「固定概念の潜在意識」

 

 

 

ある日、とあるアパートの一室で、主不在のまま勉強会が発足されていた。

きっかけは、ただの俺の思いつきと、親友の粘り強さからだ。
今日は気分的に直哉の家に行こうと思い至ったので、特に用事のないまま足を進めていると、うっかり篤朗につかまってしまったのが始まり。
途中まで帰路は一緒のため、急に方向を変えた俺を不審に思ったわけだ。
篤朗には、直哉感知アンテナがあるのかもしれない。
盲目的に直哉を尊敬している篤朗が、直哉の家に行くというのに、ついて来ないわけがない。
師弟の絆は思う以上に深いものか、などと考えている間も、『俺も行きたい』の一点張りだったため、ついに断りきれなかった俺が諦めて今に至る。

「何も用事ないのに家に行こうなんて、よく思うよなー」

宿題を進める合間に、篤朗がそんなことを言い出したので、思わず手が止まってしまった。

「それって変なの?」
「変っていうか……普通はそう思わないんじゃねぇ?理由とかないと行けない、みたいな雰囲気とかあるじゃん!」
「用事がなきゃ来るな、なんて言われたことないし、当たり前のことだったからなぁ…そんなこと考えたことなかったけど…?」
「…ちょっと異常な気がして来た…」

用事がなく、直哉がいて、俺がいて、お互いに特に干渉し合うことなく、ただ同じ空間で同じ時間を共有している、というだけの状態。
何の疑いもなく、ただそうして生活してきたため、特におかしいと思ったことは一度もない。
それが異常だと篤朗に言われて、ちょっと驚く。
どこら辺が?と訊いたら、「自覚なしかよ」とげんなりされた。
失礼な、と思いながらも己を顧みてみたが、どこもおかしいことはない。
一般常識での従兄弟としてみれば、確かに俺と直哉は違うかもしれない。
それは、一緒に育ってきたからで、いわば兄弟同然、ってだけの話だと思ってた。
でも、篤朗が言うにはそういうことでもないらしい。

「何ていうか…そう、2人でいるとしっくりくるんだけど、それが異常…って感じなんだよなー」
「何それ」
「うぅぅ…上手く言えねぇ〜」

意味のわからないあやふやな回答をしてのけた篤朗は、俺の切り返しを受けて頭を抱えてうんうん唸ってしまった。
そんな篤朗を尻目に、俺はそそくさと本日出された宿題を片付けていく。
特に難しいこともなく、今日習ったことそのままの課題なので、会話半分の意識で適当に解いてしまえる宿題。
それを、何故篤朗と2人がかりでやってるかというと、篤朗本人たっての希望だからだ。
篤朗自身、この程度の宿題が解けない頭じゃない。
その証拠に、すでに俺より2、3問ほど先の問題が並んでいる。
数式が混じると篤朗はつよいなぁ、と少しだけ悔しい気持ちは隅のほうへ追いやって、少しでも篤朗に追いつこうと手を動かす。

「サキの眼から見て、直哉さんってどうなの?」
「どうって……『直哉』?」

不意に問われた意味を捉え損ねて、ぽかんとしてしまう。
というか、どうってどういう意味だろう。
あの傲慢なまでの態度や言動、唯我独尊状態の従兄を、『直哉』だと表現する以外俺には思いつかない。

「じゃなくて、頼れるお兄さん的存在!とかあるだろ?」
「ん〜…あるかなぁ?」
「あの直哉さんだぞ?!あの誰と並んでも違和感のある、明らかに別格オーラ!」
「アツロウ、妄信的に直哉を見すぎ」

きらきらと眼を輝かせて、いかに直哉が一般的のラインから逸脱しているのかを話し始める篤朗に、思わず苦笑してしまう。
何をどうしたらそこまで妄信的にあの従兄を尊敬できるのか。
従弟である俺からしてみれば、尊敬からは程遠いところにいるような人間だと思う。
だからといって、俺は直哉が嫌いか、と言われれば、即刻否定して小1時間ほど説き伏せるくらいには、思うところがあるのは間違いない。
嫌いとは真逆で、好きだけど何か曖昧、ただ、そこにいて当然、そんな感じの人なのだ。

「じゃぁサキは尊敬してる、とか憧れてる、とかそんな気持ちはないのか?」
「ないない、あったら今頃呼び捨てでなんて呼んでない」
「あ、それも変なんだよなー、サキは」
「何処が?」
「たとえ兄弟同然に育ったからって、普通、従兄のしかも7歳も離れた人を呼び捨てするか?」

しないだろう?なんて、同意を求められても、正直物心ついたときには『直哉』と呼び捨てていたため、どうしようもない。
へぇ、一般常識では、呼び捨てにしないんだ…くらいに他人事だ。
篤朗は意外にそういった枠組みを気にするらしい。

「だって、直哉は直哉じゃない?」
「俺がどうした?」
「おわっ直哉さん!おおお邪魔してますっ!」
「…篤朗、来ていたのか」

へにゃっと笑って適当に答えて返すと、件の直哉が突然背後から現れた。
足音を全くといっていいほど消して現れたため、篤朗は瞬間冷凍されたみたいにカチコチに固まってしまって、動揺にまみれた挨拶を交わしている。
直哉のことを師匠と崇めているだけに、一目瞭然で腰が低くなっているのが少し可笑しく思えてしまう。
そんなやり取りを眺めつつ、俺はいつものように突っ立ったままの長身を振り向き仰ぐ。

「おかえり、直哉」
「あぁ、ただいま、紗祈」

なんてことはない、この部屋で繰り返される日常会話。
差し出した言葉に返される声が心地良くて、ふわり、自然と笑みが零れた。
そんな俺を見て、直哉の目元が少しだけ、ほんの少しだけ柔らかくなる。
直哉と交わす、こんなささやかなやりとりが、とても好きだ。
尊敬だとか、憧れだとか、そんな煌びやかなものなんて何一つない。
ただ、そこに『在る』ことが、本当に当たり前のことだと漠然と思うのだ。

「あ、そうだ聞いてくださいよー!サキの奴、直哉さんのこと、蔑ろにしてんですよー!」
「ほぅ?」
「尊敬してないし、憧れてもいないんですって!」
「あ、アツロウのバカ!」

篤朗の告げ口に、直哉は面白可笑しそうなものを見るように俺を見てきた。
あぁ、またからかわれる材料が直哉の手元に…。
思わず、先ほどまでの暖かな気分が吹き飛んで、がっくり肩を落としてしまう。
意地悪モードに突入した直哉は、自分の気が済むまで人をからかうから性質が悪い。

「それで?」
「え…?」
「本当はどう思っている?」

にたり、と意地の悪い笑みを浮かべて、直哉は俺の座っている椅子の背もたれに手をかける。
先ほどより自然と近づいた距離に、答える以外に開放される術はないのだと知って、さらにため息が出てしまう。
のどの奥でクツクツと笑う直哉は、本当に意地悪で楽しそうだから、素直に答えるのは癪なのだが。

「空気みたい、と思ってる」
「…」
「…」

思ったことを素直に口にしたのはいいが、篤朗と直哉の沈黙がとても痛い。
さらに突き刺さる視線が抉るように痛い。
篤朗に至っては、少し顔が青ざめているような気がしなくもない。
少し哀れみを含んだそんな目で見ないでほしいところである。

「なるほど…そこまで想われていたとはな…いやいや従兄冥利に尽きる」
「へ?今ので何が伝わるんっすか?!」
「…ふっ…お前には、わからないのか?」

愉快でたまらないといった表情で低く笑う直哉に、放り出された篤朗が即座に突っ込むが、余裕をかました直哉に鼻であしらわれる。
直哉を妄信的に尊敬している篤朗が、とても可哀想に見えてくるからたまらない。
だが、思いもよらぬ言葉を乗せた声が耳に届いた瞬間、篤朗への同情心は一気に吹き飛んでしまった。

「…今、な、んて…?」
「だから、空気なのだろう?そこに在るのが当然で…」

ゆっくりと耳に馴染ませるように告げる声は、俺の予想を遥かに裏切る言葉を吐いた。
その言葉にまばたきすら忘れた俺を一瞥すると、直哉は至極楽しそうに、勝ち誇ったような笑い声を零して、くしゃっと俺の頭をひと撫でした。
直哉が仕掛ける動作に反応することも出来ず、俺は微動だにできないまま、隣の部屋へ去る背中を、ただ呆然と見送っていた。
まさかそんな風に解釈して返すとは思ってもみなかったため、意識回復するまでに数秒かかってしまう。

だってそうだろう?
空気とは言ったし、最初の部分は間違ってない。
そこに在るのが当然だって、それは自分でも自覚してたし、それだけの意味だと思ってたのに。

なのに…


――――『なくては生きるもままならない、必要不可欠なものだ』


「…やっぱりサキたち異常だよ…」
「違う、直哉が異常なんだ!」

未だ哀れみのこもった視線に、俺はそう叫ぶだけで精一杯だった。

 

 

 

 

 

* * * *

2012/05/09 (Wed)

日記より。
こんな日常だととてもおいしい…Vvv
いいじゃない、こんな直主!


*新月鏡*