「失えない苦痛」

 

 

 

あれからどれほど時が過ぎただろう。
今、目の前に広がる変わらない景色の中で、ただ一人、ネクだけが私たちとは異質だった。
気づいたのは、彼を迎えにキャットストリートの喫茶店に訪れたとき。
親しく頼れるマスターを相手に、深刻な表情で零した不安を、そのとき私は聴いてしまった。
共通した過去を、ネクだけが奪われていくという事実に、私は酷くやりきれない想いに苛まれた。
原因ははっきりしている。


――――『ヨシュア』


その人こそが、ネクを苦しめてる元凶であり、同時に彼を救える人物。
たいした会話をしたこともなければ、どんな人物かも分からない。
ただ、彼こそがUGでの秩序であり、黒幕であったという印象だけが残っていた。
だけど、ネクのパートナーであったのなら、どうしてネクを追い詰めるようなまねをするのだろうか。
同じ『パートナー』という役柄を全うしたのなら、ネクの人となりを知っているのなら、彼に苦痛を与えるなんて出来るようなことじゃない。
だから、ネクが零した不安を聴いたとき、探しようのない存在である『ヨシュア』に対して、酷く腹を立て、行き場のない憤りを鎮めるので精一杯だった。

 

しかし、ネクにそんな姿は見せられないと、慌てて気持ちを切り替える。
これ以上つらいものを掘り返してほしくなくて、ぎゅっと決意をすれば、わざと音を立ててドアを開き、掻っ攫うように強引に自分の隣に連れ戻しす。
そうしてネクが傍にいると確認すれば、ほっと安堵の息が漏れる。


――――ねぇ、ネク…貴方は今、幸せ?


息を切らしている私を心配そうに覗き込む表情を眺めてふと想う。
しかし、のどに突っかかるそれは、訊ねてはならないものだと、押し込めるようにして飲み込んだ。
できることなら、悲しませたくなかった。

 

 

 

 

 

それから再び月日は過ぎる。
気づけばネクは本当にUGでの出来事を忘れていった。
最初はおぼろげに、次第にそれは夢へとすり替わり、今では思い出すことさえ困難な状況だった。
それは止めようのないことで、ならばと、私はビイトやライムに口裏を合わせてもらって、ネクがいるときはUGに関することを話さないように気をつけてもらうように計らう。
ネクが笑っていられるなら、触れない方がいいのだと思ったから。

 

「シキは専門に入るのかと思ってた」
「うん、私もそう考えてたんだけど、高校は一般の高校に行った方がいいよって、エリが勧めてくれたから」
「そういやそのエリも一緒なんだよな」
「私頑張ったもん!」
「だな」

ピンクの花弁がひらひらと舞い落ちる陽だまりの中、きゃらきゃらと明るい声で笑い合う。
驚くことに、偶然同じ高校へ通うことになった私たち。
ネクは『家が近いから』、私は『エリと一緒に行きたいから』、そんな単純な理由で出会ったのだと思えば、確かに少しおかしく思えて笑ってしまった。
加えて同じクラスとくれば、これは偶然とは呼びづらい展開だと、ネクはさらにおかしそうに笑った。

 

 

 

そうしていると、本鈴を告げるチャイムの音が響き渡る。

「やっば!ネク、こんなとこにいる場合じゃないよ!」
「あ、ちょ…待てよシキ!」

初日から遅刻は大変格好悪い、と二人して慌てて宛がわれた教室へと駆け込んだ。
息を切らして駆け込めば、明るい笑顔のエリが心配げに迎え入れてくれて、きょろきょろと席を探す私たちに座る場所を示してくれた。
『初日からやってくれるわね!』とエリに小突かれて、顔を見合わせてくすくすと笑い合っていると、がらりとドアの開く音がして静まり返る。
とん、とん、と肩に名簿を当てながら、手馴れた感じで教卓についたのは、ラフに着崩した、とっつきやすそうな男性教師だった。

「今日からこのクラスの担任になる、よろしく」

自分の名前と担当教科、ちらほら挙がった質問にてきぱきと答えて、人懐っこそうな笑顔でその教師は笑った。
そして、一区切りついた頃、軽い挨拶もそこそこに、教師は開きっ放しのドアへ小さく何度か手招く。
何事かとクラスがざわめけば、手招かれた影が姿を現した。

 

光に透けるくらい色素の薄い髪。

中性的な面立ち。

宛がわれた制服を、まるでその人にあつらえたかのような印象を与えるくらい見事に着こなし、動作ひとつひとつに隙がない。


普通の動作なのに、誰もが視線を奪われ、クラス全体が息を呑んだように、その一部始終を見守っていた。
ただ、私だけが違う表情をしていたに違いない。

「…なんで…」

ポツリと無意識に震えた声を零した私に、エリが訝しげな表情を見せたけど、私の心中はそれどころではなかった。
ぎゅっと手のひらが痛みを訴えるほどに握り締めて、爆発しそうになる感情を抑えつける。
目の前では着々と『留学してきた編入生を紹介する』などという声や、色めきたった声が飛んでいるが、全く耳に届かなかった。

 

「はじめまして、桐生義弥です」

きゃぁ、と黄色い声に空気が華やぎ、それに応えて彼-桐生義弥-はにっこりと微笑んだ。
甘い表情を湛えたまま、ぐるりと教室全体を眺めやり、言葉を継ぐ。

「これからよろしくね」

そう彼が言ったとき、隣の席に座ってたはずのネクが弾かれるように立ち上がった。
一拍遅れてけたたましい衝撃音が辺りに響く。
無残にも倒された椅子には構う様子すらみせず、ただ教卓の隣に佇む彼を凝視したまま、呼吸すら止まっている気がする。
静まり返る教室の視線が一斉にネクに向けられていることにすら、ネクは気づいてないようだった。

「桜庭…?」

幾分動揺に満ちた教師の声がネクを呼んだとき、張り詰めた糸が切れたように、急にネクはその場に崩れ落ちた。
まるでスローモーションでも見てるみたいに、私の脳裏に焼きつく映像。
とっさに、後ろに座ってた男子が受け止めたため、頭を床に打ち付けることはなかったが、瞼は固く閉ざされ、真っ青な顔をしている。
揺すってもぐったりとしたままのネクを見た教師は、慌てて抱え上げると、戻ってくるまでの指示を飛ばして、保健室へ向かうべく廊下を駆けて行ってしまった。

 

ざわざわと、ざわめく教室。
立ち尽くしている転校生は、何事もなかったかのようにすまし顔で。
それを見た瞬間、私は思わず立ち上がり詰め寄る。
そして、ぱんっ、と沈黙を呼ぶほど一際大きな音を立てて、その頬をきつく叩いた。

「いまさら何しに来たの?!」
「…」
「許さない…ネクを傷つけるなら、誰だろうと許さない!」

手が抑え切れない憤りに反応して震える。
声に出そうにも、怒りがのど元に詰まって声が出ない。
ネクが倒れたことで、頭の中は真っ白になっていた私は、大勢の前で盛大な啖呵をきったことにすら意識を向けられないでいた。
エリが止めようと私を呼んだ気がしたけど、あいつの顔を見るのも嫌で、振り切るように踵を返して教室を飛び出す。

 

 

 

ネクを想えば、湧き上がるのは痛いくらいの憤りだけ。
苦しめるだけ苦しめておいて、何事もなかったかのように現れたあいつが許せない。
大切なパートナーであったからこそ、力になろうと必死で今の日常を培ってきたのに。
それを全てぶち壊されたような気がして仕方ない。

 

 

 

静まり返る校舎の中。


泣きそうなくらいの腹立たしさを抱えて、廊下を駆けてゆくしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2007/10/17(Wed)  from memo

UGから帰ってきて1年後くらいでしょうか。
高校1年に皆して上がったときに、ヨシュアが再降臨したってな感じです。
大変カオスな展開になってまいりましたが、最後はハッピーエンドにしたいなぁ〜なんて。
とりあえず…シキにヨシュアを殴ってほしくて書いた話なんですよね〜。
あっはっは、ヨシュア好きーの皆様ごめんなさい…orz


*新月鏡*