「自己と他者の差異」

 

 

 

義弥がおかしい。
とんでもない失態をした昨日の授業を境に、他人の目からもはっきりとわかるほど、義弥の行動は極端に変貌した。
あれほどネクにまとわりつき、あれやこれやとちょっかいをかけていたのに、今はまるきり逆の行動を取るのだ。
ふとした瞬間、視線が合えば、にっこり笑って視線を逸らす。
声をかけようとすれば、軽くあしらわれて逃げられる。
そのくせ、ネクが誰かと楽しそうに話していれば、ものすごい目つきでじっと見つめてくる、…らしい。
シキと談笑していたときに、ふと何かの視線を感じて初めて気付いたことなのだが、シキ曰く、ネクと視線が合わなければずっと見ているというのだ。
何処か怒っているような、ふてくされたような、複雑そうな表情で、さりげなく、それでもしっかりネクの姿を追ってくる。
しかし、こっちが振り返れば、やっぱり即座に視線を逸らされる。
いったい何がしたいのか。

 

 

 

「ネク!あんな奴ほっときなさいよ!」
「あ…あぁ、だけど…」
「ほら、こっち向く!」

そっぽ向いたままの義弥をぼうっと見ていれば、ぱちん、と頬を両手で挟まれて、強制的に方向修正される。
ぐるりと戻ってきた正面には、ご機嫌斜めのシキの顔。
どうもシキは、義弥に関わることを極端に嫌っているらしい。
目が届く範囲で接触を試みれば、間違いなく彼女の許へ引き戻されてしまうのだ。
昨日の出来事を話して協力を仰ごうとしたこともあるが、これは逆効果を発揮して、さらに警戒心を抱かせてしまったらしい。
そこまで予想していなかったネクは、シキの徹底的な阻止行為にほとほと参っていた。
これでは義弥との和解などできそうにもない。

 

「なぁ、どうしてそんなにアイツを嫌うんだ?」
「…それは…」

何気なく訊いた質問に、シキは言いづらそうに言葉を濁して、しゅんと視線を下げてしまった。
頼りなく視線を彷徨わせるシキを見ていると、なんだかこちらが虐めているような気さえしてくる。
やはりこれは訊いてはいけないことだったのだろうか。

しかし、どうしても治まらない疑問が胸の内にくすぶっていて、混沌とした思考の闇に投げ出されてしまう。
酷く不安定で、心細くて、簡単に自分を見失いそうになる疑問の中でもがきながら、ようやく見つけた糸口がシキだった。
彼女なら、何か絶対的なきっかけを持っている気がして、傷つけてしまうとわかっていながら、問い詰めることを諦める気にはなれなくて。
きっかけを感じたのは、義弥と初めて出会ったあの日の出来事。
教室をしんとさせるほどの荒々しさで、シキが義弥に『許さない』、と啖呵を切ったという話を聴いたときだった。


シキは、いきなり誰かを『嫌う』なんてことをしないタイプだ。
大人しそうな外見でも、前よりずっと明るくなった性格が幸いして、友好範囲は恐ろしく広い。
その結果は、誰とも仲良くなろうと努力してるからだ。
細かいところに気がつくし、面倒見もいいから、頼りにされることもしばしばある。
そんなシキが、初日から義弥を拒絶しているというのだから、疑問に思わないわけがない。
しかも聞いたところによると、自己紹介から数分足らずで啖呵を切っただけでなく、義弥を引っ叩いた、と言うではないか。
言葉巧みに使う義弥が、シキに対して何かとんでもない失言でもしたのだろうか。

 

 

 

「…あれ?」
「どうしたの?」

ふと、思案をめぐらせていれば、奇妙な違和感に囚われる。
不安そうに見上げてくるシキを心配させまいと、なんでもない、と言おうとして言葉が詰まった。
なんでもないわけがない。
どうして?と疑問に思った時点で、もう気付いていないフリなんてできなくて、だんだんと膨らんでいく自分自身への疑惑。

「……前より、って何だ…?」
「え?」

確かに自分は思ったはずだ。


『シキは“前より”明るくなった』、と。


出会ってそんなに付き合いが長いわけじゃないが、漠然と、シキの持ち前の性格に潜む暗闇を知ってる気がする。
自分に自信がなくて、弱気になってしまって、エリに少なからず羨望の意識を抱いているとこも知ってる。
でも、彼女がその闇に負けずに明るくいられるのは、そんな自分を含めて『自分自身』を大事にしようと思うようになったからだ。

 

知ってる。

知っては、いる。

だが、どうしてそんな詳細を、自分は鮮明に感じて覚えているのだろうか。

変わる前の彼女を知ってる?

いつ?何処で?そういえば…

 

 

 

「シキ…俺とお前…初めて会ったのって」
「よぉネク!最近アイツと一緒じゃねーのな!とうとう破局か!」
「ぐはっ!!」

謎めいた不安に駆られて問い詰めようとした矢先、クラスメイトである男子の一人がタックルさながらの勢いで肩を引き寄せてきた。
がっしりとホールドされて、抜け出そうにも抜け出せない。
おまけに、『何だ破局って!』と言い返そうものなら、爆笑しか呼ばないから滅入ってしまう。
首を締め上げる勢いの腕を必死に叩きながら、苦しげに抵抗すれば、突然のことに呆気に取られていたシキが、慌てて腕から解放するように訴えてくれた。
解放された後、げほげほとむせていれば、わりぃ、と悪びれもせず口先だけで謝られる。
もっとしっかり謝れ、と思わなくもないが、そんなことよりシキに色々訊きたいことがあるので、こういう奴はそのまま軽く流してしまうに限る、とネクはさっさと見切りをつける。
しかし、そんな態度もお構いなく、クラスメイトは朗らかに笑って話を続行してきた。

「なぁ、アイツと一緒じゃねぇならさ、今日の放課後付き合えよ!皆でゲーセン行こうって話してんだ」
「放課後?」
「そうそう!最近ずっとアイツと一緒だったから誘いづらかったんだよなぁ〜」

聞いてくれよ俺の苦悩、と言わんばかりに、肩をぽんぽんと叩いて、これ見よがしのため息をついてくる。
若干うっとおしいな、と思いながらもお誘いの返答を考えていると、今度はシキに向かっても男子は軽い口調で誘い始めてしまった。
聞いてほしかった苦悩は何処へ行ったのか。
悶々と苛立ちを感じ始めているネクを他所に、誘われたシキはというと、少しの思案の末、ちょっとだけなら、と嬉しそうに笑って答えている。
そんなシキの横顔を眺めていると、ふいに別の疑問が浮かんできた。

「なぁ、お前も…ヨシュアのこと、嫌いなのか?」
「んぁ?」

きゃっきゃとシキと話を弾ませているクラスメイトへ、そんな質問をしてみれば、げんなりとしたような視線が寄越された。

「嫌いっつーか、アイツ、お前しか相手にしねぇんだもん」
「…はぁ?」

とっさに理解できないことを言われて、素っ頓狂な声が出た。
俺しか相手しないって、どういうことだ?と思いながら、ぐるぐると混乱している頭を一生懸命落ち着かせようと試みる。
そうして、ぽかんとしているネクに、話好きなクラスメイトは、さらに追い討ちをかけるように気だるげに詳細を話し出した。

「最初はさ〜、皆興味持ってて色々話しかけてたんだぜ?だけどろくに答えもしねーし、挙句名前呼んだらキレるし」
「名前…?」
「そうそう。“ヨシュア”って冗談で呼んだら、マジギレ。おっかねーのなんの…」

その時の恐怖を思い出したのか、軽く肩をすくめて小さく頭を振ってみせるクラスメイト。
そんなクラスメイトを前にして、ネクはさらに混乱させられるだけだった。

 

どうして名前を呼ばれただけで、そこまで怒るのだろうか。
“ヨシュア”と呼ぶくらい、自分にだってよくあることだ。
呼んで怒ることなどなかったし、逆に笑って応えてくれたくらいだ。
何故?どうして?疑問ばかりが渦を巻く。

「桐生が許してるの、お前だけだぜ、ネク?」


――――俺、だけ…?


興味のなくなったように、シキと放課後の話を続行するクラスメイトを他所に、ネクはただ呆然と佇むばかりだった。

 

 

知らなかった。

義弥が、他者との決定的な差を自分に与えていたことなど、まったく気付きもしなかった。
昨日、自分が思う以上に義弥に干渉できるのだと、初めて気付いたのに、こんなところにもその布石があったとは。
しかし、そうなってくると、今度は自分自身が怖くなる。
自分は義弥にとって、一体何なのかがわからない。
どうして義弥にそこまで思い入れられるのか。

初日から倒れた自分に興味を持った?

それとも、この変わった名前のせい?

いや、どれも違う気がする。
しかし、何処をどう見ても、そこまで思い入れられる理由が自分にあるとは思えない。
何が義弥を自分と繋ぐのかすらわからないのに、どうしてそれ以上の『特別』を与えるのか。
義弥の意図がわからなくて、ただ困惑する。
話も出来ず、視線を交わすことも出来ず、ただわだかまりを抱えて翻弄されるだけ。

 

 

 

「ネク…」

得体の知れない不安に、泣きたくなる気持ちを抱えて床を眺めていると、心配げな表情でシキがネクを呼ぶ。
少しの動揺にも素早く気付いて、いつも先回りして支えてくれるシキ。
声につられて視線を上げると同時に、そっと伸ばされた手に自分の手を攫われて、ぎゅっと両手で柔らかく包み込まれた。
何かに祈るように、しっかりと眼を閉じて、ネクの手を捉えたまま両手を胸元へ引き寄せる。
どこか神秘的な雰囲気の中、数秒の沈黙と温かさに包まれながら、ネクはじっとシキを見つめるしかできなくて。

「…今度は私が、ネクを守るから」

義弥と出会ったあの日と同じように、『大丈夫』と慰めるように優しく、揺るぎないほど強かな声が耳に届く。
強く、意思を込めて、決意する音。
優しい音が落ちた時、自分は決して独りではないということと、シキは絶対的に信頼できるのだという安心感に満たされた。


――――…そうだ、俺にはシキがいる…


たとえ、義弥と関わることを阻止する彼女でも、自分が本当に義弥と向き合うことを望めば、きっと手伝ってくれるのだと、何の根拠もなくそう思えた。
一人で出来ないなら、助けを求めればいい。
悩みや苦しみすら、彼女と一緒に分かち合えばいい。
きっと、シキなら受け止めて支えてくれる。
義弥への不安や、いざこざに対する対処だとか、全部一人で考えなくていいのだと思ったら、急に自分が脆くなった気がした。

 

「…悪い、少しだけ…」

そっとシキの肩に頭を預けて、しばらくそのままでいてくれと言葉を吐く。
虚勢を張っていた自分をどうか受け止めて、と小さく願うそれは叶えられて。
教室に残っているクラスメイトが、きっと目を丸くして見てるんだろうな、と思いながら、与えられる優しさに甘やかされる。

 

 

謎だらけで、嘘つきで、自分をさらけ出すことを嫌う義弥。

 

自分を特別扱いするのはどうして?

あの時、絶対的な拒否を示したのは何故?

自分たちは、一体どういう繋がりがあるんだろう?

 

わからないことは山積みで、前途多難なことは確かだが、この気持ちを宥めるには、義弥とケリをつけなければならないのだと、はっきり意識する。

「シキ、俺に力を貸してくれ…」
「…うん」

繋いだ手が震えてたまらない。

 

ただ、向き合う勇気がほしかった。

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2008/08/27(Wed)

ネクシキなのか、シキネクなのか…。
おそらく私が書く場合、精神的には後者だと思うwwwww


*新月鏡*