「夜想曲〜nocturne〜」

 

 

 

小さな変化を交えて再開された日常は、無事幕を下ろしてゆく。
朝の異様な出来事は、小柄な少女が一人奔走して最小限の騒ぎに収めていた。
その力量は関心に値するもので、さすがは立ちはだかる者だ、と思って見守っていた。


どうやら彼女は僕のことを快く思ってないらしい。
まぁ、UGの記憶を所持しているなら無理もない。
僕はそれだけのことをやったのだから。
思い返して沈む心が、そっと頬に手を当てた。
そういえば、朝っぱらから引っ叩かれたのは初めての体験だった。
あまりに突然の出来事に、憤り以上に驚きが勝ってしまって、未だに平手打ちをクリーンヒットさせた彼女に言い返す気にもなれない。
そして何も言えないままでいれば、平手打ちの後に叩きつけられた言葉が耳の奥でぐるぐると再生されてばかりだった。

『いまさら何しに来たの?!』

怒りで滲む視界を抑え込んで、必死に睨みつけてきたのは、大切な者を護ろうとする強い意志の閃く瞳。
ネク君の一番最初のパートナー。
彼が心許した最初の人。
彼を変えるきっかけを与えたのも彼女。
それゆえパートナーとして張り合えば、どうしても超えられないシキの存在。
そんな位置にいる彼女には、僕の気持ちなんてちっともわからないんだろうけど。

 

「いまさら、何しに…か…」

今まで時間が掛かっていたのには、ちゃんと理由がある。
だけどそれは、今のネク君に言っても無意味な言葉だと思うから口には出来ない。
そして、何をしに来たのか、と問われれば返す答えは一つだけだった。
だがそれもシキから言わせてみれば、ただの押し付けとわがままだと一掃されてしまいそうで、我知らず自嘲の声が漏れる。
さらさらと風が髪を梳いていけば、虚ろな眼に空が横切った。
誰もいない屋上で、独り。
こうしてただ無機質に広がる街を見下ろしていると、激しい既視感に苛まれる。

 

逃げてきたのに

                 『逃げ切れない』

 

 

求めてきたのに

                 『手に入らない』

 

 

恋しいのに

                 『届かない』

 

 

押し込めきれない溢れる想い

苦しいほどに喉元を競り上がる想いの丈を、何処へ流せばいいのだろう

伸ばした手は何に触れればいい?

この声は何処へ向かえばいい?

向かう先は決まっているのに、そこへ届かないもどかしさをどう押し殺していればいい?

 

「一緒に、見たかったのになぁ…」

深まる夜の気配に、柔らかく降り注ぐ月光以外は酷く冷たくて。
UGでは叶わなかった、この視界に映る景色を、誰と見たいと望んだか。
苛む苦痛は、たった一人の寂しさに耐え切れなくなったせい。
僕の示した未来の代償が、この苦痛を与えるのだと知っていながら、それでも自分自身を呪いたいほどやりきれない。
崩れ落ちるように手すりに縋りつき、項垂れ、痛く冷たい風に身を晒せば、少しは落ち着ける気がして。

不意に唇から零れる音階がむなしく散っていく。

 

Verweile doch...

 

甘く、切なく、抑揚の乏しい淡いメロディー。
一音、一音、彼を想って詩を織り上げ謳い続ける。
静かに寄り添うのは記憶の奥に響くピアノの旋律。
徐々に温度を下げる冷気が寂しげなシルエットを包み込めば、不思議と心は落ち着きを取り戻して。

 

聴こえているだろうか、僕の声が
届いているだろうか、僕の呼び声が
君を想って歌う旋律を
君恋しと叫ぶこの胸の内を

 

『Verweile doch...』

 

何度も祈りを込めて、囁くように甘く歌い続ける。

 

 

迫る闇夜
溶けるように掻き消える歌曲に
転がるような、たゆたうような、凛とした夜想曲を添えて

 

「ネク君…逢いたいよ…」

 

独りの夜は、まだ終わらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2008/5/12(Mon)  from memo

『Calling...』の対
いつの間にか、一日が終わりました。
にしても、どんどんヨシュアが可哀想なことになってゆく…何故?


*新月鏡*