「灯台に灯る物語 -選択-」

 

 

 

どうすればいいのだろう。

どれが正解なのだろう。

他人の人生を左右する重責。
選択肢は2つ。

 

それは今、僕の胸のうちにある。

 

 

 

「さっきのおばあちゃんの話……もう一度考えてもらえないですか?」

けたたましい音を立てて扉を開き、転がるようにやってきた僕の第一声。
あまりに唐突なことだったため、郵便局員さんはぽかんと口を開いて見つめる。
そんな郵便局員さんにさらに詰め寄れば、言わんとしていることに思い当たったのか、今度は呆れ顔に変わってしまう。

「外に出たいって話…?そりゃ無理だ。彼女の健康のためにも……」
『あの老婆はすでに重い病を患っておる。もう長くない』

シロの一言に、びくりと身体を震わせて目を見開く。
どうやら老婆の容態を知らなかったらしい。
首が軋んだ音を立てるんじゃないかってほどのぎこちなさで、ゆっくりと視線を向ける彼に、僕はこくんと頷いて見せた。

「だからね、どうせおばあちゃんのことを思いやるなら、最後のお願いを聞いてあげる方が…」

事情を知らないから、今まで突っぱねていたんだと思い、さらに言葉を重ねる。
知っていれば、あんな言い方はしないだろうと。
わかってもらおうと必死に言葉を継いだ。
だが、

「……とにかく、だめだ!」
「!」
「今日は用事を思い出したんで……ここまでにしてもらえるかな…」

返された言葉は、僕が望んでいたものではなく、意固地なまでに頑なな拒絶だった。
完全に視線を合わせてもらえず、最終的に背中まで向けられてしまえば、僕にはどうすることもできなくなってしまった。
せっかく見えた希望が、まさか潰えるなんて予想していなくて、解かれることのない拒絶に途方にくれた。
だが、出て行ってくれと言われてしまった僕が、いつまでも居座るわけにはいかず、結局僕の足は扉の向こうに運ぶことになった。
【なんで】とか、【どうして】とか、誰にもぶつけることの出来ない悔しさが胸のうちに溢れてしまう。
にぎわう喧騒が、このときばかりは煩わしくて仕方なかった。
誰にも判ってもらえないこの気持ちが、とても寂しい。
それからずいぶんの間、黙っていたような気がする。
行き場を失った自分の足元をぼんやりと眺めていると、落ち着きを取り戻したのを見計らうように、不意にシロが声を発した。

『あの配達員の様子が気になる。ちょっと戻って様子を見てみるか』

独り言のように呟いて、ゆっくりと郵便局の方へと進んでいってしまった。
シロが何を気にしているのか、僕にはさっぱりわからなかったが、何一つやることも思い浮かばなかったため、重い歩みでついていった。
郵便局の扉を前に、先ほどの悲しいやり取りを思い出してノブにかかった手が止まる。
しかしそのとき、薄く開けた扉の向こうからぼそぼそとした声が耳に届いた。

「ばあさんが死ぬだなんて。じゃあ、この手紙は……」

寂しい、迷子のような声だった。
その声に思わず駆け込み、カウンターに手をつけば、指の端に何枚もの便箋が触れた。

「配達員さん」
「な、なにしてるんだ?そんなところで!」
『そっちこそ何をしておる?』
「し、仕事だよ……」

平静を取り繕いつつ、慌てて掻きこむように仕舞おうとした便箋に、くしゃっと一気にシワが寄る。
焦り故に、完全にカウンターの下へ仕舞いこむことは出来ず、中途半端にカウンターから滑り落ちた。
残されたのは、ペンと書きかけの便箋がひとつずつ。
ころころと数センチ転がるペンの先には、郵便局員さんの右手。

「手紙を……書いているんですか?配るんじゃなくて?」
「君たちには関係のない話だ」

指に触れる書きかけの便箋を手に取り、郵便局員さんへ視線を向ければ、ぎゅっと唇を引いてそっぽを向かれてしまう。
だが、シロは彼の逃避を許さなかった。

『では、我らも関係のあることについて、ひとつ聞きたいのだが』

幾分厳しい声音でシロは言う。

『どうして老婆への手紙の消印だけ、この郵便局のものなのだ?』

その一言に、困惑と驚愕のない交ぜになった目を、これでもかと開いてシロを凝視してくる。
しかし、言い返そうと戸惑いがちに開かれた唇からは、ろくな言葉は出ることはなく、ただ言い澱むばかりだ。
その様子に、一気に優位に立ったと判断したのか、さらに厳しい口調でシロは問うた。

『我らが配達を手伝った他の郵便物は全て、違う郵便局の消印だったが?』
「どういう事?シロ?」

僕を置いて、郵便局員さんへ詰問を繰り返すシロに、ためらうように問いかける。
今、聞くべきは、何で手紙を書いてたのかってことなんじゃないの?
そんな直線的な疑問の眼差しをしていたのだろう。
生徒へ言い聞かせる教師のごとく、シロは僕に向き直って言葉を継いだ。

『老婆への手紙は、外国から来てはおらぬ』

次に目を見開くのは、僕の番だった。

『何者かが、この街から出しているという事だ』

そうであろう?と郵便局員さんを振り返れば、彼は驚愕の表情から徐々に諦めたように視線を落としていった。
この街の消印。
誰かがこの街から老婆へ手紙を出しているというシロの意見。
そして、書きかけの便箋。

「そこまで、判ってるなら…」

長い…長い、沈黙だった。
本当のことを話してもいいのか迷っている、そんな雰囲気さえあった。
それでも僕らは一言も言葉を発さず、ただ彼の動向を何一つ逃すまいと見守った。

「見せたいものがあるんだ。奥の部屋にあるから、取ってきてもらえないか?」

目を伏せて、椅子にぐったりと座り込んだ後、郵便局員さんはそう言って奥の部屋を示した。
郵便局員さんがすぐに話そうとしてくれないことに、僕は焦れて口を開きかけたが、黙ってシロに促され、名残惜しげに奥の部屋へと向かった。
部屋いっぱいに広がる紙の匂いと、小包の山。
そのさらに奥に、申し訳程度に休憩室が設けられており、放置されたままのマグカップの中には、冷めたコーヒーが残されていた。
その部屋の中央に置かれているテーブルを見ると、綺麗な敷き布の上に小さな小箱が鎮座していた。
そっと手を伸ばして小箱を開くと、中にはひとつの紙束が収められていた。

「これは……手紙?」
『ずいぶんと分厚い束であるな』
「全部、あのばあさんが書いた手紙だよ」

不意に寄こされた声に振り向けば、微苦笑を湛えて郵便局員さんが立っていた。

『届けておらぬのか?』
「届ける事は……出来ないんだ、もう」

そう囁くように言った郵便局員さんは、そっと歩みを進めて、テーブルの脇にある戸棚を開く。
薄い仕分け棚の一番上から、一枚の封筒を引っ張り出し、中にあった紙を僕たちに見えるようにして差し出した。
薄く黄ばんだ紙に、たった数行。
形式ばかりの言葉の羅列は、淡々と人の死を知らしめていた。

『死亡通知……』

受け取ったはずのその紙が、するりとこの手から滑り落ちて乾いた音を立てる。
かすかに震える手を抑えることも出来ず、ただ呆然と何処ともいえぬ場所を見つめていた。

「じゃあ、今おばあちゃんに届いている手紙は……?」

怖かった。
表でシロと郵便局員さんが言い合ってた内容から、何となく予想はついていたけれど、それでも、こうして手にしてしまうと、冷たい感覚に思考が麻痺する。
老婆の見せた笑顔を思うと、苦しくて、悲しくて…。
縋るように向けた視線に返ってきたのは、同じような悲しい瞳で、僕は真っ暗な穴の中に落ちるような気分になった。

「私が書いているんだ」
『……残酷なことを!』

シロの唸るような批難の声に、僕の拳もかすかに震える。
だが、郵便局員さんには、言い訳も抵抗も何もする気はないらしい。
ただ静かに僕たちの声を聞いて、真実を打ち明ける。

「残酷?そうかもしれないな……街ぐるみでばあさんに嘘をついているんだから」
「じゃ、他の人も……」

そんな、酷い話があるだろうか。

「あの人の生きがいを取り上げる事なんて出来なかった。恋人が外国で生きていると信じて疑わないあの人に、真実を告げることなんて出来なかった。だから、私たちは嘘をつき続ける事を選んだんだ。50年間……父の代からの話だよ」

一息に吐き出される真実は、彼女が独りになってから紡がれた50年分の嘘。
今日まで目を瞑り、奥歯を噛み締めて懸命に紡がれた人々の嘘。
気の遠くなるような長く、悲しい嘘の真実。

「……まだ嘘をつきつづけるの?」

差し出された真実に、僕はひとつ問いかけた。
シロが残酷だと言うほど、それは非道なことのように思えたから、そうとわかっていてまだ続けるのかと睨みつける。
こうでもしないと、熱い涙が零れてしまいそうだった。

「……ああ。真実がばあさんを傷つけるくらいなら」
「真実を知ったからって、ふしあわせとは限らないよ!」
「……しあわせとも限らないだろう?」

静かな…静かな返答。
それ自体が、老婆に対する街の人たちの思いやりだったのかもしれない。
僕にはわからない気遣いが、きっとこの嘘を作り上げてしまったんだ。
言葉にならない寂しい気持ちが、堰を切ったように涙として零れ出てしまった。
だって、こんなのってないよ。
こんな酷いことってないよ。
喉を競り上がる思いが苦しくて、僕は感情に任せて声を荒げた。

「おばあちゃんの願いはどうなるの?」
「わからないよ!」

僕の声にさらに覆いかぶさるような声が叫ぶ。

「そんな事は。私には、もうわからないよ……何が正しいのか?何が彼女の為なのか?」

嘘を選んだこの人にとって、僕の思いは愚直なまでに単純で、心のどこかで何度も何度も同じようなことを考えていたのだろう。
何度も迷って、何度も言い聞かせて、何度も嘘を重ねてきた。
老婆のために背負った苦しみを、僕はまだわかってあげられない。
ただ二人して、荒れ狂う感情の波を押し留めるだけで精一杯だった。

 

 

 

「これは新しい手紙だ。【街で待つように】と書かれている」

すんすんと、鼻のすする音が聞こえてきた頃、郵便局員さんは僕たちに真新しい手紙を差し出した。
僕たちが老婆に届ける習慣になっていた、見慣れた手紙。

『我らに、まだ偽りの手紙を届けさせるか?』
「……ここで君達が真実を知ったことには、何か意味があるのかもしれないな。私の意見はもう言った。あとはまかせる。手紙を渡すも、真実を告げるも、君達の好きにしてくれ」

そう言って、郵便局員さんは表のカウンターへと踵を返した。
この手に残されたのは、ある人の人生を大きく変える選択肢。
ぎゅぅっと胸に抱きしめて、僕は外へと駆け出した。
あの場所にはいたくなかった。
駆け出す足はがむしゃらで、時折躓いて転びそうになりながらも、立ち止まることなく走り続ける。

「どうしよう?どうしよう?どうしよう?」
『落ち着け!お前が動揺してどうする』

困惑に囚われている僕に、横から低く鋭い叱りが飛ぶ。
混乱するたびに、冷静さを呼び戻してくれるシロの声。
でも、このときばかりはそうはいかなかった。
子供のかんしゃくなのかもしれないけれど、抑えきれないものがあって、どうにかしたいのにどうしようもできないってわかって…むしゃくしゃして。
誰かを悪者にしないと治まらないような、そんな考えばかりが頭をよぎる。

「街のみんなでたったひとりのおばあちゃんを騙すなんて、ひどいよ!」
『しかし、50年だぞ?思いやりや善意がばければ続かぬ嘘ではなかろうか。老婆を灯台守の仕事に縛りつけていたのも、恋人の死を知らせないためだったのかもな』

ひどいひどいと喚く僕に、シロは一言一言を聞かせるように告げてくる。
シロの言ってることは、憶測の域は出ないものの、きっと正しいのだと思う。
郵便局員さんの言ってた事だって、きっと一理あるって、どこかでわかってるんだ。

でも。

 

でも……。

 

 

「……やさしさって、そういうことなのかな?」


わからないよ、もう…。


奇しくも、あの郵便局員さんと同じような言葉しか出なかった。

 

 

 

夕日に染まる灯台の下、長く伸びる影を踏みしめる。
目的もなく走り回っていたつもりだった。
どこでもいい、どこか一時的にでも気持ちを楽にしてくれる場所へ、そう思って走っていたはずだった。
だが、結局、今目の前にあるのは、もう馴染み深いものになってしまった白い灯台。
かつん、かつんと一段ずつ階段を上るたびに、徐々に迫る決断のときを思って足が止まりかける。
ゆっくりと沈む夕日が、老婆の様子と重なって見えるのは、僕が老婆に対して消極的な未来を想像してしまったせいかもしれない。
軽く頭を振って、雑念を振り払う頃には、最後の扉に到着していた。
立て付けの悪い音を立てながら、できる限り静かに扉を開くと、昼に見た様子とまるで変わらない部屋がそこにあった。
一歩、一歩とベッドに近づく分だけ、どきん、どきんと鼓動が鳴る。
おばあちゃん、と遠慮がちに呼べば、期待に満ちた瞳が僕たちを見上げた。

「ああ、あの人からの新しい手紙はついていたかい?」

そのかすれた声に、僕の決心が崩壊する。

 

 

どうすればいいのだろう?

どれが正解なのだろう?

 

 

たった一つしか選べない選択を、……

 

 

 

 

◆配達員が書いた手紙を渡し、嘘をつきつづける

◆恋人は既に亡くなっている事を、おばあさんに告げる

 

 

 

 

 

 

* * * *

2012/05/09 (Wed)

大切なのは、何故その選択をしたのかということ。

2012.5.8 日記より加筆修正


*新月鏡*