kiss or ...?
「おい、ちょっと手ぇ貸せ」 食器を洗い終わった直後、ソファに座って本を読んでいたヒロさんにそう言われた。 タオルで手を拭きながら、何かあったかな?と思案をめぐらせる。 本を読んでたのは記憶しているが、何か荷物でも届いていただろうか? とりあえず、ぶっきらぼうに投げられた声に従って、まだ水気の拭ききれてない手のまま踵を返す。 傍まで寄っていけば、寄越せ、と言わんばかりに差し出された手のひら。 さっぱり意味がわからないが、望まれるがままにその手に自分の手を重ねる。 「まだ濡れてますよ?」 「いい」 「ヒロさん?」 指先に残る雫がぽたりとヒロさんの袖に染み込んでゆく。 冷たい水に晒した手は予想外に冷えていたようで、普段なら冷たく感じるヒロさんの手のひらからじんわりと温かな熱が溶け込んでくる。 そんなささやかな違いにドキドキしている俺を他所に、腕まくりしていてむき出しになった俺の腕を、ヒロさんはまじまじと見つめつづけて。 訝しがって見守っていると、何を思ったのか、 「いっ!」 いきなり噛み付かれた。 それも、歯型がくっきり残るんじゃないかってくらにキツく。 思わず腕を引こうとすれば、それを遮るように腕に両手を絡めて阻止してくる。 これが甘噛みだったら最高に可愛いのに、なんてそんな妄想吹っ飛ぶくらいの痛みがジンジンと神経を刺激して。 ただでさえその痛みに耐えかねているのに、そんな俺を試すように、時折ねっとりと舐められるのだから、たまったものではない。 さすがにこれは耐えられない、と慌ててギブアップを叫んだ。 「いた、痛いですヒロさん」 「んー…」 「離、して…くれませんか?」 「……」 痛みに耐えつつ、じっと離してくれるのを待っていると、諦めたようにヒロさんの唇が離れる。 たっぷり5秒以上はかかったが、去り際に再び可愛らしい舌先で残された歯型を舐められてしまえば、そんなじれったさも意識の外へと飛んでゆく。 これは襲ってくれというお誘いなのだろうか。 いや、待て自分。 この人は無防備なくせに、恐ろしく無自覚な行動が多い。 いちいち反応していたら、きっと逃げられてしまうに違いない。 あぁ、嬉しいような悲しいような。
「…で、何で俺は噛まれたんですか?」 「別に……お前の腕見てたら噛みたくなって」 「…はぁ」 とりあえず事情を聴いてみよう、と問いかければ、何でもないようにそっけなく言われてしまって、思わず脱力してしまう。 これが顔を真っ赤にしてたり、慌しく弁解してきたりなんてことがあれば、何かの意思表示だと取れるのに。 今回は本気でただの気まぐれだったようだ。 俺はてっきり誘ってくれてるんじゃないか、って夢見がちな勘違い炸裂させてしまいましたよ! そんなそっけない貴方も好きですが、翻弄して煽ってばかりだと、そのうち俺でも小さな報復を考えますよ? などなど、悶々と落ち込みつつ考えていると、再び歯形の残った腕を手に取られた。 「ちょっと鬱血してるな」 「まぁ、あれだけ噛まれれば…」 「……悪かったな」 ぽそっと零された言葉と共に、さらさらと素肌の上を白い指先が滑る。 優しく撫でる指先が心地いい。 うっとりしそうなくらいの心地よさに呑まれつつ、そっとヒロさんを見れば、少しバツの悪そうな顔をしていて。 少し伏せがちの眼がじっと腕の歯形を眺めている。 そんな姿を見ていると、こんな雰囲気も悪くはないかもしれない、と思えてくる。 照れ隠しで顔を真っ赤にしたヒロさんもいいけど、こうして時たま見せてくれるまっすぐな優しさがとても好きで。 本当に綺麗だなぁ、と思う。 視覚的なものもあるにはあるが、それ以前に、ひたむきな感情が何より綺麗な人だから。 想いを馳せて自然と零れた笑みに、視線を上げたヒロさんが小さく赤面する姿が可愛くて。 「っ……痛い目みせた代わりに、いいこと教えてやる…」 「はい」 「か、勘違いするなよ!……あ、あのな、」 しどろもどろ。 気恥ずかしさと必死に戦って、懸命に伝えようとしてくれた言葉は、再び俺の勝手な勘違いを招くほどに驚くもので。 ぽそぽそと耳元で囁かれた声が途絶えた時、真意を確認しようと至近距離に捉えた表情を覗き見れば、答えは明らかで。 「ヒロさん……口説いてるんですか?」 「なっ、何?!」 「キスと噛むことが同じ愛情表現だった、なんて…それってつまり告白ですよね?」 「っ…!ばっバカかお前!言っただろ?これは昔の話だボケっ!」 「でもさっき思いっきり噛んで」 「黙れクソガキ!」 顔を真っ赤にしたヒロさんが、一人でパニックに陥ったようにわたわたと俺の手を放り投げて逃げ惑う。 そんなヒロさんを他所に、俺は心底感動してしまって。 教えてもらったことは、俺にとって文字通り『いい事』なわけで。 『噛み付くことってな、キスの延長線上にあるらしい。昔は噛むことも愛情表現の一つだったんだと』 痛そうだよな、とか何とか言ってたけど、そんなことは意識の外にあって。 だってよく考えれば、俺がさっきされたことを愛情表現だって言われたようなものだ。 自分から好きだと意思表示してくれることの少ない人だから、無意識にでもそうして示そうとしてくれたことが嬉しくて。 むしろ無意識に求めてくれてたということが何より嬉しかったりして。 こんなこと言ったら、絶対殴られるだろうけど、ヒロさんからもらえる痕なら、いくらでも意思表示として受け取れる。 もっとください、と強請ってもいいかもしれない。 「ヒロさん、可愛いすぎです」 「も、もう喋んな!」 「じゃぁ…『答え合わせ』してください」 「え?っぁ…」 逃げ腰になる身体を抱き寄せて、そう強請るように囁き返す。 ソファーに組み敷いた細い身体は、幾分体温を上げて強張るから、どうしようもないくらいの加虐心に襲われる。 壊れるほど愛したい、なんて何処かのラブソングみたいだ。 ――――ねぇヒロさん、俺の勝手な思い込みは、貴方の求めてるものと合っていますか? 探るように口づけて、ゆったりと甘い空気を呼び起こす。 まだ緊張して強張っている身体をゆっくり解くように手のひらで撫でて、怯えて逃げる舌先を捉えて、深く絡める。 口内を味わうようになぞっていると、その刺激にふるりと小さく震えるから、余計に煽られて。 試すように変化をつけつつ、知り尽くした唇を蹂躙する。 時折噛み付くようにキスをすれば、教えてもらった言葉が戻ってきた。 加速する欲情の中に、ささやかな理性と少しのいたずら心が沸き起こる。 「やっぱりヒロさんはすごいです」 「んぁ…はぁ?何言っ…いっ、た、コラ野分!」 柔らかな肌に唇を滑らせて、どくどくと脈打つ首筋に噛み付いた。 先ほどヒロさんが俺にしてくれたみたいに、噛み付いた場所をなぞるように舐めて、キスを落とす。 教えてもらったことを実感できたことが嬉しくて、思わず実践してみたら、すかさず拳が飛んできて、鋭い一撃でもって俺を床へ沈めた。 もしかしたら甘く喘いでくれるかも、と思ったが少し急ぎすぎたみたいだ。 「てめぇ…調子乗ってんじゃねーよ!」 「酷いですヒロさん…俺、ヒロさんの言ってたこと、ちゃんとわかって嬉しかっただけなのに…」 「うるせー!勘違いすんなっつっただろ?」 殴られた部分を抱えて痛がってる俺を他所に、さっさと腕の中から逃走したヒロさんは、ぷいっとそっぽ向いてそ知らぬフリだ。 逃げるといっても、俺の腕の中からってだけで、同じソファーの端っこに、ちょこんと座り直しただけなのだが。 そんな距離に、完全に嫌がってるわけじゃないとわかるものの。 「ヒロさん」 「……」 呼びかけても応えてくれない。 背中を向けたまま、放り出されていた本を手にとって、しおりの挟まったページをぱらりと開く。 そしてその流れのまま、テーブルの上で待ちぼうけをくらっている珈琲に手をかけると、お待たせ、と言わんばかりのこれ見よがしで一気に飲み干す。 ――――あぁ、完全に機嫌を損ねてしまった この分じゃ、しばらく許してもらえそうにないかもしれない。 手の届く距離にいるのに、なんて拷問だ。 「ヒロさん」 「…」 「ヒロさん…お願いですから無視しないでください」 「…」 「もうしませんから…」 しなしなと声のトーンが下がってゆくのが自分でもよくわかる。 情けない顔をしてるんだろうな、と思いながらも止められないのは、そうしていればヒロさんが折れてくれるのを知ってるから。 可愛いヒロさん。 ホントの俺がこんなにズルい奴だって知ってても、ちゃんと許してくれる可愛い人。 だから手放せなくて、だから少し困らせたくなる。 もっと色んな表情を見たくて、色々仕掛けて、そしてたまに、こうして失敗する。 すみません、でも絶対止められそうにないんで諦めてください。 心の中で半分謝罪して、黙り込んだ背中に縋るようにこつんと頭をぶつける。 ぴくっと反応はするものの抵抗がないことを確認すると、こっそり忍び寄って、そろりと腕を伸ばしてみる。 腰の辺りを引き寄せて、自分の身体でひと回り小柄な身体包み込むように抱きしめて。 赤く染まった耳元に唇を寄せると、目一杯の甘さを込めて囁く。 閉ざされた扉を開く呪文は、ただ一つ。 「好きです、ヒロさん」
さて、俺からの問題です。 ヒロさんの可愛い意地っ張りは、いつまで保つでしょう?
* * * * 2008/07/17 (Thu) 野分が若干黒い。 新月鏡
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