「瞬きで変わる世界」
授業を受け、チャイムと同時に標的を追い掛け回すという非日常。 そんな過酷レースを繰り広げていた午前を過ぎて、さすがに昼休みくらいはゆっくりしようという話になった。 シキを通して停戦条約を結んだつかの間の休息。 雑音の遠のいた屋上で、ネクは大きくため息をついた。 あれだけ追い掛け回し、声を張り上げることを繰り返していたためか、午後の同じスケジュールにぐったりしてしまうのは仕方ないことかもしれない。 のどはからからに渇いていて、どこか居心地悪い上、投げ出す足は鉛のように重くさえ感じる。 捕まえたいのに手が届かなくて、追いかけてるのに追いつけない。 そんな一向に縮む気配のないこの距離は、まさに心の距離とも取れて落ち込んだ気持ちをさらに深く沈めてゆく。 もそもそと昼食のパンを齧りながら、どことも知れぬ青空を見上げてぼんやりとしている様は、心ここにあらず、という言葉がしっくりきた。 眼に見えるほど萎れてしまっているネクの様子に、シキはどう声をかけたものかと思案していると、ネクをその状態にまで追い込んだ人物がいつの間にか傍へ寄ってきていた。 微かな足音さえ殺すように、気取られぬように数メートルの距離を残して佇む姿は、どこか危うげで、切ないような感傷を引き起こす。 もどかしいその距離は、そのまま義弥の心を示しているのかもしれない。 そんなありえない錯覚まで感じてしまうほどに、二人の位置は絶妙なものだった。 気を落とすネクの想う先には、青空越しの彼の人の幻-姿-で。 淡い色彩を纏うトラブルメーカーが希う先には、自身が陥れたパートナーの寂しい背中。 両者の表情を真っ向から眺めるシキにしてみれば、本当に焦れるような光景だった。 振り返ればいいのに 声をかければいいのに そうすれば、何かが変わるはずなのに そう思いはすれども、やはりシキもまた、音ひとつ立てることさえ躊躇われた。 緩やかに流れる時間ですら、この不思議な空間を避けているのではないか、と思えてならない。 「ネク君」 そんな焦れったい空気に耐えかねたのか、不意に義弥が声をかけた。 放つでもなく囁くでもなく、うっかり口から零れ出たような声。 振り向くネクの視線が絡めば、居心地悪そうに口元を引き締める。 「ヨ、シュ…ア」 「…これ、さっき落としてた」 そう言って差し出されたのは、ネクが長年愛用しているケータイだった。 何の変哲もない、使い古されたケータイには、さして眼を引く部分はなく、ストラップすらろくについてないという有様。 『あれ?いつの間に落としたんだ?』と零すネクですら、一瞬自分のケータイだと判断しかねるほどに、何の特徴もない。 しかしそれをネクに手渡す義弥の手つきは、恐ろしいほど丁寧なものだった。 当然片手でのやり取りだが、それこそ、これが古びたケータイなどではなく、高価値のガラス細工か、とでも思えるほどの扱いに、シキは眼を見張った。 「やれやれ、世話が焼けるね。無用心にもほどがあるよ」 「そりゃどーも」 「次は心をこめて言ってよね」 それじゃぁ、と軽く手を振って踵を返す背中に、ネクが慌てて声をかける。 引き止めるように、手繰るように、怯えるように。 複数の色を放つ響きを受けて、ぴたりと足を縫いとめると、背中越しに視線だけ振り返ってくれた。 「どうしたの?」 「………」 「用がないなら、もういいかい?」 「まっ、…」 『待てよ』という声は、突如涼やかに奏でられたメロディーに掻き消えた。 聴いたことのないメロディーは、自分のケータイからの音ではない。 誰の?と思い視線を振れば、シキは小さく首を振って返してきた。 では、と視線を正面に戻すと、白い手の内にはオレンジのケータイが現れる。 「あぁもう…しばらくはかけて来るなって言っておいたのに!」 苛立たしげに吐き捨てて、簡単な操作をして耳にケータイを宛がうと、今度こそ完璧に背中を見せて立ち去っていった。 残されたのは何ともいえない歯切れの悪い気持ち。 せっかく念願叶って話すことが出来たというのに、大切なことを何一つ言えず終わってしまった。 向き合うと決めたとして、こうして何もいえないのであれば何も変わるはずがない。 何故、それに気づかなかったのだろう。 どうして、という疑問を抱いたとして、それを口に出来なければ己の中で堂々巡りするばかりでしかないのに。 「ネク…追いかけて」 「え…?」 「早く!あいつを捕まえるのは今しかないの、早く追いかけてっ!」 突然たたきつけられた命令のような力強い声に、思考が見事な切れ味で切断され、弾かれたように現実が舞い戻る。 掴みかからんばかりに畳み掛けるシキの表情に、ネクは気圧される。 何を思ってシキがそんなことを言い出したのかはわからないが、とにかく彼女の言うことに疑惑の念は湧かない。 ただ、従うべきだ、という漠然とした理解だけが自分の背中を押していて、その確信にぎゅっと唇を引き締める。 とん、と押し出すように背中に触れる指先を感じた瞬間、跳ねる鼓動に合わせて跳ぶように走り出した。 見失った姿へ、迷子のような心を抱えたまま、ただまっすぐに。 扉を押し開け、幾重にも連なる階段を段飛ばしで駆け下りて、手すりを基点に身体を捻って方向転換し、次の階段へと足を踏み込む。 階下へ行けば行くほど、すれ違いざまに驚いた視線を感じるが、もはやそんなことも気にしていられない。 ただ、追いつかなければ、という脅迫概念にも似た心に急かされる。 3階分ほど駆け下りた頃、耳慣れた柔らかな声を捕らえて、はっとした。 「だから、わかってるって。羽狛さんっていつから僕の小姑になったの?」 「それでも、僕は…」 「…負けるつもりなんて毛頭ないさ」 ぽそぽそと聞こえていた声が、だんだんはっきりと聞き取れて来たが、不意に『羽狛さん』という名前を聞いて思考がさらに凍りついた。 踊り場へ着地し、はぁっ、と息を吸い込んで、7、8段先にその後姿を捉えた時には、本来かけるべき言葉は失われて。 「な、んで…お前が羽狛さんを知ってるんだ…?」 「…ネク君…?!」 明らかな動揺がヨシュアの瞳に閃く。 見開かれた瞳に宿る驚愕は、ネクがその場にいることへの驚きか、問われたことへの驚きか。 ふらりと耳から放されたケータイからは、低い機械音声と化した声が『どうした?』と問いかける。 「答えろ」 「…また今度ね?」 呼吸をするのを忘れるような、そんな一瞬ののち、短く掛け合った言葉を期に、義弥は再びネクに背を向けて階段を駆け下りた。 当然、ネクもまた追いかけるべく足を踏み出し、跳ぶように駆け下りる。 だが、焦燥に囚われるあまり、視界の錯覚を拭い去れず、踏むべき地を見失った。 つんのめるつま先 崩れる重心 一拍の合間に駆け巡る予想に、自ずと停止する呼吸 ひと際高く鳴る心音に、ひやりとした危機感 「ネク君!」 スローモーションのように傾く身体は意に添わず、刹那に許されたのは、見開く視界に映る光景。 振り返る切羽詰った深海の色と、それに重なる『白』の残像。 手を差し伸べようとする義弥に重なる淡い影は、かろうじて人だと判断できるようなおぼろげなもので、同じようにネクへ向かって手を差し伸べる。 ――――ヨシュア…? 逆光を浴びるように、視界を焼く閃光。 幻想のような一瞬の眩しさに、きつく眼をとじ、やがて襲い来る衝撃にネクは身を強ばらせた。 「っ……!」 だが、一向に吐き気を予想させる衝撃は来ない。 変わりに閉じた感覚が伝えるのは、天地が覚束なくなる浮遊感と、小さな衝撃。 とん、と何かに軽く当たった、と思ったときには、この身は温もりに投じられていた。 「あれ?」 「…っは、ぁ……もぅ…僕を殺す気…?」 ぎゅぅっと、掻き抱くように抱きしめられて、ようやく現実が眼に映る。 髪に指を絡めて、存在を確かめるように、表情を隠すように、首筋に顔をうずめる義弥に、現状把握が出来ていないネクはたじろぐ。 「何で…?」 「ネク君ってホント馬鹿なの?」 「う、うるさい…というか、いつまでこうしてんだよ」 放せ、セクハラ野郎!と喚き続ける今も、どくどくと脈打つ鼓動ははやし立てている。 怖かったのと、困惑と、あと色々ない交ぜになった心音は、耳の奥で響くばかり。 何より、顔をうずめたままの義弥が喋るたび、耳元で揺れる声色に気持ちは一向に落ち着かない。 「あぁ…もう、鈍感」 「はぁ?」 「……でも」 ―――― 『君が無事ならそれでいい』 心より滲み出た温度で、注意深く聴いていないと聞き逃しそうな、吐息に溶けるような囁きに、ネクは頭を殴られたような感覚に陥った。 避けてたくせに、怒ってたくせに、傷ついてたくせに。 そんな憎まれ口を叩きたかったのに、たった一言でなし崩しだ。 本音か虚言か、全て曖昧にぼやける義弥の本心が、こんなにも如実に示されることなんて今まで一度としてなかっただけに、強烈なインパクトを残してネクの胸の奥で響く。 こんなの卑怯だ、と持て余す感情に翻弄されながらネクは思う。 「…ヨシュア」 「うん」 「いい加減放せよ」 「うん」 「返事だけはいいな、お前」 「うん」 何を語りかけても、現状は変わらず、同じ音しか返ってこないことに半ば呆れる。 頑なというか、聞き分けのない子供みたいな義弥の行動に、諦めめいた感覚が身体の力を奪ってゆく。 てこでも動きそうにない奴をおとなしくさせるには、気が済むまで付き合ってやるしかないのだ。 行き交う生徒の視線に晒されながら、気恥ずかしさと諦めと、どこか心地よい気分に流される。 夢うつつのように感覚が二分される想いは、曖昧なまま現実を映し続けて。 「お前、ホントよくわかんない奴だな」 「ネク君ほどじゃないけどね」 「むかつく」 「の、割には可愛い顔しちゃってるけど?」 「うるさい」 肩を軽く押されて僅かに距離が開けば、相変わらず涼しい微笑が見つめ返していた。 ふと気づいたときには、じりじりと焼けるような微妙な心の距離感は失われてて。 元通りとは行かないまでも、あのギスギスしていた事象をお互い水に流してしまえるような気がした。 「ねぇ、ネク君。今は、まだ何も聞かないでくれる?」 「答えてくれる気はあるのか?」 「うん、いずれは、ね」 そうつぶやく義弥の視線は揺るぎないものの、どこか危うい色を秘めていた。 だが、一瞬翳ったように見えた深海の瞳も、目蓋で一度リセットしてしまえば見る影もなく、『でも、できれば暴いてくれると楽しいんだけど』といつものように茶化してきた。 瞬きひとつで、義弥の感情は息を潜め、真実が虚実にシフトする。 そうとわかっていながら、ネクは小さく笑い返した。 元の鞘に戻った、とは言えないが、妥協の範囲で笑い合う。 あの心地よい空間を求めていたため、それ以上は問うことができなかった。 本当は、一番最初に抱いた疑問。 現実を捻じ曲げるほどに把握困難な現状。 踊り場から足を踏み外したネク。 10段程先の階下にいた義弥。 抱きとめられたのは踊り場から4段下。 お互い駆け下りていたことを加味して。 振り返り、駆けつけるにはあまりにも無理がある。 抱きとめるには尚のこと。 『あの状況で、どうやって俺を助けた?』 答は未だ闇の中。
* * * * 2011/10/24(Mon) ミラクルコンポーザーwwww *新月鏡* |