「薄れ逝く恋歌」

 

 

 

からん、と控えめにベルが鳴る。
ゆっくりと開かれる扉から、幾分躊躇いがちに踏み出されるのは、見知った靴のシルエット。

「おう、ネク!いらっしゃい」
「こんにちは」

ドアに張り付いたままの小柄な少年に向かって、豪快な笑みを作って声をかけると、少年は下げていた視線を慌てて引き上げて返した。
ネク、と呼ばれた少年は、きょろきょろとせわしなく視線を動かしては、目の前にいる羽狛と、誰もいないカフェを交互に見やる。

 

 

 

ネクが羽狛を直視していられない理由には2つある。
一つは、この渋谷で誰しも憧れるカリスマ的存在だから。
一件寂れた小さなカフェのマスターである羽狛は、実は、ファッション・アート・ありとあらゆる場所で多種多様に独特な創造を生み出し、人々の心を魅了するテクニックを持つ『CAT』という存在なのだ。
そのため、憧れる想いを胸に、熱い視線を向けることもしばしばあるのだが、ここで2つ目の理由がその視線を逸らしてゆく。

 

二つ目の理由、それは過去に起こった出来事。
ネクはこの数週間前まで『生き返る』ことを戦利品として、死神のゲームに参加していた。
一度は死んだ命を取り戻すため、大きな代償を賭けて。
自分にすら嘘をついて生きてきた、いなくなってもたいして何も感じない存在。
そう思っていたことすらゲームを通して一気に覆り、人生を言葉通り一変させた事柄だった。
眼を逸らしていた分だけ見えなかったものを見、受け入れられなかったものを受け入れて、初めて変わってゆけるのだと、本心から思えたかりそめの世界。

 

そして、変化を与えた分だけ、与えられる裏切り。
分かり合えると思った者が、最後の黒幕だと知った憤りと悲しさ、そして決別による誤魔化しようのない寂しさを胸に、今ネクは日々を生きている。
得たものを生かし、悲しみを忘れぬように、と心に刻みながら。
その中で、目の前に立つ羽狛その人もまた、裏で糸を引いていた者と同じ場所に立っている人物だと知って、より視線を合わせづらくなっているのだった。

 

 

 

「珈琲飲んでくか?有料で」
「…だと思った」
「あっはっは!まぁそういうな」

『有料』という言葉にげんなりするネクを、爽やかに、かつ豪快に笑い飛ばしてカウンターの向かい、キッチンへと立った羽狛は、楽しそうにコーヒー豆を挽き始める。
『美味い!』と言うほどの珈琲ではないのだが、実は結構手間暇をかけているらしい。
一方的に作り始めてしまったマスターを眺めやり、寄る場のないネクは仕方なくカウンターに腰を下ろした。

「なぁ羽狛さん、UGであったこと、全部知ってるんだよな?」
「ん〜?何だ藪から棒に」
「別に…ただ…」

ふんわりと薫り立つコーヒー豆の香りに抱かれて、誘われるようにカウンターにうつ伏せる。
眠りへと誘うかのような柔らかく温かい香りが、店内いっぱいに広がって、荒んでいた気持ちも自然と落ち着かせてくれるから不思議だった。

 

「俺、何か…アイツのこと、忘れそうで怖いんだ…」

自然と零れるようにネクの唇から漏れた言葉に、羽狛は挽き手を止め、うつ伏せになってこちらに頭を向けているネクをじっと見つめる。
そんな視線に気付かないネクは、カウンターに薄っすらと残った染みのあとを指でなぞりながら、言葉を継いだ。

「最近、ふとしたときに思い出せなくなってる気がする…声ははっきりと今でも覚えてるのに、それすら今では遠く聴こえる…そしたらいつか…」

 

――――『俺はアイツを忘れてしまうのかな?』

 

寂しそうに、悲しそうにか細い声がそう呟いた。
何かに耐えるように伏せられたまま、表情の見えない状態で本音を零す姿に、羽狛は先日の来客の残像を重ねてみていた。

無意識か、それとも偶然を装った必然か。
今ネクが座っている場所で、ネクが想う人物が同じように苦しげな想いを吐露し、静かな嘆きを置いていった。
何処までもそれは純粋な想いで、ネクを想い決別を選択したその人にとっては、我が身を裂くほどの決意を強いられたのだ。
『逢いたい』とそれでも強く吐き出された願いすら、愛しく想う故に斬り捨てて。

 

同じように、ネクもまた決別の代償に抗っている。
『忘れたくない』のだと訴える彼に施された最後のゲームエントリー料、それは『UGでの記憶を失うこと』。
一度生まれた絆は消えずとも、いずれ時が経てば、他の仲間との出会い・羽狛と知り合った経過・UGに関する過去の記憶が全て消滅するだろう。
人が自然と忘れてゆくように、ゆっくりと、確実に記憶を奪ってゆくのだろう。
そんな決して逃れることの出来ない呪縛に囚われて、それでも必死で忘れまいとしているのだと思うと良心が痛んで仕方ない。

 

 

 

「羽狛さん…俺が忘れてたら、思い出させてほしいんだ」
「ネク…」
「約束、してくれますか?」

静かに申し出られた願いに、羽狛はとっさに返す言葉を失った。
面を上げてじっと見据えてくる瞳には、未だに取り除けない深い哀の色が滲んでおり、それが皮肉なことに、この幼い少年を酷く大人びて見せていた。

「…わかった、忘れてると思ったら訊きに来い」
「っ!…ありがとう、羽狛さん…」

我ながら、酷い約束をしたものだと羽狛は思った。
『訊きに来い』ということは、訊ねてこなければ答えない、ということだ。
記憶を失っていっているのだと感じつつも、こうして緩やかに削がれていけば、いずれは疑問に思うこともなくなるはずなのだから、酷い約束といわずして何と言うのだろう。
それとは気付かぬネクは、ただほっとしたような表情を浮かべて羽狛の止まったままの手元を眺めていた。
視線に気付いて作業を再開すれば、再び暖かな香りが立ち込める。

 

 

 

 

 

「ネクーいるー?」

からん、と盛大な明るい音を立てて、勢いよく扉が開かれる。
踊るように飛び込んできた活発な少女のおかげで、しんみり、ゆったりしていた気配が、爽やかな色彩豊かな気配に彩られた。

「シキ、どうしたんだ?」
「もう!約束の時間!ネクって忘れてるでしょ?」
「あっ!」
「やーっぱりね!」

弟を叱る姉のように呆れつつの会話でさえ、UGのときとは姿かたちは違うものの、彼女本来の明るさが満ち渡った。
手を取られ、行こう、と促されるネクは、あっという間に引きずられるようにしてカウンターからドアまで連れて去られる。
躓きそうになりつつも、振り向きざまに『また今度飲みに来る!』と言葉だけ置き去りにして、ネクは花嵐の精に攫われてしまった。

「ははっ…お嬢ちゃんの本領発揮、ってやつかねぇ」

あまりの展開に、自然と笑みが零れる。
しかし、その笑みも止めば、ささやかな不安が胸を過ぎった。

 

ネクがUGの記憶を失っても、最後のゲーム参加者ではないシキやビイトといった他の連中からは、どれだけ時が経ってもUGに関する記憶が失われることがないのだ。
あるとすれば、夢にすり替わる、という人間特有の記憶操作のみ。
しかし、羽狛には、あのしっかりしたシキが忘れるとも思えず、記憶を失ったネクにどう対処していくのか、見当すらつかず不安が募る。
ネクを大切に想い、人を思いやれる彼女なら、ネクにとって何が良いのかわかっているのだろうけれど。

「どうする?…このままだとネクをもってかれちまうぞ」

がらんどうの店内に、誰に宛てるとも知れぬ言葉を贈り、そっと今までのやり取りを思い浮かべる。
酷い約束を交わした直後、大人の汚さなどまだ知らないネクが見せたのは、不釣合いなまでに印象的なもの。
今にも泣き出しそうなのに、涙を堪えて笑ってみせる笑顔は痛ましくも美しくて。


――――あいつにとって、何が『良い事』なんだろうなぁ…


取り残された店内でカウンターに体重を預けながら、羽狛は細くため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

2007/10/09(Tue)  from memo

何故か続いてしまったpart2☆
『大人と子供の境界線』の続きに当たります。
そして、まだ続く(笑)


*新月鏡*