「灯台に灯る物語 -結末-」
きっと僕たちは、過去の選択を後悔するようにできているんだ。 どれも正解じゃない。 どれも間違ってない。 そして、どれを選んでも、後悔だけは寄り添ってくる。 戻ることの出来ない僕たちに、選ばれなかったものの温かさと大切さを教えるために。
起き上がれなくなった彼女のために、ベッドの傍に片膝をつく。 すっかりやせ細ってしまった手を取れば、痛々しいまでに黒く染まった文字が見えた。 老婆は今も、必死で病と戦っている。 身体を蝕む痛みと、喉を焼くほどの咳と。 誰にも気づかせることなく戦うことは、どれほど心細かったことだろう。 唯一愛しい人への想いだけが、彼女をここまで連れてきたのだ。 神妙な面持ちで黙り続ける僕に、老婆は不思議そうな視線をよこした。 その視線に応えるように小さく頷くと、放り出されたままの皺にまみれた手に、新しい手紙を乗せた。 「手紙はあるよ」 出来るだけ優しい声音でそれを示せば、きらきらと優しい光の宿る瞳は、嬉しげに和らいだ。 その様子に、胸が痛んだが、ここでそれを見せるわけにはいかなかった。 僕は、この街の誰より、彼女にひどいことをするのだから。 ぎゅっと唇を噛み締め、僕は囁くように言葉を継ぐ。 「でも……この手紙は、おばあちゃんの恋人が書いたものじゃないんだ」 老婆はとっさに反応できなかったのか、ぼんやりと、言葉を手繰り寄せるように視線をさまよわせる。 奇妙なものでも見るような視線に、言ってしまった罪悪感が足元から這い登ってきた。 手紙と僕とを見比べて、震える指先で何度も文字を辿って、腑に落ちないまま戸惑う。 見つめ返すこともできず、俯いてしまった僕に、彼女はようやく声を発した。 「バカなことを!いつもと同じ便箋、同じ筆跡だよ」 当然だ。 それこそ、僕が突きつける真実。 『然り、いつもと同じ、配達員が用意した便箋、彼の作った筆跡だ。正確には、先代の配達員がな』 苦しげに俯く僕の代わりに、シロは老婆に向かって口を開く。 優しいシロの気遣いに、さらに喉を締め上げられるような切なさがこみ上げた。 「手紙を書いていたのは郵便局の父子だって!?なぜ、そんなことを?」 『恋人が亡くなっていることを知って、汝が絶望しないように。共謀したのは、街の皆だ』 「……」 絶望的な真実に、老婆は開いた口が塞がらず、本当なのかとシロへ向けていた視線をこちらに向けてくる。 応えられるはずがなかった。 わかってたはずなのに、こうして目の前で絶望に染まる老婆を見てしまうと、言い繕うことも、誤魔化すことも、何もできない。 この事実が、何処まで老婆を痛めつけることだろう。 そればかりが気がかりで、思う分だけ言葉を失う。 「……ごめんなさい」 やっとのことで絞り出した言葉すら、うっすらと嗚咽に呑まれてしまって。 言いたいことは山ほどあったはずなのに、全部音になる前に同じ言葉にすり替わる。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ……ごめんなさい。
「あんたが謝ること、ないよ」 少しの衣擦れの音が耳に届いた後、やんわりと優しい手が僕の頭を撫ぜた。 単調に、ゆっくりとくり返される優しい手のひらは、とても穏やかだった。 僕以上に打ちひしがれているはずなのに、その手は大丈夫だと言わんばかりに慰める。 「本当言うとね、うっすら覚悟はしてたんだ。こんな……事じゃないかって」 あの人を待つ、変わらない日常。 その日々の中で、時折自分が夢を見ているんじゃないかって思うこともあった。 本当は…実際は…そう考えてしまうのが怖くて、ずっと見て見ぬフリをし続けていたのかもしれない。 「でも、いざ聞かされると、やっぱり辛いねぇ」 涙に滲む声色。 弾かれたように面を上げれば、老婆は僕たちに背を向けて、遠く窓の外を眺めていた。 震える肩と、不恰好な水玉模様の手紙。 向けられた背中が、想像していた以上にか細く、頼りない。 そんな背中を眺めたまま、かける言葉も見当たらず途方にくれていれば、『しばらく一人にして欲しい』と願われた。 さりげなく僕たちを気遣う老婆に、何度も言葉にした謝罪が胸に去来する。 そっと踵を返した扉の前、思い出したかのように声が投げかけられた。 「……ひとつ、お願いがあるんだ」 まだ弱々しい声だが、しっかりと耳に響く声。 まだ背を向けたまま、それでも彼女は静かに願う。 「この話を、あたしは聞かなかったことにしてくれないか?街の人や配達員があたしのために長年ついてきた嘘なんだろ?その厚意を無にはしたくなんだよ」 告げられた老婆の願いに、自然と息苦しくなって表情が歪む。 誰かのための気遣いが、これほど痛いものだとは思わなかった。 自分がこんなにつらいときにも関わらず、彼女は柔らかな気配で願いを歌う。 「最後まで騙されといてやりたいのさ」 『……わかった』 「配達員には【ありがとう】って言っておいておくれよ」 「……うん」 扉を閉める直前、小さく笑う声がして、僕はやりきれない気持ちに泣きたくなった。
それから数日と経たず、ひとつの知らせが届いた。 話したいことがあるから来てくれと、海岸の街の郵便局員さんからの呼び出しだった。 あの日以来、僕は、どうにも足を向ける気になれなかったのだが、呼ばれたとあっては出向かないわけには行かない。 足取りはひどく重く、慣れたはずの海岸の街への道のりすら、どこか遠く感じられる。 いつも以上に時間をかけてたどり着いた郵便局の扉を開くと、少しやつれた郵便局員さんが微笑んで迎え入れてくれた。 「今朝、ばあさんが……」 『……そうか』 「眠るように、安らかな笑顔だったよ」 告げられるとわかっていた結末に、荒れてしまうかと思ったが、予想に反して心は穏やかだった。 最後の最後に老婆がくれた、気遣いの優しさ。 それが、僕の心に平静をもたらしているのかもしれないと思った。 「君たちは結局……?」 「本当の事を言ったよ……」 互いに視線を伏せたまま、ぽつりと呟く。 郵便局員さんは、僕の様子をしばらく見ると、カウンターに乗せたままの僕の右手を両手で掬い上げ、「ありがとう」と告げた。 額の高さまで持ち上げ、祈るように、もう一度深く「ありがとう」と言葉を重ねた。 彼や、街の人たちが導けなかった結末を、僕が背負ったということに対しての、精一杯の感謝だった。 「でも、こんなにもあっけなく逝ってしまうなんて…あの人らしくない気がするな。これで、良かったんだろうか……本当にこれで…」 口うるさく、強情で、言いたい放題だった老婆の姿を思い出し、懐かしむような視線が宙を舞う。 少女のように一途な彼女の一番の願いは、結局叶わなかったけれど、彼女の優しい想いは、僕たちの胸のうちで温かな思い出を描いている。 「あんなバアさんでも、いなくなると寂しいもんだな…」 しみじみと呟く頼りない郵便局員さんの声。 その声に、嘘をついた分だけ、きっと街の人たちは老婆のことが好きだったんだと思った。 全部彼女への思いやり。 だから、貴方は、あの人の死を心から悲しんでいるんだね。
青と白と鮮やかな水平線。 何処までも続く海の果て、細波が紡ぐ歌声。 誰もいなくなった灯台の上、優しく駆け抜ける潮風に、手にした花を預ければ、ふわりふわりと舞い落ちる。 淡い花弁が波に攫われ、ひとつ、ふたつと水面に消えてゆく。 「僕たちは、正しかったのかな?」 誰に訊ねるともなく零れ落ちる。 「おばあちゃんは、幸せだったのかな?」 自分への問いかけ。 老婆への問いかけ。 誰かへの問いかけ。 何と照らし合わせても、答など見つかるはずのない問。
『わからぬ。幸福がいかなるモノかなど、誰もわからぬ』 シロは言う。 どう感じ、どう受け取るか、それは受け取った人にしかわからない。 幸福も同じく、目に見えない分だけ、誰にもそれはわからない。 正しさが、何をもって正しいと証明されるのかも。 過ちが、何をもって間違いだと証明されるのかも。 他者に決めることの出来ないものさしで、人は賢明に考えて選ぶのだと。 『我らは自分が思うよりずっと不確かなのだ…』 「……うん」
とある海岸の街で出会った優しい嘘。 少しの切なさと、温かな気持ちをくれる場所。 大切なことを教えてくれる道しるべは、今も静かに海岸に佇む。
それは、灯台に灯る物語。
* * * * 2012/05/09 (Wed) ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。 2012.5.8 日記より加筆修正 *新月鏡* |