」

にっこり微笑んで軽い挨拶を寄越す彼とは対照的に、がたがたと震える声を抑えるので精一杯な俺の心は、凍死寸前だ。
灼熱地獄なんて存在しないんじゃないかとさえ思えてくる。
地獄なんて、実は何処もかしこも凍土に違いない!


そんな現実逃避を試みつつ、この絶対零度の微笑みに心底後悔したの言うまでもない。

 

 

 

* * * *

2008/07/20 (Sun)

研究室は、宮城の鬼門だと思う


新月鏡