「灯台に灯る物語 -前兆-」
それから数週間後、僕らはいつもどおり、村のお使いも兼ねて海岸の街へ訪れていた。 温かい日差しの中、習慣となってしまった郵便局へ向かう。 「なぁ、頼むよ!いいだろう?」 郵便局の扉に手をかけたとき、扉越しですら鮮明に聞こえるほど切羽詰った声が耳を突いた。 聞きなれた声、これはどうやら灯台に住む老婆のようだった。 郵便局へ向かうことすら困難だと言っていたのに、わざわざここまで足を運んでくるほどに、彼女の声は焦りを滲ませていた。 「無理だよ、ここを出るなんて。だいたい灯台が無人になったら困るじゃないか」 だが、対する郵便局員さんの声も、困惑を滲ませつつも意思の堅い色を含んでいた。 温和な性格をしている郵便局員さんの見せる、そんな一面にも驚いた。 「いつまで働かせるつもりだい!あたしはあの人に会いに行くんだ!船に乗りたいんだ!」 「ダメダメ。さ、バアサンは灯台の仕事があるんだろ……帰った帰った!」 「……」 身体をめいっぱい震わせて、懸命に言葉を紡ぐ老婆の声は、今にも泣き出しそうに聞こえた。 あの人に会いに行く、と譲らない姿勢を示すものの、郵便局員さんは請合うことなく片手を払う。 これ以上の会話はしない、そんな意味合いを示され、老婆は今までの力強さを急激に失うように背を丸めて俯いてしまった。 どうあっても話が通じないことに諦めたのか、こちらに向かって怖いほどゆっくりと足音が近づく。 その足音に、僕は慌てて扉から離れると、店の物陰に身を潜めた。 何故か、今の話を聞いていたことを知られちゃだめだと思った。 力なく閉じる扉の音と、とぼとぼと歩く寂しげな背中。 不似合いなまでに明るい海岸の景色が、より一層老婆の哀愁を引き立てていて、誰も老婆に声をかけないことに、小さく胸が痛んだ。 しばらくの間、僕はちっとも動けずに縮こまっていたものの、このままでは何もならないと心に決めて、そっと郵便局の扉を開いた。 見慣れたカウンターの向こう、幾分疲れた表情をした郵便局員さんがいた。 「……おばあちゃん、大丈夫なの?」 ためらいがちに声をかけると、郵便局員さんは弾かれたように面を上げ、僕を見つめた。 ばつの悪そうな表情の後、視線を伏せて小さく息を吐く。 どうやら、僕が話を聞いてしまっていたことに気づいたみたいだ。 「灯台を守る人は他にいないからね。いてもらわないと困るんだ」 「そんな……」 返ってくるのは、先ほど老婆に対しても告げられた言葉。 常套句のようにくり返すことに違和感を覚えながらも、それ以上に老婆の気持ちを思うと痛かった。 「君達はあのばあさんから信頼されてるみたいだから、なんとか説得してみてくれないか?」 無理を強いてるのはわかっていると、それでもお願いしたいのだと、強くそう望まれてしまえば、僕はどちらにも動けなくなった。 だって、どっちの気持ちもわかるんだ。 街のことを思えば、老婆の役目は、確かに必要不可欠な仕事なのだ。 でも、大事な人に会いに行きたいって気持ちも、僕にはとても大切なものだと思うから。 しゅん、としょげてしまった僕に、郵便局員さんも申し訳なさそうに俯く。 『しょうがない。行って様子を見てみるか』 陰鬱とした空気に痺れを切らしたシロがそう切り出すまで、僕はまともに顔を上げることが出来なかった。
綺麗な景色を目にしつつも、灯台に近づくにつれて心は翳るばかり。 なんて切り出そうか? 会いたいって気持ちは痛いほどわかるし、きっと誰も灯台守の仕事を老婆ほどできないのだろう。 だからって、諦めてくれる人じゃない。 そうだ、僕が代わりに、老婆の大事な人を探しに行くっていうのもいいかもしれない。 僕さえちゃんと見つけることができれば、みんな丸く収まる! そう心に決めてから、扉をノックして入ると、いつもの部屋の中、老婆は息苦しそうにベッドに横たわっていた。 「おばあちゃん…?」 「はぁ…はぁ…」 「これって!?」 ぐったりとした表情で、呼吸することすら苦しそうな様子に、僕は思考回路が一瞬停止した。 忙しなく揺らぐ視線の先に、さらに見たくもないものが目に飛び込んでくる。 投げ出された両腕に縦横無尽に走る、薄暗い黒い文字。 僕の妹と同じ症状。 『黒文病だ……しかも末期の』 シロの囁く声に、頭を殴られたような衝撃を感じた。 ――――『黒文病』 身体に黒い文字が浮かび上がり、徐々にその範囲を広げ、全身に至れば死んでしまう謎の病気。 一度かかったら最後、この世に治すすべのない不治の病。 今、僕が妹を治すために、必死に探している治療法。 伝説まがいの記述にすら縋る僕に、老婆を救う手立てはない。 「おばあちゃんの【持病】って黒文病だったんだ……」 「……ああ、あんたたちかい」 語尾が震えて掻き消えてしまったが、うっすらと意識を戻した老婆は届いていたらしい。 もはや起き上がることすらできなくなってしまったようで、懸命に手を突っ張ろうとするたびに崩れ落ちる。 今日、郵便局まで行ったのは、最後に振り絞った力なのかもしれない。 ただ、会いたいという願いのために。 「あたしの病名は、街のみんなには内緒にしといてくれよ?」 ため息に混じって告げる言葉に、どうして?と目を見張るが、視線の先で老婆は笑う。 僕たちに語るように、自分に言い聞かせるように、老婆はゆっくりと話し始めた。 それは、切実な願いだった。 死を直前にした彼女が願う、たったひとつのこと。 告げる声は力なく、訴える視線は悲しみに耐えるようだった。 傍に居続けることが出来なくて、彼女が眠りに落ちたのをきっかけに僕は灯台を後にした。 耳に優しく届く細波が、今は酷く物悲しい。 『最後の願いか……』 海を見つめたままの僕に、シロが感慨深げにひとりごちた。 何だかんだいいつつも、シロだってあの老婆の願いをかなえてやりたいと思っているのだろう、思案するように小さく唸る。 そんなシロの声に、優しい気持ちが帰ってきた。 「おばあちゃんの願いをかなえてあげたいな」 『どうやって?我らだけでは難しかろう。誰か街の者の協力を仰がねば』 確かに、僕たちだけで出来ることなんて高が知れている。 外に連れ出すことも、船を借りることも、子供な僕には限度がある。 うんうんと頭を捻りつつ、ふとあの老婆がわざわざ郵便局員さんに訴えていたことを思い出した。 「……そうだ!配達員さんに頼んでみようよ!」 老婆がわざわざ郵便局員さんに訴えにいったのには、きっと理由があるからに違いない。 見えた希望に、僕たちは砂浜を駆け出した。
死ぬのは怖くないさ。 もう十分生かしてもらった。 …ひとりぼっちで、長すぎるくらいの人生だった。 本当だよ。 死ぬのは怖くない。 ただ……心残りがひとつある。 死ぬ前に、あの人に会いたいんだよ。 50年もの間、あたしは街を離れず、灯台を守ってきた。 街の人達のために働き続けた。 最後くらい、街の外に出てもいいだろ? 船に乗ってあの人に会いに行ってもいいだろう?
* * * * 2012/05/09 (Wed) ばあさん……。 2012.5.8 日記より加筆修正 *新月鏡* |