「均衡天秤の危険性」

 

 

 

とん、とん、と軽い足音を立ててビルからビルへと飛び移る。
もはや人の身でなくなった今の俺は、本当に人外な行動すらいとも容易く出来てしまえる。
それを見て、やはり人々は脅威に思ったり、排他的な視線を送ってくるが、仕方ないことだと考える。
俺だって、こうして我が身に降りかかってこなければ、きっとそうした意識が働いていたことだろう。
そんなくだらないような、それでいて大事な感情の思案をしていれば、ふと、見知った影が前方に現れる。
影の手前に軽く降り立つと、そこには神秘的な雰囲気を纏った少女がいた。
ふわりと風に煽られなびく髪と不可思議な髪飾り。
九頭竜天音と名乗り、その身のうちに天使を宿す少女だ。
この俺に『救世主』という名を冠させたのも、彼女の…ひいては彼女の身に宿す天使の思惑から。
そして、俺と直哉の絶対的な溝を作り上げた存在で、直哉の敵側にいる者。

『どこへ、行っていたのですか?』

静かに、異質な声が問いかける。
コレは天音ではなく、彼女の中の天使・レミエルの意思からの問いかけだった。
淡々と抑揚のない音で紡がれる言葉は、問いかけというよりは詰問するような鋭さを秘めたまま俺に投げかけられる。
視線は何処となく剣呑としており、責めるような印象さえ受けられた。

「何処へでも。俺の行きたいときに行きたいところへいくけど?」
『答えになっていません。隠さず述べなさい』
「俺は、重ねて聞き出そうとするほど悪いところへは行ってないと思うけど?」

どこまでも言葉をはぐらかす俺に、レミエルはきゅっと唇を噛んで言葉を詮索しているそぶりを見せる。
天使も言葉に詰まることがあるのか、などと考えていると、諦めたようなため息がひとつ聞こえた。
視線を上げて見やれば、そこには哀れみにも似た視線を返してくる天音の姿。
見慣れたその姿に、何故かそのとき、ざわりと居心地の悪いものを感じてしまった。

『……迫紗祈よ、貴方をそうして悪意へ引きずり込む元凶を知っているでしょう?』

悪意だと……彼女に感じた居心地の悪い感覚を『悪意』だと言い切ったとき、俺の中の何かが吹き飛んだ。
俺を悪意へ染めるのは、いつだって外界の刺激だ。
レミエルの指し示す人物だけじゃない。
人なら誰しも抱える感情で、誰もが些細なきっかけで暴発させるものだ。
環境、人、感情、それら全てが重なって『欲』が生まれ、『悪意』は生まれる。
それこそ人の持つべきもので、それらをコントロールして生きることに『人らしさ』が付随する。
なのに……

「…俺を負の感情へ引きずり込むのは、俺の感情と俺を取り囲む環境が食い違ったときだけだ」
『いいえ、心優しき愛し子よ。貴方をそこへ追いやるのは、いつもカインの思惑が絡むとき』
「違う!」

とっさに怒鳴っていた。
一瞬遅れて我に返れば、さらに憐れむ視線に深さが増していて、俺を苛立たせる。
何を憐れむ必要がある?
何もいらない、俺は間違ったことは言ってない。

ただ、ひとつ、許せなかった。

ただ、ひとつ、言わせてはならないことがあった。
「カインなんて人間は現在<ここ>にはいない…二度と直哉を指してカインなんて口にするな…」

どす黒い音とともに吐き出した声は、まるで別人のように無機質に響き、その音を聴いたレミエルは思わず耐えるように瞳をきつく閉じた。
怯えるように、恐れるように、ゆれる視線で眼前の天使は俺を見る。
毅然とした態度の向こうで、俺を扱いあぐねているのがよくよく見て取れておかしかった。

『迫紗祈…いいえ、ア・ベル。貴方は、あの楽園でのことを忘れてはなりません。貴方が彼を擁護することはないのです』
「…はぁ……ねぇレミエル…いつになったらわかってくれる?俺はアベルじゃないし、殺されてもいない。俺は『迫紗祈』でしかありえない。そして、魂は同じかもしれないけど、直哉は直哉だ。直哉に関しては、ただカインの記憶を継承しているだけじゃない?」
『そもそも、その解釈が間違っているのです。彼は貴方を利用し、この世界を地獄の混沌へ放り込むために、ひいては神に牙をむくために、あの夏の惨事を引き起こしたのですよ?目を覚ましなさい神に愛されし子よ。いずれは彼の者を討つことも』
「いい加減にした方がいい…そろそろ、本気で怒るよ?」

ぐらり、この身体を支えている芯が揺らぎそうになる。
これを『悪意』というのだと、天使は知らない。
そして知ることもないのだろう。
そう、この『悪意』を今生み出し、与えている原因は『レミエル』なのだとういうことに、レミエル自身が気づかない限り。
冷たく目を細めた俺に、「何故わからないのです!」と諌める声が降るが、俺のほうこそ何故わからないのかがわからない。
こんなにも当たり前のことを、天使は何一つ理解できない。
あぁそうか、だからか…。

「だから、カインの想いも理解できず、彼を悪だと突き放すばかりなのか。レミエルたちがそんなだから、直哉もその悪循環に囚われてるんだね…」

生れ落ちて、曖昧な記憶を夢に見ながら、諸悪の根源だと罵られ、傷つけられた人間の末路はどんなものだろう?

『何を突然…?』
「どうして悪だと決めつけられなきゃならない?何故罰を受け続けなければならない?それが愛だと思えという方が無理だと思う」
『カ…いえ、迫直哉へ科せられた魂の拘束のことですか?あれは、神の慈悲なのです。己の罪を認め、悔い改め、神へ許しを乞うことで救われるはずなのです。神が、彼自身の力でその答えにたどり着くことを願っているために、厳しい枷を与えたに過ぎません。』

なんて、聞こえの良い言葉だろう。

その神の慈悲で、どれだけ直哉は傷ついた記憶を辿ってきたのだろう。

決して自分の…その時代での人生を謳歌することなく、神様の監視下で暗い記憶に囚われて。
麻痺してしまった「人らしさ」が、今の直哉を作り上げてしまったと、何故気づかないんだろう。
誰といても異質な空気を抱き、希望の失せた瞳で世界を傍観する彼に、どうして神様の愛とやらが届くというのか。
この人生は、『直哉』のものであるはずなのに、行動理由・保持する記憶・培われた思考・人としての想い、何一つ彼のものになりえない。
神様の足枷が、須らく直哉をカインへと繋いでしまうから。


――――直哉は、直哉なのに…


「そうやって、『直哉』を苦しめるなら、俺はその神様を許さない」
『なっ…何を言っているのです?今、自分がどれほど愚かなことを口にしているのか、わかっているのですか?』

ポツリ、零した俺の決意に、驚愕に打ち震えた天使は咎めるように立ちふさがる。
きっと、天音ならばわかってくれたはずだろうこの感情を、天使は理解できないでいる。
それはおそらく、神様もそうなのだろう。
慈悲だ、愛だと公言しながら、その実、人の持つ『想い』を理解していないのだ。
そもそも、理解する必要すらないと考えているのだろう。
それが傲慢なのだと、直哉がここにいれば、間違いなく蔑むように吐き捨てるだろう見解の相違だ。

「ねぇ、レミエル……この感情はね、人として当たり前のことなんだよ?」
『それが迫直哉の与えた『悪意』だと言うのです!』

この天使は、本当に聞き分けがないらしい。
理解の始まりは、まず耳を傾けることにあるというのに、彼女は理解しようとする意思を、自らでことごとく粉砕している。
子供のような相手に理解させるには、面倒だがそれなりの手順を踏むしかない。
やれやれ、といった態度で小さく息を吐いて視線を上げると、天使は俺に挑むかのような視線で対峙してきた。
本当に、そんな態度をとるくらいなら、もっと他に割くべき事があるだろうに。

「だったら訊こう…神様を傷つけられて平気?」
『ありえません、神を傷つけるなど』

返ってきた答えは、素早く、かつシンプルな言葉。

「貶されて平気?」
『その言葉を口にしたものは、須らく葬られます』

絶対者を信じ…いや妄信に近い従順さで答えて返す。

「…殺されそうになって、平気?」
『その前に、我々がその者を屠ります』

我が身を省みず、ただ信じる神様のために身を尽くすことが幸福だと、言葉の端に滲み出る。

「じゃぁ、答え合わせだ」


――――「大事な家族を傷つけられて、平気な人がいると思う?」


静かに、俺の声は空に溶ける。
神様至上主義の天使には、周りがとことん見えてないらしい。
だったら、その絶対者が、人にとっては誰でも代わりになることを気づかせるしかない。
人間にとって、何が一番なのか、それは人それぞれだってことを知らしめるしかない。

『……!』
「同じだよ、そう、全く同じ、簡単な感情なんだよ。人だろうが、神様だろうが、俺にとって大事なら同じ意味を持つんだ」

俺は、決して善ではない。
救世主と呼ばれても、神様の近くにいたとしても、人とはかけ離れた身体になってしまったとしても、俺は俺でしかない。
人として持つべき感情があり、それに従って動くのだから、決して善ではありえない。
何故、天音と、レミエルといる道を選んだのかといえば、俺の周囲にいる大切な人たちが幸せであれば良い、と願ったからにすぎない。
本来なら、悪魔を消し去る術も、制御する選択だってあった。
もちろん、直哉の手をとり、神様と戦う道だってあった。
それでもそれら全てを選ばず、この道を選んだのは、今までの日常を取り戻し、『神の試練』を行わせないためだ。
神様が行う全てのことに、俺が「人として」意思を介入させることで、少しでも軽減できれば良いと考えたからだ。

篤朗が望んだ『悪魔の有効利用』
柚子やハル、ジンさんたちが望んだ『平穏』

そして、直哉が望んだ『神の試練の抹消』

それら全てを少しずつ取り入れて成し遂げるために、俺はこの道を選んだのだ。
決して神様の言葉にただ従って、この世を楽園にする、なんて意思はない。
俺が願う日常を、神様と悪魔の手を借りて取り戻す、ただそれだけ。
もし、俺が道を外しそうになれば、きっとみんなが助けてくれる。
気づかせてくれる。
それが俺の望んだ未来だ。

「ひとつ断っておくけどね、俺は『救世主』なんかじゃないよ。ただ、自分の手の届く人たちに幸せであってほしかっただけ」

それだけの願いで俺はここにいる。

「レミエル、間違わないでほしい……俺は人として生きてる…だから忘れないでね?」


――――この手を返すことも、たった一つのささやかな願いだけで可能なんだってことを


耳元で囁くように告げれば、身を硬くした天使は怯えたように後退った。
そう、俺は傀儡じゃない。
俺を突き動かすのは、俺の中にある大事な人たちの存在だ。
世界規模の平和だとか、どこかの誰かの幸せだとか、そんなところになんて意識はない。
本当に、ただこの手の届く範囲の幸せを望んだに過ぎない。
そして、それには紛れもなく、家族である『直哉』も含まれているのだ。

「俺は善ではありえない。そして悪でもありえない」
『アベル…』
「そんな俺を大切な人たちが支えてくれるから、ベルの王となったとしても、人として生きていけるんだ」

きっと俺は、釣り合いのとれた天秤みたいな存在なんだ。
神様、そんな俺には少しの刺激だけで傾く危険性があるんだよ。

「だからね、ちょっとは理解したり、大切にした方が良いよ」

誰を、とは言わなかった。

何を、とも言わなかった。

だが、レミエルにはそれなりに伝わったらしい。
初めて見る苦々しい表情を湛えて、彼女は天音の内側へと帰っていった。
代わりに現れた天音は、ぼんやりと、それでも少し悲しげな表情で俺の言葉を聴いていた。
彼女はその言葉を理解し、共感した上で天使側についているのだから、それはそれでいい。

「全ての悲劇は、相手を理解しないことで始まるものだよ」

最終警告には程遠い警鐘を、俺は見上げた空に囁いた。

 

 

 

 

 

* * * *

2012/05/09 (Wed)

我が家の主人公が、アマネルートを選んだ理由。
うっかり魔王ルートに転びそうになる危うさで、神様と渡り合ってると思います。
これも全て、『どのルートに行ってもニュートラル』という絶対条件に基づいた結果です。


*新月鏡*